Monthly Archives: 11月 2015

【135】70歳になっても変わらず本を漁り続ける

この読書録も70歳になったばかりの今回あたりで少し趣を変えたい。一冊づつの読後録ではなく、数冊のまとめ書きにしたい。一冊づつだとかなり突っ込んだ論評を余儀なくされるのでいささか疲れる。かつて20世紀最後の年にこの営みを開始したときは、三冊ほどを取り上げて三大噺風に取り上げたものだが、その方向に戻ってみたい。これだと少々楽が出来そう(笑)だ。中身の解説というよりも本のなかの片言隻語や著者との付き合い方に力点がおかれそうだが、しばらくこの手法をとってみたい▼先日、私の住む町・姫路市の石見利勝市長から一冊の本が送られてきた。随筆集『夢ある姫路』だ。この市長はもとは立命館大学の政策科学部長という肩書を持った教授だった。それだけに単なる政治家の随筆ではなく、深い学識に裏付けられた含蓄ある言葉が散りばめられた素晴らしい本である。特に、色んな方々との出会いに触れた第一章「日々想」が面白く読めた。私も生前にお付き合いのあった河合隼雄先生の看護師と患者の話には笑ってしまった。また。同氏の「世に二ついいこと、さてないものよ」との口癖を引かれて、二律背反(トレードオフ)の難しさを説かれている。市長はこの12年で学者から見事な政治家へと変身された。恐らくは河合先生の言葉を最も深いところで理解されたからに違いない▼と、ここまで書いたところで私の誕生日の贈り物が届けられた。リモージュボックスだ。これはフランスの小型の磁器に真鍮製の金具がついたボックスで、かの国の文化のエッセンスとエスプリが一杯詰まったものとして良く知られているそうな(私は知らなかった=苦笑)。送り主は、相島としみさん。鈴木淑美のペンネームで活躍する凄腕の翻訳家である。この人の仕事は数多いが、今は彼女が訳した『交渉に使えるCIA流 真実を引き出すテクニック』なる本を読んでいる。これはその道のなかなかの「専門書」(笑)だが、訳者あとがきが興味深い。話し相手から本当のことを引き出すには「『相手への理解、共感』であり、その深さは事前準備によって左右される」と述べている。元日経の記者だった頃のインタビュアーとしての経験に基づいての指摘だが、元ぶんや稼業だった私もまったく同感だ▼石見市長は前掲書で『人間性の心理学』の著者・マズローの「欲求5段階」説に触れている。私も親友・志村勝之との対談電子本『この世は全て心理戦』で取り上げていらい、この人の理論に強い関心を持っているが、相島さんの指摘するところとの共通点は少なくない。ともあれ70歳に突入した今もなお、新しいこと、面白いことを求めて今日も本を漁り続けている私だ。(2015・11・26)

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【134】本当の日本を考える糸口にもー橋爪大三郎、植木雅俊『ほんとうの法華経』

今朝の神戸新聞に興味深い記事が掲載されていてむさぼり読んだ。「転換期を語るー戦後70年の視点」で、編集委員の「混迷の世界です」という問いかけに、社会学者の橋爪大三郎さんが冒頭にこう答えている。「西欧キリスト教文明は19世紀、20世紀を通じて、人類世界に対してわがもの顔にふるまってきた。だが、21世紀は、欧米が『俺たちに合わせろ』と言っても、『イスラムで何が悪い』『中国のやり方で何が悪い』と言い返される時代だ。逆流の始まりである」と。この問題意識にまったく異論はない。ただ、見出しにあるように、「国際社会は不透明な融合へと向かう」のだから、「日本はまず相手を知る必要がある」との結論にはちょっぴり異議ありだ▼橋爪さんについてはかつて宗教学者・島田裕巳さんとの対談『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』という本を読んだときのことを思い出す。例の「9・11」の翌年あたりに出されたものでタイトルにひかれて購入した。今でも印象に残るのは島田さんがまえがきで評論家の加藤周一さんの『日本文学史序説』を「日本の文学史であるとともに日本の宗教史であると言える」としたうえで、その中で「加藤さんは外来の超越的な思想が、日本の固有の土着的世界観によって骨抜きにされていく姿を描き出している」と述べているくだりだ。日本の近代化が西欧近代合理主義の前に膝を屈した形で進められてきてすでに150年近い。その過程に入る前は、まさに加藤さんがいうように、外来の思想を骨抜きにしてきた。しかし、今や日本固有の思想が骨抜きにされているのではないかとの思いが募る▼実はこの加藤さんの本の中で法華経について、富永仲基がその無思想性について指摘しているところが気になって仕方なかった。そこで、法華経のサンスクリット訳などを新たに手掛けてその現代語訳を完成させた植木雅俊さんの仕事に注目した。この人は『仏教、本当の教え』や『思想としての法華経』など次々と世に問う気鋭の仏教思想研究家である。根源的に法華経を無視している富永仲基やそれを是とする加藤周一といった人の見方、考え方の誤りを世に喧伝していかなければ、結局は仏教も、法華経も誤解されたままに終わるのではないか。こうした懸念を私は抱き続けてきた。なんとかそれを払しょくしてほしい、そんな思いで植木さんの本を読んできた。で、彼の師である中村元さんの生涯を描いた『仏教学者 中村元』のなかに見出した。しかしその記述はまことに物足りなかった。これでは世の批判に勝てない、と▼そんな思いを植木さんは知ってか知らずか、直近にだされた、それも橋爪大三郎さんとの対談『ほんとうの法華経』の中にしっかりと書いてくれていた。二か所出てくる。一つは「法華経には、直接的な言葉で表現されていないが、だまし絵のように重要な事がさり気なく盛り込まれています。これを見落とすと、富永仲基のように、法華経は最初から最後まで仏をほめてばかりで、教理の内実がないと批判することになるんでしょう」。もう一つは最後に、(こういったことを富永が言ってるのは)方便品に<深い意味を込めて語られた事は、理解しがたい>とあるように、法華経の深い思想を読み取ることができなかったのではないでしょうか」と。この本はまことに法華経をめぐる様々な深い意味を分かりやすく説く素晴らしい本であり、これまで集積してきたものをさらに深めることができる。ただ、橋爪さんが数か所で「目茶苦茶だ」と法華経の記述について述べているところは、揚げ足取りだと思うものの気にはなる。そして、冒頭に指摘したように橋爪さんが「日本は相手をまず知る必要がある」というが、「日本はまず自らを知る必要がある」のではないか。つまり、近代化の中でキリスト教欧米哲学に圧倒され続け、骨抜きにされた自らを知ることが必要で、しかる後に、相手をも知る必要があるのでは、と考える。その際に法華経の位置づけを改めてやり直すことも大事ではないか、とも。このように、植木、橋爪対談本は”本当の日本”を考える得難いきっかけになる。(2015・11・13)

