(208)田中角栄らは晩年をどう過ごしたか ー関川夏央『人間晩年図巻 1990-94年』を読む

郷土・兵庫の生んだ医師にして作家の山田風太郎さんは私の好きな作家のひとりだが、その作品のうちで最も惹かれるのは『人間臨終図巻』の上下2冊。これは自分の誕生日が来るたびに、その年齢で死んだひとのところを読むことにしている。今年72歳になるので、11月26日には、そこを読むはず。尤も、山田さんが亡くなってからは続編を書く人もいない。ところが作家の関川夏央さんが『人間晩年図巻1990-94年』なる本を書き、ある意味で先輩の衣鉢を継ぐ仕事をした。一年前に出版され、読みかけたままにしていたものをこのほどようやく読了した。1990年から94年までの間に亡くなった36人ほどが取り上げられているが、私より年上は9人だけ。後は全て年下になる。死に至る病の種類から、死にざままでそれこそ千差万別だが、大いに参考にしようとそれなりに懸命になって読んだしだい■1990年代前半はどういう時代であったか。ベルリンの壁が崩壊し米ソ対決の時代から、米国一強の時代へと変化したかに見えるものの、湾岸戦争が勃発したことに対して国連の対応ぶりが注目された。私的には、苦節足かけ5年を経て衆議院議員に初当選したのが1993年7月。時の総理は宮澤喜一氏から細川護煕氏へと交替。今に至るまで続く連立政権の幕開けとなった頃である。経済的にはバブル絶頂から崩壊の流れが定まってきた頃とも重なり、「失われた20年」と後に呼ばれる時代の始まりでもある。団塊の世代がまさに世の中の中心として活躍していた時代でもあり、その頃に亡くなったひとはある意味で社会的、経済的に幸せな時代の絶頂期に亡くなったといえなくもない■田中角栄元首相が亡くなったのは93年12月16日。75歳だった。「父の恨みを娘が継ぐ」とのサブタイトルのついた9頁分は、父親とは私が新聞記者時代に取材し、娘さんとは同僚議員として付き合った関係だけに読み応えがあった。公明党の先輩政治家と自民党の派閥の領袖との関係は、一般的に「田中と竹入」、「竹下と矢野」、「小沢と市川」といった組み合わせでパートナーのように見られてきた。それぞれの全盛期にカウンターパートとして活躍してきたから当然ながら関係も深かったに違いない。田中角栄氏については、このところ石原慎太郎氏や石井一氏らがそれぞれ自伝めいたものを書き話題を呼んでいるが、戦後史の中でこのひとほど毀誉褒貶の甚だしい政治家も珍しい。番記者として付き合った連中が、当の相手が鬼籍に入った今なお誇りにしている数少ない政治家だろう。大学時代の同期で、読売の番記者だった神田俊甫君などその代表株だ。関川さんが描く晩年の角さんはひたすら酒びたりのひとの印象が強い。ロッキード事件で「はめられた」うえでの首相辞任が56歳のとき。それから20年間は恨みと悔しさの歳月だった■娘の田中真紀子元外相には「(父親の持つ)度量の広さと現実感覚をともに置き去った娘が、父親の一種強引な雄弁術と『恨み』を受け継ぐだけでは、政治家としてははなはだ不十分だった」と手厳しい。親父のことを書けば十分なはずのに、娘さんをこういうような扱いをするのはかわいそうな感じがせぬでもない。彼女が衆議院外務委員長時代に、公明党理事として短い間だっただけどやり取りをしたことがある。往年の輝きはすでになく、親父さん譲りのだみ声もどきが響いたとの記憶がある。数ある角さん語録のうち、関川さんが記す「愚者は語る。賢者は聞く」「記者は懐に入れても蛇は蛇」などいかにも彼らしい。私は「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭(旧名)さんについて書いてほしかった。彼女は歌手・小林旭の”たにまち”であり、何を歌っても”旭そっくり”(旨いのではなく、声が似てるだけ)と言われる私を、彼に会わせてくれたひとだからである。ちなみに、歩きながら旭さん本人に「私の名前が変わります」「ごめんね」「もう一度一から出直します」「お世話になったあの人へ」の4曲の替え歌のさわりを聞いてもらった。蛇足ながら「平民宰相・田中角栄」に免じてお許しを。(2017・5・7)

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