Monthly Archives: 2月 2018

忘れられた本来の役割を覚醒させるー島田雅彦『深読み日本文学』を読む

島田雅彦という作家はNHK好みなのか、テレビにラジオによく登場する。軽いノリとイケメンが影響してか、私的にはあまり好みではなかった。だが、この本(『深読み日本文学』)はそうした私の”僻み根性”を一掃するに足る面白い中身を持った本である。まず序章の「文学とはどのような営みなのか」に強い共感を覚えた。昨今のグローバル化の進展の中で、効率主義、成果主義がはびこり、人文社会科学を軽視する傾向が極めて強い。私の親しい古田博司筑波大教授によると、その分野はもはや風前の灯で、次つぎと講座は縮小されていくと聞いている。こうした傾向を冒頭で島田さんは厳しく断罪する。先の見通しが立たない現代だからこそ、未来に起きる予測できないことに備えるためにも人文社会系の知識を学ぶ必要がある、と。「(その分野の)教養のない人間が政治家になると歴史認識において大きな躓きを招いてしま」いかねないと忠告し、「エセ文学的な『言葉の悪用』をする人たちを批判するのが、文学の本来の役割」だと言い切り、小気味いいばかりだ。政治家としては文学に関心を持ってきてせっせと本を読んできた身としては、まさに我が意を得たりというところである■日本文化の基本概念が紫式部の『源氏物語』に流れる「色好み」であろうことには誰も異論はない。島田さんは、そこに端を発した伝統的傾向が江戸時代に受け継がれる経緯を分り易く説く。天皇を中心とする貴族たちの宮廷から、町人たちの遊郭へと担い手は移り、物語の内容も「もののあわれ」から、より下世話な快楽主義へとの変化は、時代を貫いて伝わって来る。そしてそれが千年経った20世紀において、谷崎潤一郎の文学に体現される、と。「エロス全開ースケベの栄光」といった直截な命名ぶりには、いかにも著者らしさが窺え、感動する。東洋・日本の光源氏と西洋・スペインのドン・ファンにおける「女たらし比較」論は実に面白く読ませる。「狩猟採集民族系」対「農耕民族系」との捉え方は、前者があらゆる世界に「敵意」をばらまくのに対して、後者は「友愛」を運ぶとの仕分けを生み出し、味わい深い■江戸期の井原西鶴『好色一代男』は、世之介54年にわたる性遍歴を描き出して、『源氏物語』のパロディだ。数年前に現代語訳をした島田さんが「フィクションとはいえ、『人間はここまでバカになれるのか』と、呆れるのを通り越して一種の尊敬の念を抱かざるを得なかったのも事実」としているのに、私としては笑いを禁じ得なかった。近松門左衛門の『曽根崎心中』は、心中を様式美にまで高めていったとし、自殺を流行らせる傾向をヨーロッパのゲーテの『若きウェルテルの悩み』と対比させているところも読ませる。さらに西鶴や近松の手法が現代のライトノベルに受け継がれているとの捉え方も。谷崎潤一郎の作品を読むためのポイントのくだりも面白い。➀根っからのスケベであってほしい➁悩める知識人であってはならない➂常に何かを崇拝し続けるということ。しかもその対象をコロコロ変えていかねばならない➃戦争といっさい関わりをもたない➄老いてなお悟ってはいけないー「不道徳講座」の見本みたいなまとめ方である■もちろん、こういった「チョイ悪爺」が喜びそうな日本文学の伝統ばかりが書かれているのではない。「恐るべき漱石」や文学上の奇跡としての樋口一葉についてのくだりも惹きつけられる。さらにナショナリズムを人類の麻疹として捉えたり、戦中、戦後はどのように描かれたかとの視点も興味深い。生真面目な生き方に憧れてきた私としては、漱石や鴎外などといった正統派の文学に偏った読み方をしてきた。島田さんがあとがきで「文学とは時に不徳を極めた者を嘲笑うジャンルであり、権力による洗脳を免れる予防薬であり、そして求愛の道具であった。(中略)バラ色の未来が期待できない今日、忘れられた文学を繙き、その内奥に刻まれた文豪たちのメッセージを深読みすれば、怖いものなどなくなる」と結んでいる。こういう境地に達していない「浅読み」の爺さんとしては、日暮れて道遠しであり、老いてなお怖いものだらけであるのは切ないばかりだ。(2018・2・19)

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ことば遊びの粋がきらめくー柳澤尚紀『日本語は天才である』を読む

