大阪の女興行師のど根性に圧倒されるー山崎豊子『花のれん』を読む

このところNHKの朝ドラを観るなどどいう習慣がついてしまった。つい5年ほど前には考えられなかった。それだけ朝の時間帯に余裕ができたのだろう。今はご存知『わろてんか』である。このドラマは吉本興業の創業者(吉本せい)をモデルにしているというが、大分趣きを異にしているかに思われる。今一歩笑うところがすくないうえ、ピリッとしたところもない。そんな不満もあって以前から読みたいと思いつつも敬遠してきた山崎豊子『花のれん』(かつて舞台や映画に登場)を読むことした■いやはやこれは凄い。彼女がこれで直木賞をとり、その後の作家生活に本格的に入っただけのことはある。まず感心したのは文章のテンポである。きりりと鋭い文章がこぎみよくとんとんと進む。読みながら吉村昭の文体を思い出した。加えて、大阪弁の面白さだ。解説で山本健吉は「大阪弁独特の柔らかさとまだるさに、融通無碍ともいうべき巧みな曖昧さが加わって、角をたてずにスムーズにビジネスを推し進めることに役立っている」とご本人のエッセイから紹介している。私など残念ながら悪評高い播州弁の姫路生まれゆえに本格的な大阪弁とは縁遠い。改めてその効用を知って感激した。恋を語る場面で「おいでやす」というと、「一杯飲み屋の客引きのよう」などに聞こえるとか、「大阪弁で独白すると、心理の緊迫感がなくなってしまう」など、笑いを誘う展開にも惹きつけられた■この小説を通じてわたしてきには、明治から大正、昭和にかけての日本文化のこよなき伝統を感じた。昭和20年以後の戦後に育った世代が、子や孫に伝えきれていない日本の古き佳き生活習慣。そうしたものがそこはかとなく伝わって来るのだ。ルビがうたれた漢字を読むことで、既に忘れてしまっている日本語(例えば、吝嗇=しぶちん、お為着=おしきせなど)の妙味も次々と蘇ってきた。ちょうど並行して読んでいる『日本語は天才である』とか『日本語の年輪』などに相通ずるものがあり、興味深い■それにつけても主人公・多加の女興行師としての立ち居振る舞いは凄まじいの一言だ。自分のところの寄席に名だたる真打を呼ぶために、公衆便所の(今と違って水洗ではない)汚い便器に跨って待ち伏せして、札を押し付けるなど「大阪商人」のど根性を次々と見せられて圧倒されるばかりである。テレビを先に見てから小説を読んだために、てんと多加とのあまりにも落差の大きさに戸惑うばかり。また、二人の夫の差も大きい。小説では妾の家で同衿中に死んだことになっているが、流石に朝ドラではそういうわけにはいかない。小説もテレビドラマの脚本も、創作なのだからと思いはするものの、どうしても実在の人物たちと二重写しになってしまう。まして我々世代にとって懐かしい花菱アチャコや横山エンタツが出てきたりすると尚更だ。とはいうものの、そこは映像の面白さ。てんのかわいさも捨てがたい。などなど何やかやとあって今朝も朝ドラに見入ったしだい。(2018・2・5。一部手直し=2・7)

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