昨年暮れに金沢に旅した際に、同地の文芸館に足を運んだところ、作家・五木寛之さんのコーナーがあったことは既に書いた。その際、医師・帯津良一さんとの対談本が並べてあったことにも触れた。このおふたり相当に息が合うと見える。そして当方もつい読んでしまう。元を正すと7-8年前に前議員の会合が国会であった時に、帯津さんの講演を聞いたのがきっかけだった。軽妙洒脱なお話ぶりにすっかりハマってしまったことを覚えている。奥様を亡くされていらい、経営される病院で、夕方になると、看護師さん、女医さん、薬剤師さんたちと一献傾けるのが楽しみだと言われたのが妙に耳に残っている。また、死ぬときを最も最高の生命状態に持って行き、ロケットが宇宙に飛び出す時のようなエネルギーで、と言われたことも覚えている◆元気がなくなって来るから死ぬのに、最高の生命状態にどうしてもっていけるのか?当然の疑問が誰しもわいてくる。そのあたりこの本で確かめてみた。「命というのは、エネルギーですから、いたわって病を未然に防ぐのではなくて、もっと積極的にエネルギーを日々、どんどん勝ちとっていく」「死ぬ日を最高に持っていって、そしてそのいきおいで、最後のクライマックスで、いっきに死後の世界に突入するというふうに」とおっしゃる。こんなことは中々難しい。最後のクライマックスは「一週間か、二週間でいっきに加速する」とのことだが、同時に「あんまり年をとって死んだんじゃあできないから、もう少し手前の方で死んだほうがいいんじゃあないかといってるんです」とか。何となくわかったような、わからないような。これを他人に話すと、100%理解して貰えそうにない◆死ぬ時がいつかわからないから苦労する。つい早まってエネルギーを高めてしまい、空振りに終わることがあるかもしれない。このあたりについて、自分の「死にどき」をいつだと思うかと、五木さんに問われて、帯津さんは「ひとりで下駄履きで居酒屋に行けなくなったら、もう死んでいいかなと‥‥(笑)」──笑い話風にごまかしている。それにもめげずに「実際の話、死にごろというのはわかるものなんですか」と、五木さんに、二の矢を放たれて「それはわかりますね」と、帯津さんは続けているのだが、それは医師として、「患者の死にごろ」がわかるとの話にすり替わっている。五木さんも、それ以上しつこくこだわらずに、「お迎えがくる」との表現に絡めて、超常現象を目撃したことがあるかとの問いに替えてしまっているのは、読者として少々物足りなくもない。で、文末の「二人の結論」というミニコーナー欄には「日ごろから、そろそろという、自分の死にどきの判断基準をもっておこう」とある。それがもてれば苦労しないと決めつけずに、挑戦するしかないのだろう◆帯津さんは、我々のその挑戦へのヒントを「あとがきにかえて」で触れてくれている。「人間の命は宇宙の大きな流れのなかで循環している、死後、人間の魂は、肉体を離れて、魂のふるさとである『虚空』へ還る旅に出る」というのだ。サマセット・モームが短編集『コスモポリタンズ』で描いた「旅情」にこと寄せて「人間は虚空からの旅人。しかも、一人でこの地球の上に降り立ち、一人でまた去って行く、孤独なる旅人である」とあたかも詩を吟じるかのように断じている。さらにまた、哲学者ベルグソンの「生命の躍動」を持ち出して、それは、内なる生命に生まれる直感と、虚空に生まれる予感が一体化することを指すのだ、と。「私たちは死してのち、虚空の懐に帰り、虚空と一体となるのだから、これのリハーサルが生命の躍動ということになる」とも。つまり、死ぬことは虚空への旅立ちであり、生きている間に生命の躍動という準備を重ね、最高のリズムを覚えた上で、ジャンプする瞬間が大事だ、と仰っているのだ。このイメージはそれなりに分かる。あとは日ごろからのトレーニングなのだろう。(2024-3-25)