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【177】されど我らが「教育の危機」━━福澤諭吉『文明教育論』をめぐって(下)/5-10

 天皇から国民へ、主権を持つ主体が変わった。明治維新から敗戦までの戦前の77年間の学校教育で、いわゆる「道徳」の授業の中身は国家が決めた。学校はそれを教え込むところだった。戦後は1947年の新憲法発布と共に、民主主義の名の下に、市民社会やコミュニテイが決めることになったのだが、それはあくまで建前(たてまえ)で、文科省の決めた『学習指導要領』の中にその方向性が決められてきた。だが、その「道徳教育」の有り様をめぐって政治の世界で長く対立が続いて来たのである。

⚫︎「道徳教育」についての変遷と左右・保革の対立

 道徳とは、「社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき行為の基準」と、辞書には定義されている。人間が共同生活を営むうえでのルールとでも言えようか。戦前は「教育勅語」を基軸に天皇の国家としての枠組みが形成されてきた。ところが戦後は一転、天皇は象徴へと後衛に退き、主権者としての国民が前面に出ることになった。ただし国民といっても、間接民主主義のもとに、衆参両院の議員の中で多数派を形成した政権与党が担わざるを得ない。

 紆余曲折はあれども占領期7年の混乱を経て保守勢力の一本化の元に、戦後10年が経った1955年(昭和30年)辺りから、保守政権の意向を強く反映した文部行政が展開していく。具体的には「教科」ではない「道徳の時間」が設けられ、官製による中身が定められ『学習指導要領』に掲げられた。以来、50年にわたっての「保守対革新」のせめぎ合いが続く。具体的には「自社対決」の政治の中で、国家と「日教組」との抵抗というパターンが鮮明になっていった。米ソ冷戦下の時代での日本国内の左右対決の場の典型として学校教育の現場が荒波にさらされていったのである。

⚫︎「教育基本法」の改正に見た保守中道のせめぎ合い

 その半世紀に及ぶ日本政治の保革対決の流れも国際政治における社会主義の退潮(1989年のソ連崩壊)と共に変化をきたす。90年代に入って約10年、自民党一党支配から連立政治へとの動きが促進され、やがて2000年代の「自公政権」へと定着していく。この「保守・中道政権」のもとで2006年に実現したのが「教育基本法改正」であった。安倍晋三第一次政権はこれに「保守」の面子をかけ総力を上げて取り組んだが、ここで見逃されてはならないのが中道・公明党のストッパーとしての働きぶりである。

 実は、同法改正に至るまでの3年間で70回にも及ぶ「自公協議」が行われた。国家主義的志向にはやる自民党内保守勢力と、それを中和させたい中道主義公明党のせめぎ合いだった。結果として、「柔らかなる歯止め」が随所に散りばめられた。焦点とされた「愛国心」の表記については、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し」との表現に抑え込まれた。国家主義路線強調の懸念を払拭したとの一定の評価がなされる。また、時代の変化に対応した「生涯学習」や「家庭教育」「幼児期教育」などの新たな理念が盛り込まれた。画期的なことだった。

 ただ、この時の改正については、「それまで道徳教育の徳目だったものが『教育の目標』としてずらずら並べられることになり」、「教えるべき道徳の中身を国が決める社会になっている」との批判も惹起された。教育をめぐっての「国家主導か民主先導か」の争点の決着は引き続き持ち越されたのだ。

⚫︎されど我らが教育現場での悲劇的実相

     一方、教育現場での「いじめ」は今や73万2千件を越す(2024年度)。「引きこもり」はその倍の146万人(23年度)に達している。加えて精神疾患に沈む教師の数は増加の一途を辿り、5897人(21年度)にもなろうとし、教育分野に挑む若者の数は減少傾向に歯止めがかからないのである。この悲劇的方向に文科省は教員採用の時期前倒しといった〝窮余の一策〟しか撃つ手がない。何かが狂っているとしか言えない教育の現状をどうするのか。悩みは深刻である。

 そして、GDPの下降と軌を一にした学力の右肩下がりの傾向も只事ではない。日本の教育の現状に警鐘を乱打する識者の中には、旧態依然とした文科省の『学習指導要項』至上主義を変えるべく、一大教育改革運動の提起を主張する向きもある。また、米国のように、高校までを義務教育化し、入学し易く卒業し辛い大学へと改革すべしとの提案や、幼児保育期における「自由革命」的変革などなど、百家争鳴、諸人乱舞の、〝教育をなんとかしろ〟の声も地鳴りのように広まる一方なのである。

