著者の高嶋哲夫さんは、今でこそ日本の最先端の課題を鋭く抉る小説家だが、今から50数年前はアメリカ・ロサンゼルスに住んで大学に通いながら、日本語学校の先生を三年ほどしていた。その後、帰国して1980年代半ばに、この本と共に『アメリカの学校生活』を出版する。これら2冊が処女作となった。その後、私塾の教師、経営を続けながら、やがて作家一筋の生活に入った。私とはこの5年ほど親しいお付き合いをさせていただいている。いささか大袈裟だが、今では「日本の教育改革」に向けて「共同戦線」を張ろうとしている仲である。しばしば〝共戦のための懇談〟を繰り返す中で登場するのがこの2冊の本のこと。とりわけ『カリフォルニアのあかねちゃん』を口にされる機会が多い。もう絶版状態のようだが、ご本人はどこかの出版社が再び発刊してくれないものかと熱望している。つまり、日本の学校教育の現場を根底から変えるための、「遥かなる狼煙」とでも言うべき存在の本なのである。そんな重大な役割を持つものの、今ではすっかり赤茶けてしまった古本を読んだ◆この本の出版元は三修社。「異文化を知る一冊」との触込みで数多くの本をシリーズで出している。裏表紙には「傷心のママに連れられて見ず知らずの地ロサンジェルスにやってきたあかねちゃん。遠い異国の地での二人の新しい出発は?どんな時にも誇りを持ってたくましく生きている人達との心のふれあいを通して、あかねちゃんとママが明るく強く生きていく様子が描かれています」とある。夫と離婚したママが親の反対を押し切り、心機一転を期して小学一年生の娘とアメリカに飛び、悪戦苦闘する物語である。それはそれで読み応えはある。しかし、著者の真の狙いは別にある。アメリカの子供たちがどういう学校教育を受け、日常生活を過ごしているかを、日本人に知らせようとしたものなのだ。後年、著者自身がこの本を通じて訴えたかったことをこう書いている。「(この本は) 普通の家で、小学生から高校生までの教育を行っている『学校』について書いてある。上級生が下級生の勉強や面倒を見る、縦割りで自由な教育だ。日本の『フリースクール』に似ていなくもない。もっと、本格的な自由教育にしたものだ。僕がアメリカの教育で感じたことは、『自由』『個人』『多様性』『才能の重視』といったことだ。服装、考え方など、すべて自由で、個性的だった。さらに移民の国らしく、生活などすべてで多様性にあふれていた」(『電気新聞』2023-9-5付け「米国帰国後の2冊の本」)◆日本の学校しか知らない私にとって、アメリカの学校は未知の世界そのものである。戦後第一世代の私が経験した日本の大学の風景は、入学までの苦労に比べて卒業への道は安易だったのに比して、米国のそれは、入ってから徹底的にしごかれるといったイメージだ。平均的なレベルを維持することにこだわって、突出して優秀な人間を生み出すことへの執着はなく、落ちこぼれていく者にもさして手を施さないといった「学校像」といえようか。そんな私がいきなり40年ほどの前のアメリカの自由そのものの〝授業風景〟に接触して、ただ驚く。紹介されているライナス・スクールは、「一年生だからここまで、ということはなく、その子供にいちばんあった方法を、先生と子供と父兄がいっしょになって、考えながら進めていくのだった。だから、登校拒否というようなこともなかったし、落ちこぼれということもなかった」という。また、最上級生が一年生を教える場面も紹介されている。和気藹々と楽しくみんなが過ごす小学校の雰囲気はとてもユニークという他ない◆お仕着せがましく、画一的で退屈極まりない日本の学校教育の現場と、いかに違うか。「教育」を巡っては百人百様の考え方があろうかと思われる。私は日米の教育現場比較についても、どっちが良くてどちらが劣っているかは一概に言えないと長く思ってきた。しかし、昨今の子供たちの世界における約70万件もの「いじめ」、約34万人に及ぶ「引きこもり」、そして「自殺」の急増(24年は527人)などといった荒廃ぶりを聞くにつけ、これは大変なことで、何かが狂ってると思わざるを得ない。一方で、世界の大学ランキングでの東京大学以下の日本の大学の学力低下という知的基盤の劣化、さらには最先端科学分野での著しい荒廃ぶりなど、目を覆わんばかりの〝教育の成れの果て〟も気になる。加えて、AIやSNSの凄まじい発展によって、子供たちの知識、情報源は学校で教えられる以前に、直ぐに手に届くところにある。考える行為をすっ飛ばして答えが容易に得られる状況の中で、教師の役割はまた中々難しいように思われる。なぜ、日本ではGAFAMのような飛び抜けた起業家による先進企業が生まれないのか。高嶋さんは、文科省の学習指導要領に最大の問題ありというのだが、当の文科省には未だ変える意思はない。ここいらについては、改めて考えていきたい。(一部修正 2025-2-17)
