西洋の神と東洋の仏の比較に及ぶー小坂井敏晶『答えのない世界を生きる』を読む

友人との語らいの中で出てきた小坂井敏晶氏(パリ第八大学心理学部准教授)の著作に嵌っている。その友は『責任という虚構』なる書物を褒めたのだが、いかんせん、この本は難しそうでわたし的にはいまいち触手が動かない。というわけで、『社会心理学講義』から読むことになったのだが、そこらあたりの経緯は既に前々回の高橋和巳のことを書いたおりに触れた。その後、読んだのが『答えのない世界を生きる』である。これはまことに読み易かった。自伝風の趣きがあり、この人に興味を持った人間にとって、ウーン、なるほど、そういうことだったのかと彼の生い立ちや今に至る人物の背景が分って面白い。考えること、生きることを真正面から捉えて、あれこれと挑戦してみようとする人には圧倒的にお勧めだ▼早稲田大の東伏見グラウンドでホッケーに連日明け暮れていた青年が、やがてパリに飛び学問を志すにいたるお話は、戦後日本の若者たちの類型的パターンを越えて中々読み応えがある。私など小田実の『何でも見てやろう』から始まってありとあらゆる冒険譚をおいかけていくうちに、どこへも行かぬままに(冒険せずに)、齢(よわい)70を超えてしまった。そんな”この道50年”の爺さんにとっても、このひとの若き日の羽目外しは魅惑的である。但し、ここではそれには触れない。むしろ学問の道の進み方でユニークなところに惹かれる。文中、灘中の橋本武先生(中勘助『銀の匙』だけを使って授業したことで有名)のことに触れたうえで、パリの社会科学高等研究院での学び方も同じだったとしているくだりには首肯させられた。「私のアプローチを学際的だと評するひとは少なくない。しかし学問分野という意識が、そもそも私にはなかった。頭を悩ます問いがある。答がどこかに書いてないか。ヒントだけでも見つけたい。そこで先達の助けを借りる。そういう勉強の仕方である」▶こういう勉強の仕方で学んだ人が結局行きついた先は「答えのない世界」であった。「世界から答えが消え去った」とは一般的に西洋近代が重きをなす世界で口にされる。小坂井さんも「神は存在せず、善悪は自分たちが決めるのだと悟った人間はパンドラの箱を開けてしまった」として、「近代以前であれば、聖書などの経典に依拠すれば済んだ」が、いまは、「無根拠から人間は出発するしかない」ので「どうするのか」と、この書物を書いたわけを述べている。確かに、神が死んでからの近代ということになると、彼がいうように「答えのない世界」を手探りで歩くしかないのであろう。しかし、私の見解はいささか違う。それは「神も仏もあるものか」との云い方がなされるように、両者はしばしばひとまとめにされがちだ。だが、神は死んだかもしれないが、仏は存在している▼仏とは死んだ身を指すのではない。また神のように人間存在を越えた絶対者でもない。少なくとも日蓮仏法では、人として最高の境涯を持つに至った存在を仏と云い、全ての人間はその仏の命を本来内在化しているという。つまり、人間存在の外にある造物主としての神ではなく、仏とはわが内なる生命に本来備わっている人間存在の最高の極地の在り様を指す。そのパワーを引き出す方途が「南無妙法蓮華経」とお題目を本尊に向かって唱えることなのである。今や全世界において、悩みを抱えた人間がその行為をなすことによって解決の道を見出した実例、結果はあまた満ち溢れている。これは私に云わせると、旧来的なキリスト教に支配された西欧世界では、「神なき世界」=「答えのない世界」ではあるが、東洋仏教の最高峰・法華経を信奉する日蓮仏法では、「仏満ちる世界」=「答えを見いだせる世界」なのである。神と仏。西洋と東洋。21世紀中葉に向けて人類はいま、宗教観の一大転換を迫られつつある。(2017・11・21)

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