Monthly Archives: 9月 2024

【147】元防衛官僚による真摯な批判と反省━━柳澤協二『検証 官邸のイラク戦争』を読む/9-25

 イラク戦争(2003〜11年))において大量破壊兵器をサダム・フセイン政権が保有していると信じた米英軍が侵略攻撃をし、同政権を破壊した。ところが後にそれは嘘偽りの情報に基づくものであったことが判明した。米英の当事者たちはそれぞれ誤った情報で動いたことを認めた。ところが日本政府は今に至るまでそれをせず、「検証」を行った形跡すらない。実は、この戦争において首相官邸で自衛隊のイラク派遣の実務責任者を務めたのが標題作の著者・柳澤協二氏である。現役時代に外交・防衛に関するテーマに関心を強く持った私は、さまざまな場面でほぼ同世代の柳澤氏と付き合う機会があった。定年後の今もなおその関係は続いているが、防衛官僚と与党政治家の身として、「イラク戦争」への〝批判の眼差し〟には共振するものがある。2010年に公明党理論誌『公明』誌上で、簡潔な形にせよ私は反省の弁をまとめた。その意味で立場の差は微妙にあるものの、この書を紐解いて「共戦の譜」を読む思いさえした◆著者が退官後のほぼ4年の歳月をかけて、個人的に「イラク戦争を検証する試み」を成し遂げた所産がこれである。現代における「戦争の意味」に立ち返り、「無駄な戦争」と言われてきた「イラク戦争」を完膚なきまでに分析し総括した、極めて意義深い仕事だ。同時代を生きた政治家のひとりとして心底から敬意を抱く。イラク戦争への疑問を踏まえての総括(序章)に始まり、米指導者の戦争決断への思考過程の分析(第1章)、防衛研究所所長としての思考の方向性(第2章)、小泉政権の戦争支持に至る流れの分析(第3章)、自衛隊派遣の意思決定(4章)、派遣から撤退までの官邸の対応(第5章)、イラク戦争後の政策課題(第6章)を経て、「日本の国家像」を求めた終章まで、著者の思考の軌跡が惜しみなく披瀝されていて興味は尽きない。政権を支える役目を持った官僚が、自らも少なからず関わった政策決定の是非を批判を込めて検証するというのは、「防衛」分野では初めてのことではないか。かつての仲間たちの不満や怒りを存分に感じながら、何故にこの決断に踏み切ったか。柳澤氏のこの検証公開から12年ほどが経った今、改めて振り返ることは「日本と戦争」を考える全ての人にとって欠かせぬ作業だと思える◆中東・イラクでのアメリカの戦争に同盟国であるがゆえに参加するということは、戦後日本が経験したことのない初めてのものだった。憲法によって禁止された「国際紛争を解決するための武力の行使」であり、政府がそれまで一貫して否定してきたものだったのである。かつて「極東」という位置を巡って関わり方が大論争になった「ベトナム戦争」や、憲法前文にある「名誉ある地位」を占めることが契機になった「湾岸戦争」などとは明らかに違った。このため自衛隊の派遣については、戦闘地域から離れた後方地域での人道復興支援に限定した。戦闘に巻き込まれたら撤退するとの条件付きであった。米英をはじめとする同盟国とも戦争をめぐる価値観の不一致をそのままにした上での〝歪な同盟の展開〟だったのである。こうした背景を持つ戦争について著者は、「イラク戦争」において日本は、「戦後の平和国家としての自己認知を否定した」とズバリ位置付けた。しかもその「自己認知」は、「変動するアジアの中で、漂流を続けている」とまで明確に言ってのけている◆かつてイラク戦争真っ盛りの時に、米国の戦争に支持をした小泉政権のパートナーとして公明党は同調した。イラク北部のクルド族への虐待やら大量破壊兵器の存在を否定しないフセイン政権の真偽入り混じった〝挙動不審〟と〝乱暴狼藉〟に、私は公明新聞紙上で論考を上下2回にわたって書き、イラク非難の論陣を張った。「湾岸戦争」から引き続く「13年戦争」と捉えるべきだ、と。ペンと同時に兵庫県下各地で党員支持者の皆さんの前で、平和の党・公明党は座したまま理想を説く口舌の党ではなく、「行動する国際平和主義の党」だと強弁しまくった。少なからぬ男女党員の納得しがたい表情や声が今も目に浮かび、耳に残っている。こうしたことから、前述したように、誤った情報による政策判断のミスを率直に認めたものだった。柳澤氏の「検証」を読んで我が意を得たりと共感すると共に、与党の一翼を担う存在の一員として、政権の内側から戦争関与にどう歯止めをかけるかという立場の困難さを考えざるを得ない。(2024-9-25)

