旅する夢が駆けめぐるー中西進『「旅ことば」の旅』を読む

昨年末のこと。東京駅から姫路に帰ろうと、ホームの売店を覗くと『「旅ことば」の旅』という中西進先生の本があった。この人は万葉集学者で文化勲章受章者。私が専務理事を務める一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の代表でもある。議員引退後にいくつかの団体の顧問をお引き受けしているが、その中でも最も力を入れて取り組んでいる仕事のいわば上司に当たる。といっても日常的に接触する機会はなく、発足後は先生が名誉館長をされている京都市の右京区中央図書館での「映画塾」(月一回、先生と一緒に映画を観た後に、解説を聞く)に時々顔を出して、報告をするぐらい。このところご無沙汰していることもあり、早速に購入し徒然に読んでみた■旅に関する88の言葉から日本人にとっての「たび」の意味が見えて来る、と帯にある。先生は昨年88歳になられたこともあって、月刊『ひととき』(ウエッジ刊)に連載された71本に加えて、新たに17本を書き下ろされたという。この人の凄さは私などが到底論じられない奥行きの深さにある。優しい佇まいの中から、古代から今に至る日本文学の粋が溢れ出て来る。この本の巻頭「たび」によると、古い日本語「たむ」が語源で、廻ることがその原義だとされる。「お神輿や山車で神さまが移動なさ」る旅は、「じつは神さまの神偉の領分を示す儀式だった」から、「神輿と神輿がぶつかろうものなら、大変な境界争いになる」というわけだ。姫路・灘のけんか祭りも岸和田のだんじり祭りもそんな由来になろう■年末年始を迎えると、私は「去年今年(こぞことし)貫く棒のごときもの」という高浜虚子の句を思い起こす。この本の巻末「去年今年」はこれをめぐって深い話が続く。「年」という旅人の謎めいた身振りを、いにしえからの俳人たちはさまざまに詠んだ。虚子の場合は「時は旅」という流れを拒否する棒のごとき不逞の輩のような風体を感じたと思われるという。一方、江戸俳諧の加賀千代女は「若水や流るるうちに去年ことし」と詠み、時を流水のように見立てた。更に近代になって大石悦子の「海溝を目無きものゆく去年今年」との句は、年の瀬を悠然と動きやまないものの姿として捉えている、と。中西先生は「わたしども自身が深海魚のような旅人だと思われ」て身震いしたと結ばれている■この本の楽しみ方は色々あるが、著者の旅先と読者の行ったところと一致したものを探すことも楽しい。私の場合は、去年初めて経験したドイツ・ライン川下りが重なった。中西先生は、日本の川下りがしばしば舟にしがみつきながら悲鳴を上げるケースが多いと述べられた後、ライン川下りでも「一度だけ船中が騒然となって、傾くばかりになった時があった」とされている。ローレライの岩を見るために、船客が一斉に右舷に寄って行ったっためというわけだ。去年9月に私もライン川中流の町・ビンゲンに住む友人夫妻の案内で永年の夢であった川下りをした。その際に、確かにかの場所にさしかかると、ざわめきが高まった。ただ、傾くばかりにはならなかったし、結局お目当てのものは何も見えずがっかりしたものだ。先生も「ごつごつした岩ばかりで、不心得者には何も見えない」とされているが、川下りで損をした思いが数か月経って少しだけ癒された気分になった。(2018・1・15)

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