Monthly Archives: 7月 2024

【139】臥薪嘗胆の5年あってこそ━━安倍晋三/橋本五郎、尾山宏、北村滋『安倍晋三回顧録』を読む/7-27

 「シンゾウは私と会う時、いつもスーツのボタンをしているけれど、私もした方がいいか」━━トランプ米大統領(当時)が天皇陛下と2019年5月27日に会見するにあたって、安倍晋三首相に聞いてきた。自分との前ではいいけど、陛下の前ではしてくれと安倍さんは言った。トランプ氏の〝ノーボタン〟がいつも気になっていた私はこのエピソードが腑に落ちた。この回顧録は、2020年10月から一年の間に18回36時間にわたって行われたインタビューが基になっている。長期政権の舞台裏と共に、オバマ、プーチン、メルケル、習近平氏ら世界の指導者の人物月旦(げったん)がふんだんに盛り込まれていて実に楽しく面白い。読売新聞の橋本五郎、尾山宏氏ご両人の「つっこみ」も、時に冴えわたり読み応え十分の内容である。出だしの第1章は新型コロナが蔓延した2020年・政権末期の格闘。そこから第一次内閣の発足(2006年)前後へと遡って、退陣、再登板までの〝本番前夜〟を追う。この後、2013年からの8年間へと移るのだが、憲政史上最長期政権となった根源の秘密は、私は第一次政権の失敗とその後の〝臥薪嘗胆の5年〟(2007-2012)にあると見る◆第一次内閣を安倍さんは経済政策が弱かったと認め、「戦後レジームの脱却に力が入りすぎていた」と振り返っている。教育基本法の改正、防衛庁の省昇格、国民投票法の制定など、50〜60年に一度の重要な法改正を相次いで行ったことに「無理をしたという思いはあるか」と聞かれて、「一点集中突破ではなくて、あらゆる課題を全面突破しようと考えていた」と答えた上で、「若さゆえだった」と正直に認めている。退陣後の「まさに茫然自失」状態を経て、反省と鬱憤晴らしを込めてノートに書き溜めたことやら、高尾山登り(2008年)で出会った人々からの励ましが再起のきっかけとなったことを明かす。そして、地元で20人以下のミニ集会を約一年の間に300回やったことで、地域の皆さんが何に興味があり、何に困っているかが分かった━━有権者の関心は、やっぱり日々の生活なんだなときづかされた、と強調する。加えて、経済の専門家と繰り返し議論し、デフレ脱却の勉強会の会長を引き受ける中で、「日銀の金融政策や財務省の増税路線が間違っていると確信していく。そこでアベノミクスの骨格が固まって」いったと述べて、後の「産業政策のみならず金融を含めたマクロ経済政策を網羅することになる」経緯を、誇らしげに披瀝するのだ◆全編を通じて、財務省、厚労省への厳しい眼差しと共に、立憲民主党や一部メディアの安倍批判に返す刀を振るう場面が目立つ。2度にわたる政権運営を降りて間もない頃だけに、生々しい感情の発露が伝わってくる。当然ながら公明党に関する記述が気にかかった。「連立の意義」について、「風雪に耐えた連立」と断定、3年3ヶ月の野党・自民党とタッグを組み続けてきた公明党を「相当のチャレンジだった」とし、「(自公両党は)よく乗り越えた」と評価しているのはまさに的確に違いない。選挙での公明党の力には「平身低頭するしかない」と述べ、組織力の強さに脱帽する一方、とくに社会保障分野などで公明党の意見を取り入れる形で協力関係を強め、政権安定を図ってきたことを自負している。安全保障分野では、平和を達成するための手段、考え方が違うため幾度もぶつかったが、その都度綱引きをして一致点を見出したことがリアルに語られており興味深い。集団的自衛権の制限的容認やその後の安保関連法制については公明党は「よく協力してくれた」と安堵した風が率直にうかがえる。ただ、「自衛隊の明記」など憲法本体については、「山口那津男代表は私の前では自分の意見を言わず、いつも私の話を聞いた後、『うちの組織は厳しいですね』みたいな話をする」と、不満めいた心情を吐露しているのは印象深い◆安倍政権の評価について私は、「功罪相半ばする」との見立てだった。半分の「罪」は、いわゆる「もりかけさくら」問題での疑惑にある。森友問題は「(財務省が)改竄なんかするから、まるで底の深い疑惑があるかのように世間に受け取られてしまった」といい、加計学園問題では、官僚がなんでも首相案件にしてしまう愚を指摘しつつ、自身は踏み込まなかったと明快である。それに比して「桜を見る会」については、国会で事実と異なる首相答弁が4ヶ月で計118回あったことなど「政治的責任は重い」と明確に認めている。前夜祭を巡って公職選挙法違反の案件が尾を引いたこともあり、「李下に冠を正さず」のことわざを大きく逸脱している非は覆うべくもない。(2024-7-27)

