「私の体はテレビでできている」とのタイトルで2019〜2023年の実質4年間に毎日新聞夕刊に連載されたコラムが一冊の本になった。著者は早稲田大教授で、前早大演劇博物館館長の岡室美奈子さん。サミュエル・ベケットの研究者として著名なこの人が「テレビドラマ論」をも専門にされてることを不覚にも知らなかった。『ゴドーを待ちながら』のような、難解な「不条理演劇」で体ができてるひとだとばかり思い込んでいた。新聞で連載に出くわすたびに新鮮な刺激を受け、新たな境地をひらかせられたものだ。改めて一冊の新書に全50回分が集約されたものを読んで、ひたすら懐かしい。新聞で読んだものは2頁と短いが、ひとつの章が終わるごとに登場する「幕間エッセイ」は7〜8頁と長い。著者の〝思いの丈〟が書き込められたようで味わい深い◆この本で、「女性たちの緩やかな連帯」から「ドラマが描く/描かない恋愛と結婚」までの7本のエッセイを読んで、かくも豊かなドラマが毎夜毎晩流されていたのか、と改めて思い知らされた。実は私はこれまでテレビドラマはあまり見てこなかった。NHKのドキュメンタリー番組が主で、せいぜい大河ドラマや朝ドラぐらいだったからだ。50本のコラムが並んだ目次を見て、私が実際にテレビで見たドラマは『いだてん〜東京オリムピック噺〜』と『鎌倉殿の13人』だけというお粗末さ。だが、この2本とりわけ後者のインパクトは強烈だ。佐藤浩市扮する上総広常の最期を描いた場面は本当に迫力満点だった。過去に見た映画のどれに比べても壮絶な立ち回りだった。「各登場人物の死をいかに描くかということから逆算して人物造形がなされているのではないかと思うほど、退場シーンが秀逸だった」との岡室さんの感想には全く同感する◆『いだてん〜東京オリムピック噺〜』は、第10回と第30回の2度も取り上げられている。著者自身が述べているように、このドラマは視聴率が低かった。その理由は前半のマラソンランナー・金栗四三の伝説風スタイルと、後半の1964年の東京オリンピック招致者・田畑政治の実録風スタイルが折り合わなかったことにあるのかもと推測する。疲れきった金栗がマラソンコースを間違えた挙句に、コース付近の立派な居館で介抱を受けた話や、人見絹枝ら女子選手の活躍に至るまでの苦労談など重くて厚いエピソードが見た人間の脳裡にはっきりと刻印されたドラマだった。著者は、「日本のオリンピックの歴史を、当事者と庶民両方の視点を織り交ぜて描いた傑作だった」とする一方、コロナ禍で1年延びた末に賛否両論渦巻く中で開催された「2020東京オリンピック」の総括を、意味深長な問いかけで終えているのが胸に刺さる◆この本で岡室さんが取り上げたドラマの放映はちょうどぴったりとコロナ禍の期間とダブル。岡室さんはあとがきを「テレビをめぐる四年間の旅を振り返って思うのは、やはりコロナ禍においてドラマが果たした役割の大きさだ。ドラマはさまざまな形でコロナ禍における私たちの日常を映し出し、コロナ禍でささくれた心を癒してくれた」と書き出している。その猛威は世界中を襲い日本の各家庭をも巻き込んだ。私の顧問先の幹部は2019年晩秋にコロナに罹り、あっという間に帰らぬ人となった。その病の残酷さたるや別離の儀式すら奪い去った。それゆえに彼は長期の旅に出たまま逢えない日々が今も続いているような感がする。亡くなったとの実感が未だに湧いてこない。その災いとほぼ踵を接するように世界を襲ったのはウクライナ戦争であり、ガザを舞台にしたイスラエルとパレスチナとの戦争である。あのコロナ禍と違って、未だこれらの戦争は我々の日常生活と離れている。それが身近に迫ってきたら?いかなるドラマも癒してはくれるまい、と思う。(2025-3-27)
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【170】よみがえってくるコロナ禍に襲われた日々━━岡室美奈子『テレビドラマは時代を映す』を読む/3-27
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【169】硬直化した政治状況を打破するために━━東浩紀『訂正する力』を読む/3-17
『公明』4月号のインタビューに触発されて、東浩紀さんの『訂正する力』を読みました。面白い。知的刺激をたっぷり受けました。「修正する力」さえ持ち合わせていない政治家は大いに学ぶべきだと思います。この本は「語りおろし」。そのため若干未整理の部分もあり、私の早とちりも否めませんが、お許しください。
⚫︎9条では政府、自民党が「訂正する力」を発揮
東氏)政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重して、議論を交わすことでおたがいの意見を交わすことでおたがいの意見を少しづつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。(7頁)
赤松)この本は2023年10月末出版。当時と違って今は衆院で政権与党が少数です。今年度の予算編成をめぐる与野党の攻防も趣きを異にし、「高校教育費無償化」を巡っては維新、「103万円の壁」を巡っては国民民主との間で「対話」がありました。立憲とも「高額療養費上限額引き上げ」について折衝がありました。その結果、一部で野党の意見が取り入れられたのです。これまではひとたび組んだ予算案は一円足りとも「修正」しないのが当たり前でした。「修正」より、「訂正」はそれまでのスタンスの誤りを正すニュアンスが強いのですが、それについては?
