公明党が結党されたのは1964年。今の政党の中では共産、自民に次いで三番目に古い。今年で誕生して52年目になる。当初は日米安保条約の段階的解消などを掲げ、立派な「左翼政党」であった。しかし、1981年に党内大論議の末に、自衛隊の存在を容認するなど安保政策を抜本的に転換し、現実的な政策に切り替えた。1980年代は「社公民連立政権」を模索するも、不可能なることを覚知するや、90年代後半には自らを半ば解党。大きな勢力構築へと向かう新進党結成に参加した。1999年には、小渕首相の要請に応じて自民党との連立政権に合意。既に15年余りが経つ▼こうした「左から右へ」との大胆な転換、「反権力から政権中枢へ」といった立ち位置の変遷の目まぐるしさから、その狙いを訝しがる向きは少なくない。だが、その変化には大きな筋が一本通っている。それは、「政治を庶民大衆の手に取り戻す」という目的である。その目的の成就のためには”あの手この手”を使うことは厭わず、”手を変え品を変えて”でも迫る。そういった「物語」に生きてきたのが公明党なのである▼この政党は周知のように、池田大作創価学会名誉会長が創立者である。結党の集いに「大衆とともに戦い、大衆とともに語り、大衆の中に死んでいく」との指標が与えられ、全ての議員が座右の銘としてきた。成立当時の日本の政治は、自民党と社会党の二大巨大政党がイデオロギー対立に明け暮れ、庶民大衆は顧みられることがなかった。だが、あれから半世紀の間に、世界における社会主義は崩壊。それにあい呼応するかのように、日本社会党は姿を消した。そして自民党も一党単独では政権を維持する力を失った。連立政治が常態となり、その一方の担い手が公明党になって久しい▼この事態をどうとらえるべきか。自民党が政権維持のために公明党の力を借り、公明党は権力に寄り添うことで組織防衛をしようとしている、との捉え方が一般的だ。しかし、それはより本質を衝いてはいない。結党時に誓い合ったこの党の揺るがぬ理想的目標は、繰り返すが政治を庶民大衆の手に取り戻すことであり、政治家個人、政党の在り方の根本的改革を果たすということである。つまり、違う角度から言えば、日本の政党、政治家が社会全体から信頼され、尊敬に値するものになればいい。そうなれば、公明党は主たる役目を終え、後裔に退いていいとの捉え方に立つ。権力奪取を最終目標にするのではない。政界を浄化し、公正・公平な価値観をもった複数の政党が政権を相互に交代して担う。そういった姿を実現するために、あたかも触媒の役割を果たすことこそ自らの使命とし、その集団が抱え持つ「物語」として、公明党は思い描いてきたのである。
(2016・6・21)
(158)公明党が抱く「物語」を知っているか 『見損なわれている中道主義の効用』➋
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