【他生のご縁 同じ「新学而会」のメンバーとして】

 中嶋嶺雄先生(元秋田国際教養大学長兼理事長)のもと、学者、政治家の勉強会「新学而会」の一員として私は、安倍さんと一緒する機会が幾度かありました。席を並べたのです。

 超保守的団体の主催による尖閣を守る集会があったときのこと。遅れてきた安倍さんとばったり会いました。その時に、「こんな会に来ていいんですか」と言われました。その際、大きなお世話だと思ったものですが、さて。

 

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【138】「普通ではない政治家さん」━━石破茂『異論正論』を読む/7-20

 石破茂さんと私はかつて同じ政党に所属していた━━っていうと、ほんまかいなと訝しく思われる向きもあろう。そう、新進党である。1993年6月、宮澤喜一内閣に不信任案が出された。それに石破氏は賛成票を投じた。そのため、次の総選挙で自民党からは公認されなかった。無所属で出馬しトップ当選、その後に小沢一郎氏率いる新生党に。そして新進党に合流した。衆院の公明党も一緒だった。石破さんには『集団的自衛権』『国防』『日本列島創生論』など幾つかの専門的な著作がある。そのうち、政治エッセイ風の標題作(2022年)を選んだ。石破さんは自民党議員の中での評判に比べて、全国の党員始め庶民大衆受けは圧倒的に高い。ひとたび党を離れた経歴を持つ人には疑念がつきまとうのだろうか。それを意識したと見え、この本の中に、「なぜ私は離党したのか」との見出しで5頁ほどの解説がある◆「(分裂後の自民党が)憲法改正論議を凍結する、という方針だったことが」原因だという。しかし、新たな新生党も新進党も権力闘争の繰り返しだけ。当初掲げていた集団的自衛権の行使容認や憲法改正に曖昧な方向しか見えず、結局次の総選挙で再度無所属に戻り、当選後自民党に復党した。新進党が自滅した要因は、「自民党と対峙して二大政党制を実現する」との、当時の左から真ん中、右までの幅広い「政治改革の夢」が脆くも崩れたことにあった。石破さんのここでの説明を聞く限り、私たちとは「同床異夢」だったのである。1994年から僅か3年の寿命だった新進党はただ〝罪作り〟だったのかもしれない。復党後、臥薪嘗胆の時を経て、石破さんは2012年から4回続けて自民党総裁選挙に出馬する。しかし悉く負け続け、前回は出馬を見送った。こういう経歴の人は自民党では過去に見出せない◆もともと学識豊かな論客家肌の上に、総裁選を経て一段と磨きがかかってきた。あたかも12年浪人している司法受験生のようなもので、この間常に勉強を積み重ねてきているイメージは強い。この本でも随所に窺える。特に、第10節「外交の場では歴史の素養が求められる」では、フランス国防相とのイラク戦争をめぐる論戦から説き起こし、米中関係を考える上での米ソ対立との歴史的相違点などに論及したのち、各国首脳の思考回路を知っておく必要があると強調。最後に、「あらゆる事態を想定しておくことが政治家には求められ、そのためには寸暇を惜しんで本を読む、識者にお話を伺うなど、勉強をし続けることが絶対に必要である」とまで訴えているのだ。ここ数年、国会が始まり衆議院予算委の場面になると、質疑者の右斜め後ろの席に石破氏がいつも座っている。質疑の展開と彼の表情、仕草を合わせ見ると面白い。その際の心象風景の解説は心憎いほど。自身に質問の機会がないことを嘆きつつ、チャンスが来れば、「見ている国民の方に納得いただけるような構えの大きな話をしたいもの」だという◆ここで、憲法9条の改正を巡っての考え方の違いについて触れたい。「自衛隊の存在の明記」をしたいとの安倍晋三首相のスタンスに対して、彼は異論を唱えた。その理由は「それまで自民党内で決めていた改憲案とはまったく別の思想によるものだったから」だという。確かに石破さんの言う通りだろう。元をただすと、安倍さんをその気にさせたのは、太田昭宏公明党前代表であり、私も後押しした。それに乗った安倍さんは柔軟であり、乗らなかった石破さんは真っ直ぐ過ぎると言うのが私の見立てである。私が石破さんの主張で最も同調するのは、「これからの日本は『自立精神旺盛で持続的な発展を続けられる国』を目指すべきだ」として、「その実現のためには国のグランドデザインも見直していく必要がある」と強調しているところだ。見直すべきものがあるのかどうか。国の方向性の議論なき連立政権は危うい。この本の出版ののちに、「旧統一教会問題」や派閥絡みの「裏金作り」が表面化した。安倍さん健在なりせばいかなる対応をしたものか極めて興味深い。石破さんのこれらについての考え方はやはり同党の中で最も光彩を放つものだった。(2024-7-20)

