(207)新たな政党間対立軸を求むー吉田徹『「野党」論ー何のためにあるのか』を読む

このところ自民党議員の不祥事やら不始末が目に余る。防衛大臣や法務大臣の危なさが人の口の端に登らない日がなかったと思いきや、震災復興担当大臣の被災地をめぐるおかしげな発言が相次ぎ、遂に辞任に発展した。一方で、政務官の二重婚とも思われる事件が発覚。この人物は離党したが、とてもそれで済まされるとは思えない。北朝鮮の動きが極めて注目される事態があり、それに対応すべく安倍首相は踏ん張っているとのイメージが強いことは救いである。しかし、その首相も一皮めくれば、「森友学園」だけではない様々な疑惑が渦巻いているとの指摘が後を絶たず、長期政権に陰りが見えていることは否めない。こういう事態を前に野党は勢いづいてはいるが、とても政権を担って立つだけの信頼感が国民の間にない。最大野党・民進党に大物離党者が相次ぎ、世論調査での政党支持率は自民党の3分の1にも及ばず、他の3党にあっては何をかいわんやの状態が続く▼こうした状況下で昨年夏に出版された吉田徹『「野党」論ー何のためにあるか』を読んだ。野党の存在感が全くない今日、この本は大いに読むに値する(特に最終章)と思う。が、世間的には全く注目されておらないのは残念だ。著者は北海道大准教授で比較政治、ヨーロッパ政治を専門とする新進気鋭の学者。筆者のような世代にはある意味で「政治疲れ」が目立つ。政治の「あるべき論」を論ずるよりも、とにもかくにも「一つの政治選択をしたら直ちに断行する」方向に関心が向きがちである。これは55年体制下の政治が38年程続き、自民党一党支配から連立政治が余儀なくされた後、政権交代が起き、民主党政権が誕生。それが見るも無残な失敗で下野してしまった。そこへ一たびは失敗した安倍氏が再び登場して一転今度は強い首相を演じているから、過去との比較の中で、攻める側も守る側も妙な安心をしてしまっているかのように見える。つまり政治の現場に緊張感が欠如してしまっていると言わざるを得ないのだ▼筆者が政治家になった1990年代半ばの政党間の最も大きな政治的対立軸は、「大きな政府か、小さな政府か」であり、今もそれを引き摺っている。しかし、あれから20年程の歳月が流れ、もはや意味をなさないのではないか。著者は公的債務が留まるところを知らず、社会全体の貧困化が進む一方の今、そういう対立軸はまやかしにすぎないという。代わって登場すべきは「いかにして賢い政府を作るか」だ(これは今の政府は阿呆な政府だと言われてるのに等しい)、と。そのうえで、吉田さんは、「合意型争点」と「対立型争点」の二つの次元に分けて論じていて興味深い。詳しくはぜひ本書を読んでみて頂くしかないが、わたし的にはオーソリタリアン(権威主義)対リバタリアン(自由至上主義)という新しい対立軸(政治学者・キッチェルト)の提起に関心を持つ。正規雇用と非正規雇用とに分断化され、経済的、社会的格差が拡大するなかで様々な課題が惹起されているのに、旧来的な保守、自由、社民、共産主義といった政治的諸潮流は何も解決のカギを提起し得ていない。ここは残念ながら私などが依拠する中道主義も同様だと言わざるをえない▼権威主義と自由至上主義の対立軸というのは、「共同体を個人より優先させるべきと考えるのか、それとも、個人は共同体に優先すると考えるのかという、共同体ー個人の対立軸」であるという。正直に言ってこれが決定的かどうかは未だわからない。言えることはヨーロッパのような新しい対立軸をめぐってのダイナミックな論争が日本では全く見られないということだ。公明党は、自民党と連立政権を組んでそれこそ20年近い。政治の安定化に貢献してきたことは認めるのにやぶさかではない。しかし、与党自民党の弛緩しきった堕落ぶりと、野党第一党の腰抜けの体たらくを見るときに、ひたすら自民党に寄り添うだけでいいのかとの思いが募る。今回の震災復興大臣の後釜に相応しい人材は公明党には複数いると断言したい。こういう時に黙っていないで我々が担うというぐらいの声が出ていいのではないか。新たな時代の政党間対立軸にあっても積極的な問題提起を、中道政党公明党に望みたい。(2017・4・27)

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