【153】あと4年ー25年パラダイム変換説の恐怖 『見損なわれている中道主義の効用』❶

今回から私が理事を務める一般社団法人「安全保障研究会」の安保研リポート11号に寄稿した『見損なわれている中道主義の効用』を6回に分けて転載する。一回目は「あと4年ー25年パラダイム変換説の恐怖」。
戦後70年を超えた今、もう一つの戦後が改めて意識されだした。それは江戸末期の日本を二分した戊辰戦争を起点とするもので、やがて戦後150年を迎える。この両者は日本の近代が始まるきっかけとなったいくさとその挙句の果てに一国滅亡となった戦いとである。あと4年程で75年の歳月が二つ流れたことになるから、俄然二つの塊を丸ごと比較する試みが現実味を帯びてきたように思われる▼社会学者の大澤真幸氏は、その75年を25年ずつ3分割し、前半75年と後半75年における三つの時代状況が極めて似ており、それぞれが並行して繰り返しているように見えると比較してみせた。その分析によると、明治維新から日清戦争までの25年と、後半におけるポツダム宣言受諾から高度経済成長を経てジャパンアズナンバーワンともてはやされた1970年代頃までの25年が共に、第一期として比べられる。富国強兵を基にした国づくりと経済至上主義による戦後復興とである▼第二期は、1894年の日清戦争から日露戦争を経て第一次世界大戦あたりと、大阪万博からバブル絶頂の1995年まで。前者は大戦景気、後者はバブル景気として特徴づけられる。第三期は、関東大震災を経て太平洋戦争終結までの時期と、1995年の阪神淡路の大震災、オウム真理教事件から今日までとである。戦争前夜から敗北に至るまでの社会状況が、極めて似通っているという。残された時間は4年。今重くのしかかってくる▼この分析が世に問われて既に10年程が経つが、私は最近出版された政治学者・中嶋岳志氏と宗教学者・島薗進氏の対談『愛国と信仰の構造』によって漸く知るに至った。ここでご両人は、この見立てを推奨したうえで、第三期に入ると「社会の基盤のもろさが表立って見え」てきて「国内全体が言いようのない閉塞感に苦しむようになる」と指摘する。そして「同じ失敗を繰り返さないためには、明治に遡って、日本のナショナリズムと宗教の結びつきをとらえ直すことは重要である」と強調している▼「全体主義はよみがえるのか」とのサブタイトルを持つその作業の中で、明治維新以来の歴史において親鸞主義と日蓮主義が果たした役割を克明に追っている。その矛先の鋭さは、あたかも国家神道を免罪するかのごとき様相を示し、奇妙に新鮮でさえある。結論近くで、僅かの紙数ではあるものの、二人が「『居場所なきナショナリズム』を利用する自民党のネオコン勢力」と公明党・創価学会が結びついているとして、警鐘を鳴らしていることは見逃せない。歴史が同じように繰り返すわけでは勿論ない。だが、あらかじめ予定されたかのごとく、ことの推移を占うことは世の認識を誤らせる。聞き捨てならない指弾なので、あまり一般には知られていない公明党のなりたちや理念の具体的展開に触れることで、それが筋違いの杞憂であることを明かしてみたい。(2016・6・12)

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