東氏)皮肉なことに9条についてはむしろ政府のほうが訂正する力を発揮しています。(「解釈改憲」で「集団的自衛権」を認めることで方針を変えたことを意味します) リベラルのほうも訂正する力を発揮し、条文自体を変えてしっかりできること、できないことを規定したほうがいい。(35頁)
赤松)実は公明党は、「安保法制」の改定で、「集団的自衛権」を認めていません。いわゆる玉虫色解釈にこだわり、個別的自衛権の延長だとの態度をとりました。公明党も「訂正する力」の発揮には躊躇したのです。
⚫︎「余剰の情報」を沢山発信する立場の強み
赤松)言論の世界でも、(変化の連続で)「訂正する力」を発揮できず、自縄自縛に陥っているケースが多い?
東氏)言論人はそんな変化に対応し、訂正を繰り返す必要がある。にもかかわらず彼らが軌道修正を頑なに避けるのは、そんなことをしたら支持者を失ってしまうと恐怖しているからでしょう。立場を守ろうとするあまり、現実に対応ができなくなっているわけです。(だが、「交換不可能な存在」になると違ってきます)(153頁)
赤松)東さんは、ロシア情勢に詳しい佐藤優(元外務省主任分析官)氏がウクライナ戦争開始いらい「ロシア寄り」だとの批判を受け続けていますが、いまだに活動を続けているのは、佐藤さんが「余剰の情報」を沢山発信してきており、交換可能な専門家ではなく「佐藤優」という固有名で存在しているからだとしています。「ウクライナ戦争」について彼は、当初から「即時停戦」を説いており、創価学会の池田先生の主張に同調してきました。「ロシア寄り」かどうかではなく、生命の尊厳のスタンスからの発信だと私には思えます。
⚫︎平和主義の「訂正」の提唱
東氏)戦後日本は経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という物語をつくった。これもある時期までは柔軟に運用されていたが、いまはすっかり硬直化している。(中略) いま、日本に求められるのは平和主義の「訂正」だと思います。(214頁)
赤松)東さんは最後に「平和とは戦争の欠如である。政治の欠如である。政治と離れた喧騒に満たされていることである」とする一方、「日本はもともと文化の国」「政治と交わらない繊細な感性と独自の芸術をたくさん生み出す国」だったと述べています。日本は武力を放棄したという理由で平和国家なわけではなく、そもそもそういう国だったからこそ平和国家なのだと、「平和主義」観を訂正して見せています。
東氏)右派が軍備増強を唱え、左派が平和外交を主張する。例によってゼロかイチかの対立になっていますが、本当は二者択一ではありません。どっちもできる。(217頁)
赤松)それって、公明党のスタンスでした。ほどほどの軍事力と縦横無尽の外交力の発揮です。かつて、公明党の平和主義は「行動する国際平和主義」だと規定しました。座して死を待つのでもなく、かと言って、軍事力増強のみに走らないものだと強調し、一定の軍事力のもとに、外交力と文化力の相乗効果を発揮する必要性を訴えたものです。中道主義の面目躍如たるところです。
【余録】なお、この本は最後に日蓮を作為=政治の思想、親鸞を自然=非政治の思想とやや大雑把に誤解を呼ぶ捉え方を示しています。私なら前者はリアルな平和思想、後者を能天気な非武装平和思想と位置付けます。更にまた、ルソーを「訂正する力のひと」だったとして、作為と自然の対立を止揚する「自然を作為する」立場に立っていたと、持ち上げています。日本復活には、伝統を活かし、世界に発信していくこと。訂正する力を取り戻すこと。平和を再定義することだと結論づけていますが、竜頭蛇尾の感は免れない結論です。(2025-3-17)
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【168】日本の教育現場の惨状をどうする?━━高嶋哲夫『アメリカの学校生活』を読んで/3-10
