仏教学者の生涯を描き切った弟子 (44)

あなたの宗教は何ですかと訊かれたことがありますか?ほとんどの人は悩んだはずです。仏教と書いたり、真言宗,禅宗、日蓮宗などと個別の宗派を明確に書き込む人はよほど変わった人と言えるかもしれません。長い間日本では「葬式仏教」と言われ続け、宗教(仏教)はお葬式の時だけのものとの印象が根強くあります。また、キリスト教や西欧哲学に比べて、見劣りがする位置づけは認めざるを得ません。そういう状況を変えたいとの思いを強く持って生涯戦い続けてきた一人が仏教学者の故中村元さんでしょう。この人は、執筆した著書・論文が邦文で1186点余。欧文でも1480点余といいますからたまげてしまいます。その中村元さんの一生を弟子が書き表しました。植木雅俊『仏教学者 中村元』で、まことに読みやすくて、あれこれ考えさせられる面白くてためになる本です▼植木さんは、『仏教、本当の教え』で一気に世に知られた仏教思想研究家ですが、中村元先生の主宰する東方学院でインド思想や仏教思想、サンスクリット語を学んだ人です。40歳から十年近く毎週3時間、直接教えを受けたという彼は、「人生において遅いとか早いとかということはございません。思いついたとき時、気が付いた時、その時が常にスタートですよ」との師の激励を支えにしてきた。60歳を超えた今、見事にその才能の花を開かせました。この本は、単に中村元という人物の姿を描くだけではなく、弟子としての学問の捉え方をはじめ、師への仕え方などこと細かに記しており、あたかも「師弟伝」の趣すら漂っています▼この本の魅力は随所に、人間中村元の人となりを表すエピソードが満載されていること。19年がかりで仕上げた二百字詰め原稿用紙4万枚が、出版社の不手際で行方不明になった事例への対応には本当に驚く。謝りにきても怒らなかったというのだから。「怒ったって出てこないでしょう」というセリフには尋常ただならぬ境涯を感じさせる。さすがに一か月ほどは茫然自失とされたようだが、その後は「不死鳥のごとく(書き直しの)作業を再開」され、見事に仕上げられた。「やりなおしたおかげで、前のものよりもずっとよいものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と述べていたのには、ただただ頭が下がる思いだ。加えて、泥棒に入られた事件にはもう笑ってしまう。人格者というのはこういう人を言うのだろうと思うが、ここではあえて触れない。みなさん、読まれてのお楽しみだ▼中村元という人は『東洋人の思惟方法』で、実質的に世に出たのだが、ここには異民族間、異文化間の相互理解と世界の平和を願う思いが込められていて、生涯を通じて彼が追ったテーマが凝縮されています。その後の膨大な著作も結局は、「処女作に回帰する」側面が強いと思われます。この著作には様々な毀誉褒貶があったことを植木さんは淡々と触れていますが、ここに始まって晩年に至るまで、仏教学の世界からはあれこれの反発を常に受ける存在であったことが推測され、きわめて興味深いものがあります▼中村さんは、日本の仏教の現状について「まじめに考え、まともに解決すべき問題を回避して、ごまかしている」と厳しい見方を提示していますが、それについて、植木氏は「2012年11月28日で、中村は生誕百周年を迎えた。我が国の現状を見る限り、六十五年前に中村が指摘していることは、残念ながら今なお変わっていないと言わざるをえない」としたうえで、「改めて、『自己との対決』によって仏教を思想としてとらえることの必要性を痛感する」と記しています。私には、ここはこの本の最重要なポイントと思えます。読みようによっては、師が生涯かけて取り組んだ仕事が現実を変革しえていないことを指摘し、これからの時代における弟子のなすべきことをさりげなく語っているからです。周知のように『思想としての法華経』の著者である植木さんの使命たるや、重大であるといえましょう。今に生きる我々の前途には、「仏教と言ってもいろいろあり、本来の仏教と異なって、権威主義化してしまったり、呪術的になったり、迷信じみたものになってしまったものもある」との彼自身の指摘のように、仏教そのものの差異化をどうとらえるかの問題があります。加えて、キリスト教批判を繰り返しながらもヨーロッパ思想との比較にあって劣勢が否めない東洋思想をどう宣揚するかの課題もあります。こうした問題を考えるうえで、きわめて示唆に富む本に出会えて、今私は幸せな気分に浸っています。(2014・8・20)

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