Monthly Archives: 12月 2016

(192)世界、日本の今を根底的に透視するー佐伯啓思『反・民主主義論』を読む

年の暮れになると否が応でも一年の回顧をしてしまう。代議士として飛び回っていた頃には、新幹線車中でのゆとりある時間に読書に励み、多い時には年間100冊を超す本を読んだ。しかし、引退後は新幹線にあまり乗らないこともあって、読書がはかどらない。というのは言い訳なんだが、本年はとうとう40冊を切ってしまった。その分、多くの人に出会い、動き回ったものとして後悔はしないことにする。振り返って、最も印象に残るものは佐伯啓思さん(京大名誉教授)の一連の新書だ。『反・民主主義論』をこの12月に読み、順に過去の作品に遡り『さらば、資本主義』と『日本の宿命』を年末ギリギリに読み終えた。様々な意味で感銘を受け、いま満足感に浸っている▼佐伯さんのものは、これまであれこれ読んできた。とりわけ『西田幾太郎』には思索を深めるきっかけを貰った。団塊の世代に属するひとで、私なんかより少々若いが、彼は今や「文明論」の分野における第一人者だと高く評価したい。一般紙紙上に時々目にする論考も群を抜いてためになる。今年も数多く目にしたが、「世界史の転換点」と題した本年2月8日付けの神戸新聞の「識者の視点」は秀逸だった。一言でいえば、「欧州が生み出し、米国が軸になって世界化してきた価値観こそが試されている」ということに尽きる。イスラム過激派をめぐっての中東の状況も、ロシアや中国の言動も、欧米の価値観への反逆だ▼私がこの12月に遅ればせながら読んだ三冊は、試される価値観という観点から、日本の現状を透視したものでぐいぐい引き込まれた。いずれも雑誌『新潮45』に連載されたものだから、同誌の読者たちにとっては、何をいまさらと言われそうだが、仕方ない。私的にとても面白かったのは「朝日新聞のなかの”戦後日本”」という章。佐伯さんの思想的傾向とは合わないと思われている同紙との”最初の出会い”めいたものに触れられていて、笑いさえ催す。最近、「異論のススメ」などのコラム(11月3日付け「中等教育の再生ー脱ゆとりで解決するのか」は面白かった)で、彼を登場させている同紙だが、”すわり”が決して良くないと思うのは私だけだろうか。つまり、論者と新聞の関係に違和感があるように思われるのだ▼トランプ現象を見事なタッチで抉り、結局は「民主主義の本質そのもの」と位置付けるているのも興味深い。200年ほど前にフランス人貴族・トックヴィルが、地方の小規模な町のようなコミュニティにおける市民による自由な自治を、アメリカの民主主義の最上の部分だとして、取り上げたうえで、「共有する価値のもとでの公共的活動」という”習俗”が支えてきたことを考えてみるべきだという。確かに、「一方で自由な経済競争やIT革命やグローバル金融などで、共和主義精神も宗教的精神も道徳習慣も打ち壊しながら」、もう一方で「民主主義をうまく機能させるなどという虫の良い話はありえない」のだ。こう読み進めてきて、はたと気づく。この”習俗”って、我が自治会活動そのものではないか、と。(2016・12・30)

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【191】①-1 人生勝利の因は反復にありー中嶋嶺雄著作選集➇『教養と人生』

◆「忙中楽あり」と「忙中本あり」と

 中嶋嶺雄──私にとってこのうえなく巨大で近寄りがたく、かつ優しく身近な存在だった。この矛盾した位置に20代前半から60代半ばまで、ずっと中嶋先生は私の傍にあった。『現代中国論』を引っ提げて華々しく論壇に登場されたときの先生は未だ20代後半。その少し後の慶應義塾での非常勤講師としての講義は、ひよっこに過ぎなかった私には衝撃の連続であった。先生の「中国文化大革命批判」の重みは、ある意味で我が人生の色合いを決定づけたともいえる。先年亡くなられた直後に発刊された中嶋嶺雄著作選集第八巻『教養と人生』を読んで改めてこの人物の凄さを思い知るに至った。真面目に人生を考える青年たちすべてにこの本を読んで貰いたいと心底思う。