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(133)面白すぎるスウェーデン人の書いたドタバタ喜劇ー『国を救った数学少女』

「目茶苦茶に面白いよ。こんな本こそあなたに書いてほしい」ーメールとともに、一冊の本が私の手元に送られてきた。ヨナス・ヨナソン『国を救った数学少女』(中村久里子訳)である。送り主は笑いの伝道師・高柳和江女史。ほかに読む本はいっぱいあり、あまり気のりはしなかったのだが、読み始めた。二か月ほどかけてようやく読み終えた。いやはやまさに面白く、”喜劇小説の王女様”かもしれない。ただし、少々長い。暇な人は一気に読めるだろうが、御用とお急ぎのある人には進められない▼この著者はスウェーデン生まれ。地方紙記者を皮切りにメディアの世界で活躍してきた。この作品の前にも『窓から逃げた100歳老人』を出版。世界中で1000万部を超える大ベストセラーとなっているという。確か、すでに映画にもなったと記憶する。100歳の老人アランが活躍するハチャメチャな喜劇小説だったが、今度のは南アフリカ出身の少女・ノンベコが爆弾一個を巡って王様と首相と世界の危機を救うというドタバタ喜劇。笑いを生涯のテーマとする高柳先生ご推奨のことだけはある▼前作もそうだったが、この人の持ち味は史実とフィクションを巧みに織り交ぜるところ。どこからどこまでが本当か分からなくなり、人によっては全部本当だと思ってしまいそう。随所に皮肉を利かせた語り口は最高だ。エリツインが公式にスウェーデンを訪問した際に、石炭発電所がひとつもないこの国に対して石炭発電所を閉鎖せよと要求した、その酔っ払いぶりなどはかわいいが、ジョージ・ブッシュが「サダム・フセインが持ってもいない武器を排除するという目的でイラクに侵攻した」というくだりは痛烈なアメリカ批判で単なるブラックユーモアを超えている。現代世界批判をこうした笑いに紛れ込ませる手法は巧で鮮やかである。ジャーナリスト出身の手際の良さと造詣の深さが頼もしい▼この本のタイトルは、現作では「The Girl Who Saved the King of Sweden」となっており、数学は入っていない。数学少女で良かったのかどうか、疑問は残る。わが友・高柳女史は笑いで日本中を救うという壮大な試みを展開しているが、この本は彼女の感性に見事にフィットした小説に違いない。読んでいてしばしばノンベコとダブって見えてくるから不思議だ。私も生涯で一冊ぐらい小説を書いてみたいという気がしないでもない。その本のタイトルは「国を救った笑医」とでもして、彼女の一代記を書くか。英訳されると「The Woman who Saved Japan with lauh」ということになるかもしれないーなどと考えてるうちに秋の夜の夢から覚めて、今宵二度目のトイレに立った。(2015・11・10)

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(132)”平和の光と影”に苦い思いを抱く━━畑中丁奎『戦争の罪と罰 特攻の真相』