またも高嶋哲夫さんの本である。しかも学校教育もの。もういいよって声が聞こえてきそう。でもそう言わないでほしい。とっても価値あるアメリカ学校現場探訪記といえるので。ただし紙の本はもう絶版だから書店では手に入らない。彼のもとにも2冊しか残っていないという。で、彼が送ってくれたのは紙の本ではなく、デジタルデータである。昭和56年(1981年)に書かれたもので、先日取り上げた『カリフォルニアのあかねちゃん』と共に、彼の作家生活の初陣を飾る対をなす。私のアイパッド画面いっぱいに極小文字が横長で並ぶ。同時に文字の拡大を拒む仕様とあって、読み辛いことおびただしい。読みかけると一気に目が斜視度を強め近視もさらに進みそうなんで、ゆっくりじっくり時間をかけた。高嶋さんによると、今アマゾンでは17505円の値が付いている貴重本とのこと。ということで、頑張った。ここではこの本のさわりの部分をご紹介した上で、日本の学校教育との比較を試みたい◆アメリカの義務教育と、大学での生活のあらましについては、最新ブログ『後の祭り回想記』No.206(3月8日号)に書いているので、それ以外のものについて日本に見られない特徴を挙げておく。まず英才教育についてMentai Gifted Minor (MGM)と呼ばれるものがカリフォルニアの例で述べられている。心理学の専門家が各学校を周り、2年生以上の児童の中から教師の推薦で選ばれた子どもに知能テストを行う。IQ132以上のものたちを選び出し、MGMクラスに入れて特別教育をしていく。このクラスには州から特別な予算が支給され、それぞれの才能に応じて能力強化への便宜が図られる。科学や芸術分野に興味を持ち、それなりに力があると認められると、特典が得られるというのは驚く。なんだか社会主義国家みたい。また、初等教育の中での教える側のボランティアの存在というのは、日本と大きく違う。例えば、ルームマザーという人たちが教員と共に生徒たちの面倒を見ていく。父兄と先生が一緒になって子供たちを育てるという発想である。また、米国では家庭が学校の代役をする仕組みもあるというから実に自由そのものだ。もちろんアメリカの学校現場にも多くの問題はあるのだが、日本のように中央集権国家ではなく、50の州ごとに各地域の独自色を発揮しながら自由そのものの教育展開は、突出した人材を生み出すのに好都合なのだろう◆一方、足並みの乱れを恐れがちな日本は、結果として画一化に靡いてきた。戦後80年。これまで日本の教育は文部、文科行政による「詰め込み教育」の是非を巡っての「ゆとり教育」導入の混乱など、その定見のなさが指摘され続けてきたことは周知の通り。気がついたら、世界各国の大学との格差が只ならざる歪みを示しており、愕然とする。学校現場は、①教員の長時間の過密労働②教員の志望者減③教員不足・未配置④非正規教職員の増加⑤精神疾患など病休者・中途退職者増⑥不登校やいじめに対する子どもの指導やケアの不足など数多くの問題で疲弊していると言わざるを得ない。つまり日本の教育はインフラから、表面上の見栄えまで。ことごとく元気がない。この現状はなぜか、これをどうするのか◆偶々9日に神戸で開かれた教育講演会で、栃木・作新学院大の渡邊弘学長が来られるというので駆けつけた。この人、自民党の船田元氏(元経企庁長官)の盟友的存在と聞く。講演では、日本の教育現場が幾たびも危機が叫ばれた末に、遂に今危急存亡の危機に直面していることを強調された。それを救うのは「人間主義の創価教育しかない」との漲る確信。牧口、戸田、池田と三代会長の教育に関する箴言を散りばめた講演の迫力には改めて心揺さぶられた。慶大での恩師・村井実教授からの直伝がご本人の「創価教育研究」の契機になったとか。知らずにきた。内に教育現場の混乱。外に国際社会の暗雲。「二重の危機」に苛まれている日本の現状を、10年大学の後輩になる教育学の泰斗から突きつけられた。恥ずかしい。危機に至った根底の責任は共に政治にあると思うがゆえに胸締めつけられる思いがする。創価の庭で育って60年。公明の旗の下で動いて30年。一体自分は何をしていたのか、と。(2025-3-10)
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【167】これ一冊でトランプの国との違いが分かる?━━渡辺将人『アメリカ映画の文化副読本』を読む/3-2