【他生のご縁 束の間だけ同じ釜の飯を食った仲】

 ひと回り下の同じ酉年。同じ大学の出身で、先に書いたように同じ政党に属していたこともあります。思い描いた政治改革の素描は少し違いましたが、懐かしい思い出です。ずいぶん前ですが、「防衛」「農水」ばかりでなく、もっと幅広いテーマに関心を持って、などと身のほど知らずにも忠告めいたお節介を焼いたこともありました。時に応じてメールのやり取りもするなど、引退後の今も親しくさせて貰っています。

 かつて自民党には総裁候補が踵を接して待機していました。大向こうのそれなりに納得する布陣でした。今はどうでしょうか。ともあれ、そろそろこの人の出番ではないかと睨んでいます。本文中に書きましたように、準備は万端、十分過ぎる勉強をしてきました。運気到来です。

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【137】あの母ありてこの娘あり━━小池百合子『自宅で親を看取る』を読む/7-13

 女性初の都知事になって8年。小池百合子さんはこのたび3期目の当選を果たした。その母親が2013年(平成25年)に肺がんを医師から宣告され、娘の小池さんが自宅で看取るまでの12日間の介護日誌である。2005年〜06年環境相を経て防衛相(07年)、党総務会長(10-11年)など要職を次々と経て、都知事になる3年前のことだった。当初から短い期間だと分かっていたし、現職国会議員の様々な利点があるとはいえ、「親の介護」はやはり並大抵のことではない。世間では、諸般の事情でしたくともできない。様々の苦労が祟り身体を壊す。あるいは最初からその役目を放棄するなど悲喜こもごものドラマに溢れている。小池さんの「看取り体験記」は実に味わい深くためになる。これまでその政治的信条に好感を抱けず、ご縁のなかった人たちも含め、今に生きる現代人にとって得難い書と言っても言い過ぎではない◆「平成25年の夏、日本列島は記録的な猛暑に見舞われていた」との一文から始まるこの本は実に読みやすい。5行後に続く、「八十八歳の母は疲れきっているように見えた」から一気に引き込まれる。実はこれより少し前の5月末に小池さんの父・勇二郎さんが90歳で亡くなったばかり。父親の場合は特別養護老人ホームに入っていて、併設の病院で「大往生の死」を迎えた。そのショックもあり母・恵美子さんは一段と暑さもこたえたのだが、遡ること1年半ほど前に肺がんを告知されていた。そこから一気に病が昂じていく。その後の状況を確認すべく検査入院をしたところ、医師から「あと1ヶ月」と告げられる。以来、最期を「病院か、自宅か」どちらで迎えるかの〝悩みの顛末〟が克明に語られる。母上ご本人の当初からの希望が「自宅で」にあったことが決め手となった。尤もこの本のサブタイトルに、「肺がんの母は一服くゆらせて旅立った」とあるように、無類の愛煙家だったことが大きい。退院した9月5日から、息を引き取る16日までの12日間の看病。あたかも名画を見るような母娘の愛の交流が麗しい◆この本の構成は①母娘の決断〜娘の覚悟②最期まで自宅で〜12日間の介護日誌③穏やかな看取りのために〜在宅医療の現状と課題との3章となっているが、実は随所に〝ミニ自伝風趣き〟が散りばめられている。