木陰が恋しかった酷暑の夏から、待望の秋めいた季節が到来した。と同時に疾風迅雷のごとく、「石破茂首相」が誕生して2週間余で衆議院総選挙が公示された。その直前に出版されたこの本は、まさに今回の選挙における最大の争点にすべき課題を取り上げている。そういうと、一瞬「えっ、どうして」と思われる向きも多いかもしれない。「家族」という極めて当たり前の言葉を掲げられて、選挙の争点との繋がりは分かりづらいかもしれない。実は、日本が直面する様々な問題を、次々と取り上げて小説化してきた著者が、これこそ今の日本の根底的課題だとして提起する作品だからである。副題をつけるとすれば「あなたはヤングケアラーを知ってるか」だろう。ケアをする若い人━━親の世代の面倒を看ざるを得ない子ども世代のことを一般的には指す。高嶋さんと私はこの数年とても親密な関係になって色々と教えていただき、意見を交換する仲だが、この本には彼の小説家人生のある意味で総決算といってもいいほどの思いが込められていると、確信している。政治家が真っ先に読むべき本に違いない◆少子高齢化、認知症、貧困、格差、少年犯罪、いじめと引きこもり、学校教育現場の荒廃など、現代日本が抱えている問題はすべて「家族」に帰着し、みんな繋がっている、というのが著者の見立てである。「ヤングケアラー」問題を、国会で幾たびも取り上げて、政府当局を糺し、追及している私の後輩女性参議院議員がいるのだが、彼女を冷めた眼でみる人たちは少なくない。おおむね古い考え方をする男性年配者たちに多いと思われるが、共通するのは、「国会は天下国家を論じる場所ではないか」「ヤングケアラーって、家族の中で貧乏くじひいた不幸な一員に過ぎない」といった決めつけである。しかし、この本はミステリー小説風にぐいぐいと引き込ませる。ハッピーエンドではないものの、読み終えた時には、爽やかさもあって、問題解決への息吹も吹き込まれた感が漂う◆住宅火災の跡から3人の遺体が出たことからこの小説は始まる。━━3人はその家の45歳の母親と22歳の息子と72歳の祖母である。その一方で、火災発生とほぼ同時に19歳の長女が家から飛び出し、通りでタクシーにはねられた。意識不明の状態が続く。この悲惨な事件は介護に疲れた長女の仕業ではないかとの警察筋の見立てで進行していくが、それに疑問を持つ29歳の雑誌記者の笹山真由美が真実の解明に動くとの筋立てである。亡くなった3人のうち、息子は12歳の時の交通事故が原因で寝たきり状態。祖母は介護を必要とする認知症。父親が先年に癌で亡くなっており、看護師の母親が家計を切り盛りし、長女が幼い時から日常的に看護と介護を担当するという典型的なヤングケアラーだ。この家族を縦軸に、真由美の元新聞記者の65歳の父親の2人の家族を横軸に物語は展開する。この父親もアルツハイマー型認知症が進行しつつあるというのだ◆ヤングケアラーであること自体は決して不幸ではない、むしろ家族の絆を深めゆく重要な要素であるという考え方が全体のトーンを貫く。ここに実は重大な現代社会の病巣を解きほぐす鍵が潜む。かつての「姥捨山の物語」は、いまの「施設預け」へと変貌し、「老老介護」の悲喜劇を彩る。他方、ヤングケアラーは若者への肉体・精神的負担増を強いる一方で、密度の濃い人間の絆を育む重要な接点の役割を果たす。家族という社会の最小単位をもう一度原点から考え直す機縁となることに現代人は気づかねばならない。著者の高嶋さんは、負のイメージで捉えられがちなヤングケアラーをむしろ社会の復興に役立てようとしている。もちろん、それは自助や共助任せでよしとするのではなく、足らざる公助を仕組みとして充実させようとの狙いがあるはず。ともあれ、バラバラになりがちな〈個人、家族、社会〉の一体的結合に向けて、大いに考えさせられる特異な役割を持つ好著である。(2024-10-25)
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【149】粋な生き方を貫くなかで━━帯津良一『後悔しない逝き方』を読む/10-9
以前に、この著者(帯津三敬病院名誉院長)の『粋な生き方』という本を取り上げた際(No143/8-23号)に、この本も一緒に読んでいたのだが、書くことはせずにいた。この人の本はどれも興味深く読めて、役に立つ。サブタイトルに「患者さんが教えてくれた32の心得」とある。「生・老・病・死」の4ジャンルごとに、①元気なころ②老いを意識したころ③病を得たとき④死を意識するころ━━の4章をあてて、それぞれについての「心得」に言及している。常日頃の患者との接触を経て、教えて貰ったというより、気付かされたものを展開してるに違いない。それぞれの章から、印象に残るくだりを挙げてみる◆まず、①では、「いのちのエネルギーを高めて生きること」が「真の養生」だとして、人生の価値は長さだけではなく「質が大切」だとする。