★他生のご縁 定年引退後に同じ「安保政策研究会」に所属

 柳澤さんは定年退職と前後して、ある新聞紙上に政府批判の論考を書かれた。ほぼ同じ頃、挨拶に見えた際、私は「人生後半に良い生きる道を見つけましたね」と不躾な思いを率直に吐露したことを思い出します。

 その後、一般社団法人「安保政策研究会」で彼は常務理事、私は理事になりました。再会した折に「(立場の変化で)昔の仲間を失った分、新しい友人が増えました」と、苦笑いしつつ述懐されました。その点、私とは昔も今も変わらぬ関係であることには不思議な思いを抱きます。

 この本の中で、柳澤さんの防衛研究所所長時代の後輩で長尾雄一郎第一研究室長のことがでてきます。私は彼のことを、同期だった石井啓一(公明党新代表)君と共に、高校生時代からその将来を嘱望していました。長尾君は残念ながら急逝してしまったのですが、遺稿となる文章(『我が国の安全保障上の国益』)を仲間が校正したとのくだりに触れて、柳澤氏との浅からぬご縁をも感じました。

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【146】「日本政治」への尽きせぬ思い━━ジェラルド・カーティス『政治と秋刀魚』を読む/9-19

 19日付けの毎日新聞に米コロンビア大名誉教授のジェラルド・カーティス氏の「日本政治」についての興味深いインタビュー記事が「小泉進次郎氏の恩師」との添書き付きで出ていた。この中で、同氏は崩れた自民党の構造をどう立て直すのかとの議論が総裁選で全くないことやら、9人の候補者の公平さを重視しすぎる結果「討論にならない討論会」になっていることなどを懸念している。また、日本の政党政治そのものが大きな問題に直面しているのに、小選挙区制度を改めるべきだとの議論さえ出てこないのは残念であると発言をしていて注目されよう。この人は昭和42年(1967年)の総選挙に立候補したある自民党候補に密着取材して『代議士の誕生』との著書を発表したのを契機に、日本政治のウオッチャーとして長年活躍してきていることでもよく知られている。今回取り上げた標題の著作は、サブタイトルに「日本と暮らして四十五年」とある。昭和39年(1964年)、23歳の時にコロンビア大学の大学院生として初来日していらいの見聞録風政治論考なのだが、今から16年前の2008年7月に出版されたものを改めて再読した◆周知のように、自民党は2007年の参院選で大敗し、2009年の衆院選でも惨敗。旧民主党中心政権への交代を余儀なくされた。この本はそのちょうど狭間の激動期に著されたもので、その時から15年が経つ。当時は突然辞任した安倍晋三氏に代わって福田康夫首相が誕生したばかりのときで「日本の政治は新しい混乱期に入った」とある。この後、麻生太郎首相の時代を経て民主党政権へと移っていくのだが、〝今再びの政権末期〟と言っても言い過ぎではないほどの自民党の体たらくを横目に、日本通の米国人政治学者の15年前の見立てから今何を学ぶべきかを考えざるを得ない。この著作でカーティス氏が最後に強調しているのは「説得する政治」の展開の必要性である。「具体的な改革の是非について、政治家が国民にわかりやすく説明して、議論して、説得する努力が必要である。野党だから与党の政策に反対する、与党だから野党の反対があるにもかかわらず押し付けようとするといった政治をやめて、新しい『説得する政治』を展開していく必要があると思う」と、最終章の「思考の改革」で結んでいる。残念ながら、第二期の安倍政権も、その後の菅、岸田政権も「説得する政治」が、実を結んだようには見えない◆一方、この本で、カーティス氏は公明党について重要な指摘をしていた。「(三党の連立政権が実現した1999年)そのとき、公明党が小渕総理の呼びかけを断って与党でもなく野党でもない『中間党』という立場を取ったなら、日本政治で初めて国会という立法府が政策立案の重要な場になったはずだとそのとき私は思い、今もそう思っている」とのくだりである。同氏は、ドイツの自由民主党(FDP)の例を挙げて、左右両勢力のどちらにも与しない生き方を、公明党もとっていれば良かったのに、政権党であり続ける選択をしたために、今や「自由に動きが取れなくなった」と嘆いている。この見方は、「中間党」との表現の当否はともかくとして、的を射ていると私は思う。あるときは自民党、またある時は立憲民主党や維新、国民民主党など野党と手を組む手法は「中道政党」としての魅力ある政治選択であると思われるからだ。そんなことがこの本を再読しながら頭をよぎった◆いかにも「後出しじゃんけん」みたいに思われるかもしれないが、公明党の与党化をめぐっては、この20年こうした選択肢の是非が出ては消え、消えてはまた浮上してきたのは事実である。自民党と立憲民主党の党のトップを選ぶ選挙を見ながら、なぜ公明党は、来し方行末を検証し予測する論争をしないのかとの思いは強い。冒頭の毎日新聞のインタビュー記事で、カーティス氏が、与野党の動きを占うなかで公明党の〝この字〟も出てこないのは残念というほかないが、〝音無しの構え〟あるのみの〝沈黙の集団〟では仕方なかろう。未だ、自民、立憲両党の選挙戦の決着はついていない。今からでも間に合う。両党の選挙終盤に向けて公明党発の何らかの発信をすべきだと思うのだが。(2024-9-19)