両親と兄を含む家族のこと。どんな少女時代だったか。なぜエジプト・カイロ大をめざしたか。政治家に直接関わる部分は行事日程ぐらいだけだが、しっかりと「人間・小池百合子」が挿入されている。中でも、アラビア語を学ぼうと思い立つ場面は興味深い。高校2年17歳の時(1969年)にESSの夏合宿先で、アポロ11号による人類初の月面着陸シーンを観た。鳥飼久美子さんらの同時通訳を目の当たりにした瞬間、「凄い」って心を鷲掴みにされる。と同時に「こりゃかなわん」と、英語の世界での数多の競争相手に抜きん出ることの難しさを自覚した。英語以外の別の言葉で勝負しようと方針転換をしてしまうのだ。何語にするか。ヒントを求めて父親の本棚を眺めているうちに一冊の本が目に飛び込む。『中東・北アフリカ年鑑』だった。石油にゆかりのその年鑑を繰っていくうちに、エジプトの項で、「カイロ大学」を見出す。「これだわ!雷に撃たれたように、私はここで心を決めてしまう。私は、アラビア語を勉強するのだ、それも現地で」と。〝運命の選択〟はこうして決まった◆我が両親は2人ともガンで逝った。母は父が看取り、父は姉や弟が看取ってくれたがいずれも東京にいた私は間に合わなかった。小池さんの献身的な振る舞いに胸締め付けられる思いがする。最後の章での「延命治療と尊厳死」についてのくだりに特に注目される。経験に基づき「何か事が起こったとき、どこまでの対応を望むのか。それを母がまだ元気な頃に、具体的に聞き、書面にしておけばよかった」と後悔している。そこまでするかどうか。老々介護目前の己がケースでの心構えが問われる。小池さんの両親は赤穂市と縁があり、ご本人は兵庫東部で育った。後に彼女が衆議院候補として立った選挙区は旧兵庫2区である。この人の政治家歴で、細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎ら首相級の名だたる先輩たちとの〝師妹関係〟はあまねく知られている。故安倍晋三元首相の心胆を寒からしめたのは「希望の党」設立当時の小池さんだった。その動向を衆院選のたびに気にする向きは未だ消えず、いつ再燃するかどうかも誰も分からない。(2024-7-13)

【多生のご縁 衆議院予算委員会室前で座り込んだり、応援演説をした仲】

 住専問題で大騒ぎの頃(1996年)。小池さんと私は衆議院予算委員会室の前で同じ政党所属(新進党)の者同士として一緒に座り込んだ。携帯電話が普及する前、AI端末も何もない頃。彼女は必ず近い将来それらが普及することを熱く語っていた。

 「小池百合子さ〜ん。男にしたいいい〜女性です」━━公明党の講演会で支持者を前に、彼女を紹介するべく壇上に並んで立った私は、開口一番こう切り出しました。あの頃は私も怖いもの知らずだったのです。

 

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【136】遅ればせながらの「元首相の決断」━━小泉純一郎『原発ゼロ、やればできる』を読む/7-6