29歳で大腸がんで亡くなった女性患者は、地質の研究に一生を捧げた人だった。亡くなる3週間前に書かれた詩を帯津さんは読み「地質を通して地球の46億年の歴史を見て、宇宙の 150億年を感じてきた」に違いないと見抜く。「80年90年とかからないと卒業できないのが凡人なら、若くして亡くなる人の多くは養生の天才で、短い時間で単位をとることができた」と。そして「健康は大切ですが、健康ばかりに目が向かって、『古狸が穴の中で眠りこけている』ような生き方はやめて、何かに燃える生き方をしよう」と呼びかける。ほぼ80年を生きてきて、未だ中途半端な身でしかない我が身には耳が痛い◆②では、「年を取ったら、大いに羽を伸ばして、あちこち飛び回ればいい」と、老後は自由を謳歌しようと、提案する。その際に江戸期に生きた著述家・神澤杜口が、日本各地の伝説や異聞を集めた『翁草』全200巻を著したことを実例として挙げて、絶賛している。しかもこの人物は44歳の時に妻に先立たれており、以後40年間の一人暮らしの間でこれだけの偉業を成し遂げたのだ。これこそ「大きな自由」ではないか、と。帯津さんも奥さんに先立たれており、一人暮らしを謳歌している。妻という存在は、若い時は「恋人」だったが、やがて「妹」から「姉」になって、ついには「母」を経て、「看護士」「介護士」に成り果てる━━というのが定番。これが私の持論である。ならば、どこかの時点で一人立ちして生きるのもいいものかも知れない◆次に、③では、〝患い上手〟=名患者になるすすめを説く。「自分が名患者になれば、周囲にあるものがすべて名医、妙薬に変わる」といい、「自分が変わる。そしたら、結果的にまわりも変化してくる」と。このセリフは、信仰の世界の真っ只中で若き日から生きてきた私は、よく聞いてきたし、自身もまたよく使ってきた言い回しだ。自立した個人の「一念の転換」によって、客観的事情はいかようにも変わる、と。主観の意志の強さしだいだというわけだ。だが、果たして「医療」に十分な効力があるかどうか。主体としての患者本人の意志の強さと、助縁者の医師との共同作業的側面があろう。患者の気ままさは勿論許されないが、医師に頼りすぎもまた少なからざる問題を引き起こす◆④では、46歳で亡くなった哲学者の池田晶子の「池田は死んでも、わたしは在る」との言葉を引用して、「池田晶子というレッテルを貼ったひとりの人間は消え去ってしまうけれども、私の本質であるいのちは永遠に残る」との名言を遺したと、絶賛している。これを聴くと、私は、日蓮仏法でいう「空仮中の三諦論」を思い起こす。生身の人間は一代の寿命が尽きて物質的(仮諦)には、消え去ったかに見えても、人間存在を成り立たせてきた性格(空諦)や、いのちの本質(中諦)は変わらず、永遠に流れゆくというものである。池田の言葉は見事にこの仏教哲理と相呼応していると思われる。「死後のこと」について、帯津さんはとても大事なことを言っている。「この世に未練を残して嫌々あっちの世界に行くのではなく、『決断』して『選び取って』、意気揚々と旅立っていく」ことが大事だとした上で「想像力を最大限に発揮して、それにふさわしい魅力的で楽しい世界をイメージするようにしています。そうすれば、その瞬間が来るのを大いに楽しみにできるようになるのです」と。この「死後の世界のイメージを持っておこう」との提案は中々大事でユニークなもののような気がする。帯津さんは、死に際しては、「虚空」に向かうロケットのように最高の爆発力で勢いよく飛び立とうという。そううまくいくかなあと思いつつ、一日の終わりのささやかな酒宴に舌鼓を打つことだけは、帯津方式を真似をして実践している私なのである。(2024-10-9)
【他生のご縁】国会での前議員の会合で講演を聴く
衆議院議員のOB会に帯津良一さんが見えて講演をされた時からの繋がりです。年齢は私よりほぼ10歳上の小太りの方でした。初お目見えから既に10年。今はもう90歳寸前でしょうが、粋なじいさんぶりは更に、磨きがかかっているようです。
夕方が来ると、病院に勤務する女性の医師、看護師、各種従業員たちとテーブルを囲んで酌み交わす。それが最大の楽しみです、と語られた時の嬉しそうなお顔とお声の響き。それは今もなお耳朶から離れません。
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【148】好きこそプロの始まり━━荻巣樹徳『幻の植物を追って』を読む/10-2