Monthly Archives: 2月 2025
【164】初めはただの老人のごとく後は?━━筒井康隆『敵』を読む/2-9
筒井康隆さんの本を過去に読んだのは『文学部唯野教授』くらい。私が通った中学校がある垂水に在住する人ながら殆ど疎遠な存在だった。尋常唯ならざるその作風に恐れをなして、正直一筋でひたすら真っ当な論考や小説を好んできた私は自然に遠ざけたというのが正直なところである。そんな私が興味を持ったのは、NHK テレビでの『100分de名著』シリーズでこの作家を特集していたものを観たことによる。数ヶ月に一回、集中的に1人の作家の作品を4-5人の多彩な「本読みの手練れ」が一堂に会してあれこれと論じるのはまことに興味深い。今回も1月3日に放映されたものをしっかり観た。中条省平、大森望、菊池成孔、池澤春菜、カズレーザーという連中が事細かに「料理」していた。その最終部分に映画『敵』を監督した吉田大八さんがコメントで「老いを受け入れて楽しむという普遍的なテーマ」を表現しており、「世界文学のレベルに到達している」との激賞ぶりに注目、原作『敵』を電子本で読んだ◆ここでタイトルの『敵』は何を意味するのか。一般に敵はうちとそと、内外両面が考えられよう。うちなる敵は老いを増すにつれて現れる身体、精神双方の老化による自壊であろう。もう一方、そとなる敵は、小さくは我が身に害をなす他人であり、大きくは地震や大豪雨などの自然災害であったり、いわゆる敵国と呼ばれるような侵略してくる外国勢力であろうか。先のテレビ番組での放映シーンでも、注文すると同時に送られてきたKindleの目次でも大枠でそういうことに違いないことが分かった。ただしその文字による表現や描写は、この作家らしく一筋縄ではいかない。具体的な外敵なのか。老化の末に忍び寄る死なのか。こう真面目に考えてしまう。元大学教授の75歳の老人。妻に20年ほど前に先立たれ、東京山の手の住宅街でひとり住む。この主人公の日々を、自身が微に入り細に渡ってこと細かに語っていく。という手法なのだが、まさに、衣食住、春夏秋冬、朝から晩までの生き様の「老年図鑑」「老年解体」でも呼べるような、極めて異色の物語風読みものなのである◆まず、文体が奇妙である。ほぼ全文、時折の例外を除いて、読点がない。ずっとそのまま区切りなく文章がつづく。(といっても、突然、読点が復活したり、まずは気まぐれというほかない)。それでも読みづらくはない。また、雀の鳴く様子を痴痴痴痴痴痴宙宙宙注注注と表したり。人間の泣く様子を、翁翁翁翁、懊懊懊懊と擬音を当て字で描いてみせる。おまけに巻末に、ただ雨の降る様子を使徒使徒とか死都死都と書いて、あとは一面空白などという独自の表現方法を駆使して読者を翻弄し、夢想の世界に引き入れるといった風である。もはや私のような真面目人間にはついていけず、解説の川本二郎氏に頼るしかないと、隣席の友だちの答案用紙をカンニングをするように目をやると、まるでその彼も困惑しているかのようだった。でも、勿論私よりはマシで、あれこれと書いてあり、いつか教師の目も気にせずに、じっと見入ってしまった昔のあの頃を思い出す◆川本は、老人のパソコンをしている様子についての表現が、ある時から「謎めいた不可解なメッセージが入るようになってくる」として、「敵です、敵が来るとか言って、皆が逃げはじめています。北の」とのくだりをあげて、その表現の気味悪さを指摘する。「『敵』とはなんなのか。具体的な侵略者なのか、それとも朦朧としていく意識の中に突然やってきた死なのか」と。正直に告白すると、私は電子本の52%あたりの「敵」という項目で、もう真面目に読むのを放棄したくなった。初めはただの老人のごとく、終わりはわけわからん。もう後は飛ばし読み。ひたすら映画を観て、この部分の映像の作り手の理解を待つしかないとの気分になっている。新手のカンニング方法を編み出して答案を書くいとまもなく、白紙で出した昔の悪夢を思い出しながら。(2025-2-9)
Filed under 未分類