 大変に中身が濃い貴重な本に出会った。「息子が書いた。よかったら読んでくれ」といって、親しい友から渡されなかったら、恐らく手にすることはなかったろうし、読まずに終わったに違いない。畑中丁奎『戦争の罪と罰 特攻の真相』は強烈な刃を現代に生きる日本人に突きつける問題の書である。今なお曖昧模糊とした戦争責任の一角を確実に突き崩す効力を持つものと評価したい。著者が巻末に掲げた主要文献の一覧は数多い。とりわけ防衛省防衛研究所の所蔵する膨大な資料などを読み込んだ著者の熱意には頭が下がる。これらの資料の数々は亡くなっていった特攻隊員たちの墓標のように私には見えてくる。

 私も、そして著者の父親も昭和20年生まれである。正真正銘の戦争直後にこの世に生を受けた。先の大戦の戦禍を直接には知らず、戦後の経済復興を始めとする恩恵だけを、ぬくぬくと享受して育ってきた。高度経済成長がもたらした”陽の当たる坂道”を駆け上がるようにして喜寿を超え、やがて傘寿を迎えようとする世代はいま、「平和の光と影」に苦い思いを持つことを余儀なくされているのだ。著者が本書の題名の由来について語るくだりはとりわけ胸に迫ってくる。「特攻が『民族古来の伝統』に発したものならば、なぜ本書で追及した特攻の命令者達は自らの所業を明らかにしなかったのか」「公にできないことを拒否権の無い兵達に課すのは罪悪である。自身の行いを認めないことはなお罪である。そして彼らは戦後このことに関して罰を受けなかったどころか、戦後の社会を形成していった」と。役割の軽重はともあれ、紛れもなく戦後社会を形成してきた一員として、その自覚の足りなさを恥じざるをえない。

★「忘れ去られた皇道派」への思い

 先に私は半藤一利、保坂正康『賊軍の昭和史』を読み、明治維新いらいの軍国日本の歴史の内幕に分け入った気がした。今、本書の最終章「忘れ去られた皇道派」のなかで、真崎甚三郎の名誉回復を試みる著者の努力に接すると、さらにその深部にいざなわれた思いである。正直言って「統制派と皇道派の対立、抗争」などにはこれまでさしたる関心はなく、どちらかといえばやり過ごしてきた。どっちもどっち、同じ軍人、同じ戦争責任者たちではないかとの安易な見方に与してきたからだ。そこへ畑中氏によって新たな視点を与えられた。今は亡き同世代の友人、歴史家・松本健一との直接の語らいの中でさえ、その主張は「遠い砲声」にしか聞こえてこなかった。そんな自分だったが、さらにぐっと若い著者からの指摘はただならぬ響きを持つから不思議である。

   先の大戦における特攻隊員をめぐる問題については、既に様々に語られ、描き尽くされてきた感が強い。それを戦後35年ほどが経ち「もはや戦後とは言わない」頃に生まれた著者が、改めて克明に真相を追おうとする姿はまことに新鮮でまぶしい。そう、35歳年下の著者に「戦後生まれの私たち」といわれると、妙な気分になってしまうのだ。もはや役立たずのオヤジさんたちは後ろに下がっていてくれと、言われているような気もしてくる。著者の親父・畑中三正(株)赤のれん会長に「こういう本を書く息子って、暗くないかい」と訊いてみた。ユーモアと笑いを身上とする私には気になるところだ。「いやいや、明るいやつだよ」と、ニヤリとしながらの答えが返ってきた。神戸に住む、この新進気鋭の「戦史家」との直接の出会いが待ち遠しい。

【他生の縁 大学同期の息子】

 前述した畑中三正氏とは同い年で、大学同期。慶應在学中は残念ながら交流はなかったのですが、卒業してから、というより私が衆議院議員になってから、今日まで実によく付き合ってきました。というのも、私の中学、高校、大学と親しかった友人A(故人)や、大学時代からの親友F(元広島市議)らと、私とは別に昵懇の関係をこの人は持っていたから、です。私は彼のことを「政商」と半ば揶揄していうぐらいに、神戸を中心に政治家に詳しい上、交友関係は幅広いのです。本当によく様々な友人を紹介してくれ、衆参の選挙、とりわけ慶應の後輩・赤羽一嘉(前国交相)の支援をしてくれました。私たちにとって得難い存在です。

 その彼の次男がこの本の著者ですが、高校の英語の教師をしながら、せっせと作家活動に勤しんでいます。先に、劇作家の鴻上尚史が『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(2017年)を出版し、ベストセラーになった際には、私も読みました。ドラマチックに仕上げられた読みやすく面白い本でした。百戦錬磨の達人とも言うべき、この道の先達に、とても同じ分野で勝負は出来なかろうと、同情を込めて、「どうだい。あの本は?」と、問いかけてみました。

 「いやあ、あんなものに負けません。次なる作品では必ず」と言った意味の言葉が返ってきました。心意気やよし。応援団として、次なる作品を期待しています。

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