「たかだか勉強ができないだけで何も落ち込む必要はない。むしろ逆に勉強ができないことによって、自分だけしかできない方向に導かれていくことがある」──世界的なナチュラリスト(植物学者)であり、「四川植物界名人」などの称号で知られる荻巣樹徳さんが「子どもたちに言いたいこと」として、挙げている言葉だ。また若者には、「もっと自分のお金を使いなさい。自分に投資しなさい」とも。80歳を目前にした私が己が人生を振り返って心底から共鳴する。名著『幻の植物を追って』は、残念ながら〝猫に小判〟で、私の興味はあまり惹かない。美しくて珍しい草花が気高く掲載された本を捲りながら、「植物と人間の差異」の大きさへの理解に悩み続けた。だが、この本を著者から頂いて10年余りが経った頃、漸く分かる糸口を見つけた。かのビートたけし氏との対談(『たけしの面白科学者図鑑 地球も宇宙も謎だらけ』所収)を読むに至ってからのことである。ここではご両人のやりとり──たけし氏の「聞く力」を手がかりに、未知の世界への探訪に挑んでみた◆荻巣さんは5〜6歳の頃から植物の栽培に興味を持った。万年青(おもと)、万両(まんりょう)、細辛(さいしん)など伝統園芸植物を栽培するようになったのは中学生の頃というから驚く。著者の生まれ育った愛知県尾張地方は古くから園芸が盛んな土地。それもあって、異常なほど植物が好きで好きで仕方なかったようだ。一日も早く〝植物のプロ〟になりたかった荻巣さんは、高校を出て直ぐに、欧州に渡り、ベルギーのカラムタウト樹木園を始め、オランダのポスコープ国立試験場やイギリスのキュー王立植物園(ハーバリウム)、さらにはウィズレイ植物園などで学び続けた。そして30歳を過ぎて1982年に中国の四川大学へ行って学生になり、そこに収蔵されている標本約11万点を閲覧し、すべて頭に叩き込んだ。そして翌1983年ロサ・シネンシスの野生種を再発見して、世界を驚かせた。欧米人が標本を採取した後に、実物を見た人がおらず、詳しい自生情報など一切不明だった。それを70年ぶりに明らかにしたことで一躍有名になったのである◆この発見にまつわる逸話は興味深い。植物を探すという行為は、時間の制約上、移動しながら探すしかない。時速35キロくらいの車で動きつつ、直径2-3センチほどの植物を視認していく。動体視力が重要なのだが、中国のバラの野生種を全種類、頭にインプットしていたからこそ見つけることができたといわれる。そしてそれは運がよかったのであり、自分の力ではなく、「縁」だと強調されている。「同じ生物としてこの地球に生まれたからには、その『隣人』の存在に気づかないまま会えなくなってしまうというのは悲しいです」と、四川大地震のような自然災害や人為的な自然破壊を恐れている。「植物調査の過程で、縁あって『初めまして』と隣人の存在に気づくのが、僕のできることなのだろう」との述懐がとても新鮮というか、奥ゆかしい。異国の山中で、突然出くわした植物に、「どうも、お初に。待ってくれてたんですね」と語りかける荻巣さんを想像するのは微笑ましい限りだ◆以前に、この人が中国とベトナムの国境奥深くへとフィールドワークに行かれると聞いて、同行させて貰おうかと考えたことがある。いいですよ、行きましょう、とご承諾頂いた。だが、いくら「現場第一主義の公明党」の人間だからといっても、それは足手纏いだろうと諦めた。荻巣さんは、私が付き合った人の中で、紛れもなく最高の位置を占める「知の偉人」だが、その「知」は、並大抵な努力で培われたものではない。普段は大阪豊中での研究室仕様のマンションにひとりで暮らしておられる。かつて「奥さんはどこに?」と訊いた。「東京です」「えっ、別居状態ですか?」「ええまあ。勿論、時々会いますよ」──浅はかな想像力で、あれこれと思いをめぐらせたが、全貌はわからぬままになっていた。それが、「たけしとの会話」で遂に明らかになった。「月に2回ぐらいは仕事で東京に来ます。しかし、その時、家へは泊まりませんね。家に帰ると、食事やお風呂の用意ができてるでしょう。それが人をダメにしますね」「そういうことが身につくと、まずフィールドワークはできなくなります。風土病など、いろいろな病気にかかる恐れもあるし、まさに命がけです」と。この人、およそ生きぬく覚悟の出来具合が違うと、心底から思い知った。(2024-10-2)
★他生のご縁 西播磨の植物研究所での出会いから新天地を求めて
荻巣さんとの出会いは西播磨の山崎町にあった「植物研究所」です。とある企業の尽力で貴重な植物が保存されていました。初めてお会いしたのは懇意にしていた当時の白谷敏明町長(後に宍粟市長)さんのごの紹介でした。いらいほぼ30年、幾たびも常に新鮮で、実りある会話をさせていただいた。時に2人きりで、また、古くからの友人や植物好きを交えて。
ご時世から企業メセナに頼られることにも限界が生じて、その植物研究所が移転やむなきの事態になり、新たなる場所を求めることになってしまいました。なんとか探して差し上げたいと焦っているのですが、いまだに見つけられていないのはとても残念なことです。
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