※他生のご縁 「9-11」直後の大沼保昭氏宅にて

 ジェラルド・カーティス先生と私のご縁は、あの2001年9月11日直後に遡ります。かねて親しくさせていただいていた大沼保昭東大名誉教授(故人)から、杉並区の自宅にカーティスさんが来られるので、一緒にどうか、とのお誘いをいただいたのです。それまで、殆どご縁がなかった私でしたので、喜んで出かけました。

 当初は市川雄一書記長も一緒の予定だったのですが、急用で来られず私だけになりました。その時は「9-11」直後とあって、大沼さんのところには新聞社からの「コメント依頼」などが寄せられて大忙しの状況。カーティス先生の文字通り怒り狂った様相、佇まいがとても印象的でした。日頃の沈着冷静さはどこへやら、「1812年の米英戦争以来、初めて首都が攻撃されたこと」への屈辱に立ち上がる「ナショナリストの姿」に私は只々呆然としていたものです。

 

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【145】究極の「歴史探偵」ここにあり━━半藤一利『荷風さんの昭和』を読む/9-12

 この本は、「歴史探偵」こと半藤一利さんが、永井荷風の日記『断腸亭日乗』をベースにして、昭和の始めから20年の敗戦までの、戦争への道にいたる「日本の社会と風俗」を描いたもので、「生きた歴史解説の書」とでも言えようか。とても面白くてためになる。平成6年(1994年)の1月から1年12回にわたってある雑誌に連載されたものを大幅に加筆して出来上がった。世に出て既に30年になる。半藤さんは亡くなって3年余りが経つが、私はこの人と生前に一度だけだが食事をご一緒したことがある。拙著『忙中本あり』を出版して暫く経ったころだった。事前にその本を贈呈していた。因みにそれは私の処女作で、1999年初から2000年末までの2年間100週に読んだ約300冊の読書録である。そこには半藤さんの名著『戦う石橋湛山』も入っている。その時の会話は殆ど忘却の彼方だが、挨拶も終わらぬうちに頂いた言葉だけは鮮明に覚えている。「貴方はくだらない本を随分沢山読んでる人ですねぇ」と。ホントのことをズバリ言われた気もして、本心は満更でもなかった。それもあってか、その後この人の本は『日本のいちばん長い日』『昭和史』『戦後史』『漱石先生ぞな、もし』を始め、せっせと読んできた。ただし、この『荷風さんの昭和』は未読だった◆取り上げられた荷風は、明治から昭和にかけて活躍した小説家だが、ここでは先の大戦を鋭く批判した日記(大正6年-昭和34年)が「原資料」となっている。世の中がお上から下々まで戦争讃美に流された時代風潮に抗して、無視し贖い続けた「反骨の人」として名を馳せている。かねてより深く尊敬してその足跡を追ってきた、半藤さんは江戸の戯作者もどきの側面を持つ荷風をその実情を露わにすべく面白おかしく描き切った。慶應の教授でもあった荷風にかねて関心を持った私は、若き日に岩波書店版『断腸亭日乗』全集7巻を購入して、書棚に並べた後、押入れに突っ込んできた。しかし、御多分に洩れずおよそ開くこともなく、放ったらかし。