いやあ、面白かった。痛快そのものの読後感で、胸のつかえがすっと落ちたあとに、日本人としての誇りが高まって来る。柳澤尚紀『日本語は天才である』を読む気になったのは毎日新聞の書評欄を見て。10年程も前に刊行されたとのことだが、知らなかった。というよりも翻訳家としての著者そのものの存在さえ知らなかったのだから。あらためて我が呑気さに呆れる。この人、ジェイムス・ジョイスの『フィネガンス・ウェイク』を見事に翻訳した、天才翻訳家だ、と。そう聞いても、その価値が分らないのでは始末に負えない。まあ、遅ればせながらこの辺りの領域にも足を踏み入れるか、と考えるところがまだまだ若いというか、未熟なじいさんだと自嘲するしかない■柳瀬さんは冒頭に翻訳家として、日本語が天才であると思ったきっかけを三つ挙げている。一つ目は、”You are a Full Moon.”と”You are a fool,Moon.”という二つの英文を挙げて、月が怒った理由が分るように日本語訳をした時のケースだ。耳で聞くと、この二英文は音の誤解を生み出す。通常は、これを「やあ、満月さん」「バカなお月さんだなあ」と訳すのだろうが、これでは月の怒ったニュアンスが出ない。そこで「されば、かの満月か」と声をかけられたのに、「去れ、バカの満月か」と聞き違えたとして、翻訳をした。(この辺り分かり辛い向きは本を読んでみてください)30年前のことだが、「されば」と「かの」という文語的表現の存在に今も感謝している、と。二つ目は O note the two round holes in onion.これは、「おおタマネギの二つの円い穴に注目せよ」と訳すと、面白味が訳されないので悩んだというのだ。確かにonionという単語には、よく見るとoが二つ入っている。そこで、考えに考えた結果、たまねぎという日本語の単語にも「ま」と「ね」に二つ円い穴が開いてることに気づく。確かにそうだ。三つめはEvil とLive と翻訳した時のこと。これは、悪と咎という言葉に結びついていくが、ここではもう触れない。ともかくこの後、日本語の天才的凄さを次々と挙げていく■そんななかで、私としては最終章の「四十八文字の奇跡」に感動した。「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせず」「色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山経越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」ーこのいろは歌(実際は47文字だが、最後に、んを付け加えて48文字とする)は「世界に類のない奇跡、日本語という天才のみが生み出した奇跡」だと言われてあらためてほれぼれとするのはわたしだけではないはず。7つの段落に分解すると、それぞれの語尾が「とかなくてしす」となる。これを柳瀬さんは「咎なくて死す」というメッセージが浮かび上がるという。ウーン、ナルホド。これは奥が深い。いや、深すぎる。さらにあれこれといろは歌を作ったり、ことば遊びの数々を披瀝してくれて飽きない■この本のなかには現代日本の文学を彩ってきた様々な作家や批評家の言葉が出てくるのを追うのも楽しい。とりわけ言語学者の大野晋さんとのやり取りには注目だ。大野さんの『日本語の年輪』なる文庫本を読むことを強く勧めている個所に出くわし、これも早速買い求めて並行して読んだ。こちらはまさに由緒正しい国語を理解するための正攻法からの本である。であるがゆえに、一層柳瀬さんの変化球というか、クセ玉乱発の「天才ぶり」が際立つ、こちらの方が面白い。(2018・2・11)

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大阪の女興行師のど根性に圧倒されるー山崎豊子『花のれん』を読む

このところNHKの朝ドラを観るなどどいう習慣がついてしまった。つい5年ほど前には考えられなかった。それだけ朝の時間帯に余裕ができたのだろう。今はご存知『わろてんか』である。このドラマは吉本興業の創業者(吉本せい)をモデルにしているというが、大分趣きを異にしているかに思われる。今一歩笑うところがすくないうえ、ピリッとしたところもない。そんな不満もあって以前から読みたいと思いつつも敬遠してきた山崎豊子『花のれん』(かつて舞台や映画に登場)を読むことした■いやはやこれは凄い。彼女がこれで直木賞をとり、その後の作家生活に本格的に入っただけのことはある。まず感心したのは文章のテンポである。きりりと鋭い文章がこぎみよくとんとんと進む。読みながら吉村昭の文体を思い出した。加えて、大阪弁の面白さだ。解説で山本健吉は「大阪弁独特の柔らかさとまだるさに、融通無碍ともいうべき巧みな曖昧さが加わって、角をたてずにスムーズにビジネスを推し進めることに役立っている」とご本人のエッセイから紹介している。私など残念ながら悪評高い播州弁の姫路生まれゆえに本格的な大阪弁とは縁遠い。改めてその効用を知って感激した。恋を語る場面で「おいでやす」というと、「一杯飲み屋の客引きのよう」などに聞こえるとか、「大阪弁で独白すると、心理の緊迫感がなくなってしまう」など、笑いを誘う展開にも惹きつけられた■この小説を通じてわたしてきには、明治から大正、昭和にかけての日本文化のこよなき伝統を感じた。昭和20年以後の戦後に育った世代が、子や孫に伝えきれていない日本の古き佳き生活習慣。そうしたものがそこはかとなく伝わって来るのだ。ルビがうたれた漢字を読むことで、既に忘れてしまっている日本語(例えば、吝嗇=しぶちん、お為着=おしきせなど)の妙味も次々と蘇ってきた。ちょうど並行して読んでいる『日本語は天才である』とか『日本語の年輪』などに相通ずるものがあり、興味深い■それにつけても主人公・多加の女興行師としての立ち居振る舞いは凄まじいの一言だ。自分のところの寄席に名だたる真打を呼ぶために、公衆便所の(今と違って水洗ではない)汚い便器に跨って待ち伏せして、札を押し付けるなど「大阪商人」のど根性を次々と見せられて圧倒されるばかりである。テレビを先に見てから小説を読んだために、てんと多加とのあまりにも落差の大きさに戸惑うばかり。また、二人の夫の差も大きい。小説では妾の家で同衿中に死んだことになっているが、流石に朝ドラではそういうわけにはいかない。小説もテレビドラマの脚本も、創作なのだからと思いはするものの、どうしても実在の人物たちと二重写しになってしまう。まして我々世代にとって懐かしい花菱アチャコや横山エンタツが出てきたりすると尚更だ。とはいうものの、そこは映像の面白さ。てんのかわいさも捨てがたい。などなど何やかやとあって今朝も朝ドラに見入ったしだい。(2018・2・5。一部手直し=2・7)

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