 私は単行本で中嶋先生の著作は殆どすべて読んできた。中国論それも初期の頃のものは、仰ぎ見る存在としての先生を彷彿とさせるものばかり。一方、この選集第8巻に登場する『リヴォフのオペラ座』や『オンフルールの波止場にて』などの文章はどこまでも優しい先生を、ひたすら漂わせるものが多い。尤も、私はかつてピアノ奏者を志した妻や、絵画に造詣の深かった義父を持ちながら、一向に芸術の道には開眼し得ていない。それゆえ、どこまで理解を深めることが出来たかどうか大いに疑問ではあるが‥‥。だからこそというべきか、この巻の編集を担当されたご次男の中嶋聖雄さんの解説に大いなる興味が募った。先生の東京・板橋区のご自宅にも伺ったことがあり、奥様とも幾度かお話をしたことはあるものの、ご子息たちとはこれまでご縁がなかっただけになおさらだ。

 この本での読みどころは、人間存在の基底部は、繰り返しによって形成されるということ、だと思われる。ご自身のヴァイオリン演奏における暗譜。語学習得における暗誦、繰り返しの重要性。このあたりについて触れられたくだりは示唆に富んでいて極めて興味深い。中国論については私は蟷螂の斧のように、身の程知らずに先生に体当たりを繰り返してきた。しかし、流石に音楽論には太刀打ちどころか、立ち向かって太刀を合わせることすらできなかった。忙しい最中に音楽を聴いたり演奏をされたりした先生が「忙中楽あり」と口にされている。これには「忙中本あり」なる言い回しを専らにし、実際に自著のタイトルに用いた人間としてニヤリとするのが精いっぱいなのである。

◆「父・中嶋嶺雄から学んだ」4つの教え

 聖雄さんが、「父、中嶋嶺雄から学んだこと」との一文の結論に四つ挙げている。第一に、自分の考えを文章として残し、発表すること。第二に物事を常識的に考えること。第三に個性的でありながら、協調的であること。第四に、国際的な公共性をめざすために国際人たりうるためにこそ、自らが生まれ育った土地や環境に根付いたアイデンティティを持つことの重要性である、と。実は私もこの四つは先生から教えて頂いた。何れも中途半端は否めないが、耳朶に残って離れない。

 最末尾に、父上の死が絶望すら抱かせる壮烈なものであったことに触れ、「落ち込んだ時、もう駄目だと思ってはいけない。自己否定をしてはいけない。そこには新しい選択が生まれる」との先生の言葉を引かれているのは強烈なインパクトを感じる。父上の死をきっかけに永住権まで取られていたアメリカから帰国し、「現代中国」を研究するという「新しい選択」をされたのだから。

 彼が早稲田大学アジア太平洋研究所教授として「アジアにおけるクリエイティブ産業」などの授業を担当する一方、現代中国映画産業における英文著書を執筆されてきたと知って驚いた。実は私は、北京電影学院客員教授の榎田竜路さんと親交を深めているからだ。彼は、中国の若者に映像制作などを講義する一方、日本の若者たちに認知開発力を培うなかで、地域の真の意味での再生を図るという壮大な試みに取り組んでいる。聖雄さんが目指す分野との関連性に思いをいたし、早速おふたりの間を取り持ったことも懐かしい。改めて中嶋先生との深い縁を感じて、ひとり感じ入ったしだいなのである。

【他生のご縁 「外交安保も大事だけど、教育だよ」との励まし】

 中嶋嶺雄先生とのご縁については、学者と政治家の私的勉強会の『新学而会』始め数多くあります。市川雄一元公明党書記長との関係もまた深く、3人でいくたびもご一緒しました。台湾での「アジア・オープンフォーラム」への参加や東京外語大学長の頃にキャンパスを自ら案内していただいたことなど忘れられません。