 そんな折に、政党、政治家が高校の授業料をめぐって公私立ともに無償化を志向するのは、公立高校の低落化を促進増長するだけで、教育改革に逆行するものだという主張も見逃せない。政治の最前線が国家百年の計からして最も大事な「教育」の根本的解決を棚上げし、目先だけの人気取り、ポピュリズムに任せてしまっているようにしか見えない。この現状に対して、関係各機関が冷静に徹底した議論を展開していくことから始めるべきだと考える。

 その議論の開始にあたり福澤諭吉の『文明教育論』における問題提起の再考を促したい。(2025-5-8)

※長年続けて来ました読書録ブログ『忙中本あり』も今回の拙著『ふれあう読書━━私の縁した百人一冊』下巻の発刊を機に終了することにいたします。ご愛読ありがとうございました。感謝致します。

 

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【176】「教える」よりも天賦の才を伸ばすこと━━福澤諭吉『文明教育論』をめぐって(上)5-3

 ⚫︎「教育」改め「発育」の提案

 「教育」っていう言い方はよろしくない━━福澤諭吉はこう否定して、替わって「発育」とすべきだと主張した。明治22年(1889年)に発表された『文明教育論』なる論考の中で、以下のように述べている。

 「固(もと)より直接に事物を教えんとするも出来難きことなれども、その事に当たり物に接して狼狽(ろうばい)せず、能(よ)く事物の理を究めて之に処するの能力を発育することは随分出来得べきことにて、即ち学校は人に物を教うる所にあらず、唯その天資の発達を妨げずして発育する為の具なり。教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり」

 学校はものを教えるところじゃあなくて。個人一人ひとりが持ってる理解力、能力を潰さずに、発達させるところだと言っている。つまり、教師が予め決められた教え込む内容を押し付ける場所ではなくて、子どもたちが天から与えられた能力を伸ばしゆくところだという。

 この論文は『教育勅語』より僅かに先に公表されたものなので、直接意識して書いたものではない。ただし世の空気は紛れもなくその方向で横溢していたに違いなく、福澤はそこに切り込んだものと確信する。

明治維新から20年余。明治政府は「大日本国憲法」を定め、天皇を唯一絶対とする価値観のもとに早急に国づくりに役立つ人材を育てようとしていた。そのため、教え育てる=「教育」が大事だった。それを福澤は否定して、あえて「発育」とすべきだとした勇気に深い感慨を持つ。

⚫︎受け入れられなかった「発育」

 民主主義の世になって80年。何はともあれ「民主主義教育」が定着した今となっては、むしろ「発育」の方が分かりづらいかもしれない。学校は、天皇のもとにおける画一的な価値観を教えるところではなくなったものの、急拵えの「国民主権」を教え育てるところに変身した。つまり受動的という面で、戦前とさして変わらぬままに時が流れた。

 私は昭和27年に小学校に入学したから、文字通りの「戦後民主主義教育」の一期生だ。その後9年の義務教育、3年の高校教育を経て、福澤の作った慶應義塾に学んだが、不勉強で恥ずかしながら「発育」なる言葉を一度も知らずに時が過ぎ去った。明治22年の福澤の「教育への反旗」があまりにも「反国家」「反権力」的志向過ぎて、暗闇に葬られたまま100有余年が経ったといえるかもしれない。

 これは、「富国強兵」という明治日本の国づくりからして、ある意味当然だったといえよう。福澤の「発育」の理念は、当時の「国家主義」による人づくりからはあまりに迂遠過ぎた理想論だったに違いない。しかし、敗戦の後、新憲法の樹立、占領を経て戦後日本の国づくりの段階でも「教育」という言葉を変えようという動きがあったとは寡聞にして知らない。なぜだろうか。

⚫︎中途半端に終わった「教育」改革

  その原因には2つほどあるような気がする。一つは「教育」には封建的な国づくりに直結する側面があるとはいえ、人間が成長していく過程で、やはり教えられ学ぶことは不可欠である。つまり、「教育」には双方向の意味合いがあり、一つの見方に決めつけられないということだろう。

 二つには、「発育」という言葉の持つ分かりづらさが指摘される。人間が本来的に持つ才能、資質を伸ばす、つまり「天資」の発達を「助ける」ことが大事といわれても、それが「発育」と結びつかないうらみがある。ピンとこないのだ。

 ということから敗戦、占領期の7年を経て、日本が生まれ変わるチャンスに、結局は戦前と同じ「教育」という言葉を使うことになった。ただし、その意味合いは全く違うことから「戦後民主主義」という概念をくっつけた「戦後民主主義教育」という言葉が出来上がったものと思われる。

 この戦後の「教育」の転換が、実は名称の有り様における半端さに加えて、占領した当のアメリカがいわゆる「自由な教育」の本分を日本に押し付けることにおいても中途半端だったということがある。二つの半端が重なって、今の日本の「教育の危機」の遠因があるように思われてならない。(この項続く 2025-5-3一部修正)

 

 

 

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