今のアメリカを理解するにはこの本が一番だと聞いた。誰に教えられたかは忘れた。本の裏表紙を見ると、シカゴ大学で修士課程を終えて、早稲田大大学院で博士(政治学)になった後、米下院議員事務所・上院選本部やテレビ東京報道部経済部、政治部記者で働いて、後に北海道大准教授を皮切りに米国の幾つもの大学で客員研究員をやってきて、今は慶應義塾大の総合政策学部大学院政策・メディア研究科准教授とある。早速元テレビ東京記者で(公明党番記者だった)今は京都先端科学大(KUAS)の教授になっている山本なみさんに確認したところ、なんと、かつて一緒に働いていたと聞いた。一気に親近感が湧き、読み始めた。めちゃくちゃ面白い。アメリカに興味がある映画好きなら堪らないほど気にいること請け合いである。①都市と地域②社交と恋愛③教育と学歴④信仰と対抗文化⑤人種と民族⑥政治と権力⑦職業とキャリアの7章と、末尾に「エッセイ━━アメリカ映画とドラマがある日常」が付け加えられている◆要するに、アメリカのメディアや選挙の裏表を知り抜いた政治学者による文化解説と、映画レビューに政治・社会分析が重なった本なのだが、ここに登場して重要な役割を果たす映画は、全部込みで292本(言及された作品リストも末尾に)ある。そのうち私が観たと記憶にあるのは、『シッコ』『トップガン』『ホーム・アローン』などほんの数本。最近のものが主流で「懐かしのシネマ」集ではないから、これから観る楽しみがいっぱいあるので嬉しいと、痩せ我慢を言うしかない。ついでにいっておくと、この本の魅力は、映画の解説が主ではなく、アメリカという国の成り立ち、仕組みから文化そのものを解読するために映画が使われているのだ。加えて、「英語学習のための映画・ドラマ」のコーナーでは、映画を使った英語の学び方が披瀝されている。これは、もはや今頃知っても遅いとしか言いようがない「万年英語学習青年」にとって、〝無用のお宝〟かもしれないが、大学や高校に合格した春秋に富む青少年にプレゼントしてあげたら、大いに喜ばれること、間違いなしと思われる。さらに「アメリカ推薦図書」も付いていて、至れり尽くせり。もっと若い時にこういう本に出会っていたらなどと、ついぼやいてしまう◆さて、少しは本文の中身も紹介しておかねば。現在の日本にはなぜGAFAMなどといった先端科学のトップを走る企業が皆無で、国力のレベルが低迷してきているのか。このところの私の関心もここに集中しており、第3章「敎育と学歴」、第7章「職業とキャリア」を併せ読むと、日米教育比較が分かりやすい。「アメリカ式教育のポイントは知識やファクトの丸暗記ではなく、それらの曖昧な知識をどう論理立てていくか、いわばどう点と線で結ぶかにある。学校は知識伝達の場ではなく、各自が吸収した知識のつながりや、意味を教員やクラスメートの意見の比較などで形成していく場だ。ディベートも多用される」とあったあと、「ディベート教育を知る上で役に立つ映画は『リッスン・トゥ・ミー ディベートに賭ける青春』(公開時『青春!ケンモント大学』だ」(第3章117頁)という具合に映画が紹介されていく。また、「履歴書の日米差も興味深い」というくだりには驚く。米国では写真を貼る習慣がないし、性別も知らせなくていい。その上、「学歴は『学位』とGPA(成績平均)しか書けない。結果が出せなかった途中努力や『隙間』に関心のない社会なのだ。アメリカの大学についての俗説『入るのは簡単だが出るのは難しい』は、『出ないと入ったことまで無にされる』と言い換えたほうがいい」(第7章293頁)と、こと細かにアメリカ社会が日本との比較で語られていく◆私の世代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代の遠い過去の誤認識で固まっていて、「なぜ最近の日本は」と嘆きたがる傾向がある。ヨーロッパから見て遠く東の果ての島国に住む我々は、まさにガラパゴス化ぶりが一段と鮮明になってきたことに気がつかないのかもしれない。この本でアメリカ文化と日本文化の違いを改めて知って、さてどうするか。「インバウンド4000万人」の報に喜んで、世界と隔絶した自然風景の豊かさと人情の細やかさを売りものにする孤島で満足するのが日本の未来像だと割り切るのが関の山かもしれない。(2025-3-6 一部修正)
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