次に、著者の島内さんは「自分が自分であるために」(第9回)のなかで、源氏物語が「自分さがしの物語」であることを再確認する。そして、3回続けて「宝物はどこにあるのか」(第10回)、「宝物に学ぶ人生」(11回)、「宝物を問い直す」(第12回)と、源氏物語が「宝物さがしの物語」でもあることを強調。最後に、「源氏物語と共に未来へ」(第13回)で、この物語が日本文化の至宝であることを力説する。その上で、それが受けいれられていない日本の現状をどう打開するかに論及している。ここで著者は、源氏物語が人生を生きる上で、いかに貴重な教訓を提示しているかについて、繰り返す。例えば、「2つで1セットの宝物は1つも失うな」とか、「宝物は正しく扱わないと失われる」やら「大きな宝物は小さな宝物を引き寄せる」など、キーワードとしての「宝物」に注目しているのである。結論的に、幸福は良好な人間関係の継続にあり、それをもたらすことが出来るものこそ「宝物」だとしているのだ◆源氏物語は54帖にも及ぶ大河小説だが、中心人物は光源氏であり、藤壺である。この物語は光源氏が出家し表舞台から消えるまでを正編に、その後の子や孫のことを描く42帖から最後までを続編とする。(他に、正編を光源氏が40歳になった「若菜」巻で区切って1部と2部に分け、続編と合わせ3部構成とする捉え方もある)。正編の1部では通常の人間では手にできない栄華を極めた時期を経て、2部でやがて零落していく光源氏の物語を追い、紫式部は読者にさまざまな人生の教訓を提示していく。江戸時代中期まではその教訓を金科玉条のように大事にし、多くの人びとは生きる上での糧にしてきた。だがそれを覆し、日本古来からの生き方(もののあはれ=大和魂の強調)に立ち戻れと言ったのが本居宣長であり、それをも伝統的な「教訓読み」は包含したと見る立場に島内さんは依拠する。光源氏が退場したあと、続編の「宇治十帖」では柏木から薫、浮舟といった後継の登場の場面へと移り、その顛末は未消化のまま幕を閉じる。この結末については、中途半端だと見る向きもあるが、自分さがし、宝物さがしは読者にゆだねるべく、紫式部はわざと突き放しているとの見方がなされる◆最終の第13回で、島内さんは大学時代に源氏物語研究の権威である秋山虔氏から「源氏物語を原文で読みたければ北村季吟の『湖月抄』を買いなさい。できれば本居宣長の説を追加した『増註・湖月抄』があればベストですね」と言われたエピソードを紹介。その通りに実行して原文を読んだ結果、「私の人生は大きく変わった。源氏物語を読むことで生まれ変わった」という。そして「ここには人生と文化、文明を導く知恵がぎっしりと詰まっていて、何でも創造できる。源氏物語こそ、最大の力である。まさに日本文化の至宝である」とまで絶賛する。さらにその宝物を、AIが発達した、「技術革新が起きている今こそ原文で理解できる好機である」とする一方、「千年間の豊饒な読みを未来に伝える『提供の方法』を、これからも模索したい」と決意を披瀝する◆私自身は、源氏物語の原文に幾たびか挑戦しようとはしたものの、途中で投げ出してしまい、何人かの現代語訳を齧っただけ。「教訓読み」にはもとより食指が動かない。むしろ本居宣長の「もののあはれ」論に興味を持つ。しかし、明治維新から今日までの、二度の「77年の興亡」における、キリスト教・西洋思想との相剋のなかで、「大和魂=大和心」は誤解、曲解されてきた。明治維新における「リセット」の役割はひとまず成功したが、先の大戦にいたるまでの流れでは見事に失敗。そして戦後も未だ正しい位置を得ていないように思われる。それゆえ、「第三の77年の興亡」の始まりにあたって、もう一度、〝源氏物語の復興〟を考えるのは面白いと思われる。かつて藤原俊成が「源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり」と言ったが、現代日本では、「源氏読まざる小説家は遺恨のことなり」の段階にとどまっており、幅広い大衆のものとなるにはまだほど遠い。島内さんが問いかけた、今の日本にとって必要なものは、「和の思想なのか、リセットの思想なのか、それとも第三の思想なのか」については、私は第三の思想であると確信している。その中身については、また別の機会に述べたい。(2024-3-18)