「たかだか勉強ができないだけで何も落ち込む必要はない。むしろ逆に勉強ができないことによって、自分だけしかできない方向に導かれていくことがある」──世界的なナチュラリスト(植物学者)であり、「四川植物界名人」などの称号で知られる荻巣樹徳さんが「子どもたちに言いたいこと」として、挙げている言葉だ。また若者には、「もっと自分のお金を使いなさい。自分に投資しなさい」とも。80歳を目前にした私が己が人生を振り返って心底から共鳴する。名著『幻の植物を追って』は、残念ながら〝猫に小判〟で、私の興味はあまり惹かない。美しくて珍しい草花が気高く掲載された本を捲りながら、「植物と人間の差異」の大きさへの理解に悩み続けた。だが、この本を著者から頂いて10年余りが経った頃、漸く分かる糸口を見つけた。かのビートたけし氏との対談(『たけしの面白科学者図鑑 地球も宇宙も謎だらけ』所収)を読むに至ってからのことである。ここではご両人のやりとり──たけし氏の「聞く力」を手がかりに、未知の世界への探訪に挑んでみた◆荻巣さんは5〜6歳の頃から植物の栽培に興味を持った。万年青(おもと)、万両(まんりょう)、細辛(さいしん)など伝統園芸植物を栽培するようになったのは中学生の頃というから驚く。著者の生まれ育った愛知県尾張地方は古くから園芸が盛んな土地。それもあって、異常なほど植物が好きで好きで仕方なかったようだ。一日も早く〝植物のプロ〟になりたかった荻巣さんは、高校を出て直ぐに、欧州に渡り、ベルギーのカラムタウト樹木園を始め、オランダのポスコープ国立試験場やイギリスのキュー王立植物園(ハーバリウム)、さらにはウィズレイ植物園などで学び続けた。そして30歳を過ぎて1982年に中国の四川大学へ行って学生になり、そこに収蔵されている標本約11万点を閲覧し、すべて頭に叩き込んだ。そして翌1983年ロサ・シネンシスの野生種を再発見して、世界を驚かせた。欧米人が標本を採取した後に、実物を見た人がおらず、詳しい自生情報など一切不明だった。それを70年ぶりに明らかにしたことで一躍有名になったのである◆この発見にまつわる逸話は興味深い。植物を探すという行為は、時間の制約上、移動しながら探すしかない。時速35キロくらいの車で動きつつ、直径2-3センチほどの植物を視認していく。動体視力が重要なのだが、中国のバラの野生種を全種類、頭にインプットしていたからこそ見つけることができたといわれる。そしてそれは運がよかったのであり、自分の力ではなく、「縁」だと強調されている。「同じ生物としてこの地球に生まれたからには、その『隣人』の存在に気づかないまま会えなくなってしまうというのは悲しいです」と、四川大地震のような自然災害や人為的な自然破壊を恐れている。「植物調査の過程で、縁あって『初めまして』と隣人の存在に気づくのが、僕のできることなのだろう」との述懐がとても新鮮というか、奥ゆかしい。異国の山中で、突然出くわした植物に、「どうも、お初に。待ってくれてたんですね」と語りかける荻巣さんを想像するのは微笑ましい限りだ◆以前に、この人が中国とベトナムの国境奥深くへとフィールドワークに行かれると聞いて、同行させて貰おうかと考えたことがある。いいですよ、行きましょう、とご承諾頂いた。だが、いくら「現場第一主義の公明党」の人間だからといっても、それは足手纏いだろうと諦めた。荻巣さんは、私が付き合った人の中で、紛れもなく最高の位置を占める「知の偉人」だが、その「知」は、並大抵な努力で培われたものではない。普段は大阪豊中での研究室仕様のマンションにひとりで暮らしておられる。かつて「奥さんはどこに?」と訊いた。「東京です」「えっ、別居状態ですか?」「ええまあ。勿論、時々会いますよ」──浅はかな想像力で、あれこれと思いをめぐらせたが、全貌はわからぬままになっていた。それが、「たけしとの会話」で遂に明らかになった。「月に2回ぐらいは仕事で東京に来ます。しかし、その時、家へは泊まりませんね。家に帰ると、食事やお風呂の用意ができてるでしょう。それが人をダメにしますね」「そういうことが身につくと、まずフィールドワークはできなくなります。風土病など、いろいろな病気にかかる恐れもあるし、まさに命がけです」と。この人、およそ生きぬく覚悟の出来具合が違うと、心底から思い知った。(2024-10-2)
★他生のご縁 西播磨の植物研究所での出会いから新天地を求めて
荻巣さんとの出会いは西播磨の山崎町にあった「植物研究所」です。とある企業の尽力で貴重な植物が保存されていました。初めてお会いしたのは懇意にしていた当時の白谷敏明町長(後に宍粟市長)さんのごの紹介でした。いらいほぼ30年、幾たびも常に新鮮で、実りある会話をさせていただいた。時に2人きりで、また、古くからの友人や植物好きを交えて。
ご時世から企業メセナに頼られることにも限界が生じて、その植物研究所が移転やむなきの事態になり、新たなる場所を求めることになってしまいました。なんとか探して差し上げたいと焦っているのですが、いまだに見つけられていないのはとても残念なことです。