⚫︎「教育」改め「発育」の提案
「教育」っていう言い方はよろしくない━━福澤諭吉はこう否定して、替わって「発育」とすべきだと主張した。明治22年(1889年)に発表された『文明教育論』なる論考の中で、以下のように述べている。
「固(もと)より直接に事物を教えんとするも出来難きことなれども、その事に当たり物に接して狼狽(ろうばい)せず、能(よ)く事物の理を究めて之に処するの能力を発育することは随分出来得べきことにて、即ち学校は人に物を教うる所にあらず、唯その天資の発達を妨げずして発育する為の具なり。教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり」
学校はものを教えるところじゃあなくて。個人一人ひとりが持ってる理解力、能力を潰さずに、発達させるところだと言っている。つまり、教師が予め決められた教え込む内容を押し付ける場所ではなくて、子どもたちが天から与えられた能力を伸ばしゆくところだという。
この論文は『教育勅語』より僅かに先に公表されたものなので、直接意識して書いたものではない。ただし世の空気は紛れもなくその方向で横溢していたに違いなく、福澤はそこに切り込んだものと確信する。
明治維新から20年余。明治政府は「大日本国憲法」を定め、天皇を唯一絶対とする価値観のもとに早急に国づくりに役立つ人材を育てようとしていた。そのため、教え育てる=「教育」が大事だった。それを福澤は否定して、あえて「発育」とすべきだとした勇気に深い感慨を持つ。
⚫︎受け入れられなかった「発育」
民主主義の世になって80年。何はともあれ「民主主義教育」が定着した今となっては、むしろ「発育」の方が分かりづらいかもしれない。学校は、天皇のもとにおける画一的な価値観を教えるところではなくなったものの、急拵えの「国民主権」を教え育てるところに変身した。つまり受動的という面で、戦前とさして変わらぬままに時が流れた。
私は昭和27年に小学校に入学したから、文字通りの「戦後民主主義教育」の一期生だ。その後9年の義務教育、3年の高校教育を経て、福澤の作った慶應義塾に学んだが、不勉強で恥ずかしながら「発育」なる言葉を一度も知らずに時が過ぎ去った。明治22年の福澤の「教育への反旗」があまりにも「反国家」「反権力」的志向過ぎて、暗闇に葬られたまま100有余年が経ったといえるかもしれない。
これは、「富国強兵」という明治日本の国づくりからして、ある意味当然だったといえよう。福澤の「発育」の理念は、当時の「国家主義」による人づくりからはあまりに迂遠過ぎた理想論だったに違いない。しかし、敗戦の後、新憲法の樹立、占領を経て戦後日本の国づくりの段階でも「教育」という言葉を変えようという動きがあったとは寡聞にして知らない。なぜだろうか。
⚫︎中途半端に終わった「教育」改革
その原因には2つほどあるような気がする。一つは「教育」には封建的な国づくりに直結する側面があるとはいえ、人間が成長していく過程で、やはり教えられ学ぶことは不可欠である。つまり、「教育」には双方向の意味合いがあり、一つの見方に決めつけられないということだろう。
二つには、「発育」という言葉の持つ分かりづらさが指摘される。人間が本来的に持つ才能、資質を伸ばす、つまり「天資」の発達を「助ける」ことが大事といわれても、それが「発育」と結びつかないうらみがある。ピンとこないのだ。
ということから敗戦、占領期の7年を経て、日本が生まれ変わるチャンスに、結局は戦前と同じ「教育」という言葉を使うことになった。ただし、その意味合いは全く違うことから「戦後民主主義」という概念をくっつけた「戦後民主主義教育」という言葉が出来上がったものと思われる。
この戦後の「教育」の転換が、実は名称の有り様における半端さに加えて、占領した当のアメリカがいわゆる「自由な教育」の本分を日本に押し付けることにおいても中途半端だったということがある。二つの半端が重なって、今の日本の「教育の危機」の遠因があるように思われてならない。(この項続く 2025-5-3一部修正)