 さらに、私の処女作『忙中本あり』の出版記念会の呼びかけ人代表を務めていただいたことも。本の帯に推薦の言葉を寄せていただき、「傑作だ」と週刊誌のコラム上でも持ち上げてくださったことも懐かしい思い出です。

 秋田国際教養大学の創設に深く関わられた先生は、同大学でのシンポジウムに招いて頂きました。晩年にしばしば「外交・安保も大事だけど、『教育』だよ。君もそろそろ取り組んだ方がいいね」と強調されたことが耳朶に今も残っています。同大学の行く末を気にされながら、逝かれたことは返す返すも無念なことでした。

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(190)”感幸”で地域全体の価値向上をー藻谷浩介、山田桂一郎『観光立国の正体』を読む

観光、それもインバウンドブームである。外国人の日本への旅行客が一気に年間2千万人を超えたとの報道が喧しい。しかしその実態はどんなものか。偶々私は今「瀬戸内海島めぐり協会」なる一般社団法人の専務理事をしており、まずは淡路島に観光客を呼び込むことを仕事にしている。といってもこの分野、決して詳しくない。どちらかと言えば、ド素人と言っていい。文字通り、”泥棒捕まえて”何とやらで昨今慌てて何やかやと只今猛勉強中である。そんな私が本やの棚で発見してむさぼり読んだのが藻谷浩介、山田桂一郎『観光立国の正体』。これなら十分”縄をなえる”だけ、面白くてためになる▼藻谷さんは『デフレの正体』『里山資本主義』でお馴染みのライター。日本総合研究所主席研究員で、今最も知的刺激を与えてくれる書き手だ。彼は「本もあまり読まず、ネットもテレビもほとんど見ず、日本と世界各地に設けた無数の定点観測点を繰り返し訪問し観察すること、『現場の知』を体現した人と対話を重ねること、それにいくつかの統計データの推移を分析すること」の三つを情報源にしているという。その藻谷さんが観光を核とした地域振興の分野で、この人以上の知識と見識を持ったひとはいないと太鼓判を押すのが山田桂一郎氏。スイス在住の「観光カリスマ」との触れ込みだ▼第一部では、山田氏が住むスイスのツェルマットという6千人足らずの村の観光への取り組みの紹介だ。スイスの各市町村で、地域経営の基盤になっているのが「ブルガーゲマインデ」と呼ばれる組織。住民自治経営組織とでもいうべき仕組みである。住んでいる人が「真の豊かさ」を感じられる地域を目指して、少数でも団結して目先の利害を超えて「一緒に稼ぐ」ことを前提に、域内利益を最大化させる活動を始めることだとの指摘はなかなか胸を打つ。第二部では、二人が観光立国とは名ばかりだと、徹底して現状を批判する対談が展開されている。いちいち御尤もだと思うが、素人の私でもなるほどと膝をうったのは、プロダクトアウトとマーケットインの発想の違い。前者は、顧客の意向、思いを無視して売り手の意思を押し付ける考え。後者は、旅行者が真に求めるものを提供するというもの。観光庁が取り組む広域周遊ルートも「ほとんどが各地の売りたいものだけを繋げた自己都合的なルートで」あり、「旅行者が巡りたくなる価値を提供しようとの発想になっていない」と手厳しい。「観光」というより「感幸」と呼びたいとの二人に大いなる心意気を感じた▼さて、この本で得た知識や情報をどう実際に生かすか。ここからが私の腕の見せ所だ、と言えば、皆さん笑われよう。あまりにも安易だと。しかし、やって見なければわからない。これまで、明石大橋が出来るまでは近畿圏に最も近い大型離島だったのが、出来てからは四国への単なる通過道になってしまい、今も昔も今一つブレイクしない淡路島。「国生みの島」と呼ばれるように神話に登場する伊弉諾神宮を抱え、「御食国(みけつくに)」と呼ばれるように、海の幸から山の幸まで何でもござれの豊富な食が食べられる島がこういう状態ではまことにもったいない。人生最終盤の終の棲家ならぬ、終の仕事場を得た私の真骨頂を発揮していきたい。(2016・12・2)

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