今回半藤さんの「手ほどき」を受けるとあって、初めて紐解いた。頁を捲ると、何やら異様な黴臭いにおいがしてきて始末が悪かったが目をつぶったしだいだ。この本の醍醐味は、江戸期から明治・大正期を経て昭和の戦争に突入し、やがて日本が「滅亡」するまでのおよそ100年を、硬軟両面に分けて、交互にじっくり観察したことにある。例えば、第1章が「この憐れむべき狂愚の世━昭和3年〜7年━」とくると、第2章は「女は慎むべし慎むべし」とくる。以後奇数章はお硬く、偶数章はぐっと柔らかい。第4章など「ああ、なつかしの墨東の町」と銘打って、「玉の井初見参の記」━━色街探訪が展開されるという具合だ。因みにその前段の3章「『非常時』の声のみ高く」では、「天皇機関説」をめぐる言論界の様相が見事に抉られている◆戦後第一世代の私はそれなりに、戦前の時代状況を学んできたとの自負はあった。しかし、この本を読んで、そんな経験や考察がいささかぐらつきかねないことがよく分かった。例えば、我々は「日清・日露の勝利」をピークに、大戦前の40年ほどを一括りにして「軍事力拡大の時代」として見てしまいがち。だが、これでは荒っぽ過ぎる。昭和9年5月末に逝去した日露戦争最大の殊勲者・東郷平八郎元帥は「国葬」の扱いだった。だが『日乗』では殆ど触れず、日本海海戦における功績は別人にありとの見方を提起している。そして、半藤さんは荷風の指摘を肯定した上で「大功はすべて東郷ひとりに授け、事実を秘匿した。おかげで、日露戦争後の日本はリアリズムを失って、どんどん夜郎自大のとんでもない国になっていく」と、「反薩長史観」的見方を、我が意を得たりとばかりに展開している◆昭和5年5月生まれの半藤さんは、20年11月生まれの私とは15年半ほど歳上だが、この差は実に大きい。彼はものごころついた時に軍人が幅を効かし行く時勢を存分に見聞きし、のちに荷風さんの命懸けの反戦の振る舞いを検証しているのだ。学徒動員に駆り出される寸前に敗戦を迎えた、いわば〝寸止め世代〟でもあって、「国家悪」を凝視する態度が実にきめ細かく堂に入っている。私の15歳の頃といえば「60年安保」の年。大学を卒業する頃が「70年安保」前夜。大学紛争が東大から日大まで燃え盛った。半藤さんより少し上の「学徒動員世代」の恨み辛みがあたかも世代を超えて乗り移ったかのようであった。とは言うものの、時代背景そのものは戦前の「亡国の翳り期」と、占領期を経て「興国の勃興期」とでは、比べるべくもないといえよう。ともあれ、戦後世代は、「荷風・一利」連合チームの硬軟相和す攻めの前に、なす術なしなのである。(2024-9-13)

●他生のご縁 娘婿との繋がり

半藤さんとのご縁のきっかけは、彼の娘婿・北村経夫産経新聞政治部長(現参議院議員)との出会いに始まります。とある赤坂の居酒屋で偶然知り合って以来親しくなりました。北村氏は山口県出身。安倍晋三元首相と気脈を通じ合った気骨あふれる長州人です。義父がすんなり娘の結婚相手を認めたのかどうか。大きな謎です。

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