 2001年から5年5か月の間。小泉純一郎氏は首相の座にあった。2009年に自公政権が民主党に負けてひとたび下野することになった総選挙には不出馬。次男の進次郎氏に後継を託し政界を引退した。その2年後に東日本大震災とそれによる福島第一原発事故が日本を襲った。この事故のあと、在任中の「原発推進」の立場を翻し、「原発ゼロ」を主張するようになった。その理由をこの本(2018年出版)では、悲惨な風景を突きつけられて、「内外の原発に関する本を数えきれないほどたくさん読んで勉強した」結果、原発の「安全」「低コスト」「クリーン」は全部ウソだったと気づいた、としている。「(首相時代に)騙されていた自分が悔しく、腹立たしい」との心情を吐露して。現役時代から、率直な物言いと歯切れの良さ、感性豊かな振る舞いに定評のあった人らしい「方針転換ぶり」に、〝パフォーマンス過多〟と見る向きもある。だが私が見るところ、そうではない。〝日本崩壊の地獄〟を危うく回避し得た僥倖に胸撫で下ろし、かつての自らの過ちへの責任を感じるが故の一大決心だと信じる。小泉内閣最後の厚生労働副大臣として曲がりなりにもお支えし、その人となりを知っているがゆえに◆この本の構造はいたって簡単。原発推進派、政府のいうウソをばらし(第一章)、原発をゼロにした後、自然エネルギーが代わりを果たす手の内を明らかにする(第二章)。第三章は一と二をまとめて、震災が招いた「ピンチをチャンスに変えよう」と呼びかけている。ただ、自民党における原発推進派は根強く、小泉さんの呼びかけに簡単に応じる向きはそう多くない。公明党にも〝原発推進確信犯〟がいる。現国交相の斎藤鉄夫氏である。この人は原発無くして日本の経済発展はないと公言してきており、現役の頃の政務調査会の場で原発の段階的解消を主張する私との間で論争をした。その後は党が公式の政策として「着実に原発ゼロに向けて進む」との方針を掲げてきている。表立っては抑えていても内実は分からない。そう簡単に自説を曲げないはずと私は睨む◆小泉さんは論語の「過ちを改むるに憚ることなかれ」を引き合いにして「これまでの失敗を反省してあやまちを改めなければいけません」と強調している。しかし、残念ながら元首相のその言を額面通り受け止める空気は日本にはない。2013年の都知事選で小泉さんが、原発ゼロを掲げて立候補した「細川護煕候補」を応援したことを日本中の人が知るに至っても、同様である。その後3年経ちこの本が出て、さらに8年が経った今も変わりそうにない。なぜか。理由は恐らく2つ。一つはご自身への民衆の不審である。原発に代わる再生可能エネルギーとりわけ太陽光発電関連の推進企業と小泉親子の関わりを指摘する向きがあるのだが、その疑惑が払拭され得ていないからだ。もう1つは、政治家全般への不信である。自民党の派閥絡みの政治資金集めという名の裏金作りは極限まで政治不信を強めている。論語の「信無くば立たず」が示すように、政治そのものへの信頼が完全に断たれてしまっている感が強い。そんな状況下に自民党出身の元首相が何をいえども空しく響く◆小泉さんは、この書でしきりに、野党は既に「原発ゼロ」に賛成なのだから自民党さえ変わればよく、総理が原発ゼロにすると号令すればできる、と叫ぶ。その通りだ。だがことはそう簡単ではない。小泉さんは安倍首相(当時)に「騙されるなよ」と言っても「苦笑するだけ」だと書いている。先輩首相として、そんな言葉かけだけでお茶を濁さずに大議論をして説得ぐらいして欲しかったと思う。その機会はもはや望むべくもないが、後継の首相たちに迫ったとの話も寡聞にして聞かないのは残念である。尤も、この本の末尾に50頁にも及ぶ「注」がついており、その大量の注の監修をしたのは、なんと立憲民主党の政調メンバーである。驚くべき自民、立民の原発政策の協調ぶりであり、小泉さんの覚悟のほどが伺える。(2024-7-6)

【多生のご縁 総理就任直後の予算委質問に立った日の記憶】

 2001年4月に小泉純一郎首相が誕生した後に、私は質疑に立ちました。「小泉首相は、女性閣僚や気鋭の幹事長を選んだりして、まるで季節外れの大雪を降らせたみたいですが、汚い自民党政治を雪で覆い隠しても、すぐに雪は溶けて流れりゃ、以前より汚くなる」と言いました。この喩え「最高だ」と後々自賛しまくったものです。

 また、「自公関係は日米関係に似ている。公明党は自民党のいいなりだし、自民党は米国に言われるままだ」ともいいました。小泉さんは「そんなことないぞ。公明党は言いたいこと言ってくれてるよ」と自席から野次ってました。懐かしい思い出です。

 副大臣時代に開かれた首相を囲む会議の場で、仕事の現況を問われました。私はエイズ撲滅キャンペーンの一環としてスーちゃん(キャンディーズの故田中好子さん)と一緒に新宿駅前に立った活動報告をしました。これをめぐっては〝珍問答〟が続きました。紹介したいところですが、もはや「お蔵入り」の話題なのでやめときます。

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