Monthly Archives: 1月 2014

血と非情で得た代価の輝きの謎

万葉集をめぐっても古事記の場合と同様に歴史研究を専門とする学者に激しく挑んでいる人たちがいます。その代表が元TBSの記者で作家の井沢元彦氏です。彼の『逆説の日本史』は超ロングセラーで、単行本で20巻が既刊されており、今も週刊誌で連載中です。独自の切り口で日本史を一刀両断する手法はまことに鮮やかで私も一時はとりこになりました(尤も、明治維新前夜を語りだしてからはいささか煩雑さが目立ち、切れ味が鈍いように思われ、興味が失せてきています)。第三巻「古代言霊編」あたりは、彼の持論展開に拍車がかかっており、冴えわたっています。一言でいえば、万葉集は「犯罪者たちの私家版」だったというのが彼の結論です。怨霊を恐れた桓武天皇が鎮魂のために、犯罪者の名誉を回復し、後々に万葉集はもてはやされるように至ったというのがその見立てなのです。

「日本の歴史は怨霊の歴史である」というのが彼の主張で、その典型的実例が万葉集を通じて見て取れるというわけです。大津皇子を始め、長屋王、有間皇子といった人たちは持統天皇によって無実の罪を着せられ、処刑されたのが史実です。そういった人々の歌が同じく反逆者の大伴家持の手で編纂されたのが万葉集だ、と。

こうした主張はしかし事新しいことではありません。井沢氏本人も、自分は柳田国男、折口信夫、梅原猛氏ら先達の跡づけをしているに過ぎないと言っています。こうした先達たちはみな、学者ではあっても歴史学者ではないというところに彼の言い分の特徴があります。つまり歴史学者は日本の歴史の真実を読み取る力がないといいたいのでしょう。

ただ、歴史学者の書いたものよりも、前述した学者や週刊誌ジャーナリズムの寵児の方が、一般人の目につきやすいと言えます。今では「政治の敗者はアンソロジー(詞華集)に生きる」(大岡信)というのが定説であり、常識になってると思われます。つまり歴史学者の方が弱い立場にあるように私には見えます。

井沢氏に加えて、この議論を押し立てている人をもう一人挙げるとすると、関裕二氏でしょう。『なぜ「万葉集」は古代史の真相を封印したのか』とか『日本古代史 謎と真説』『奈良・古代史 ミステリー紀行』などの本を書いて、いわゆる歴史愛好家に人気の作家です。かつて、古代史に造詣の深い友人に「入門書をあげるとすれば、誰のものがいい?」と水をむけたことがありますが、この人の名があがりました。こういう人たちの仕事のおかげで、日本の歴史や文学が庶民の手に渡った側面があると言えましょう。(ところで、関裕二氏は巻末に参考文献をあげていますが、その中に井沢氏のものが見当たりません。影響を受けてるはずと思われるだけに、少々違和感があります。あえて読まないのかどうか。こっちの方もミステリーです)。

こうした謎追いもいいのですが、静かに万葉集の良さを味わうことも勿論大切なことです。実は先週のことですが、堺市博物館に万葉学の泰斗である中西進先生をたずねました。来月に淡路島で行われる予定のあるフォーラムの講師にお招きすると聞き、その主催者との打合せに同席させていただいたのです。義母が姫路での同先生の文学講座の受講生とのご縁もあって、同先生のことは、かねて注目していました。私自身も数年前に一度だけパーティの場でご紹介され、名刺を交換したことがあるのですが、驚いたことにその時の会話を覚えていただいておりました。「『西播磨の豪族・赤松氏の末裔にあたられるのですか』との問いかけをしましたよね」、と。静かなたたずまいのなかに凛とした面持ちを湛えられた素晴らしいお方でした。これまで数多の学者や文化人と称される皆さんとご挨拶を交わしてきましたが、この人は飛び切り優しい魅力を持たれた方でした。

「一冊だけ先生のご著作から私に勧めて頂くものをあげて頂けますか」とお尋ねすると、一瞬考える風をされた後に、『日本人の忘れもの』でしょうね、との答えが返ってきました。この本は先年に新幹線を待つ新大阪駅の書店で買い求めながら、読むのを忘れていたものです。改めて今それに挑戦していることは言うまでもありません。

『古代史で楽しむ万葉集』とのタイトルで中西先生の手になる文庫本があります。その中で先生がこうした謎解きの対象になっている万葉集の時代をどう見ておられるのかを探してみました。

「大化以後はまことに古代史における一大転換の時であった。それなりに新時代の誕生は輝かしくはあったけれども、一面それは血と非情を代価として得た輝きであった。その非情の歴史の中から、まず最初の万葉歌が生まれて来る。非情の中に非情たり得ないのが人間だからである。この人間にささえられて、万葉歌は芽ばえた」とありました。見事な言い回しに思わずうなりました。血と非情を代価として得た輝きの中に思いっきり身を投じてみたいと、あらためて思います。

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血と非情で得た代価の輝きの謎

万葉集をめぐっても古事記の場合と同様に歴史研究を専門とする学者に激しく挑んでいる人たちがいます。その代表が元TBSの記者で作家の井沢元彦氏です。彼の『逆説の日本史』は超ロングセラーで、単行本で20巻が既刊されており、今も週刊誌で連載中です。独自の切り口で日本史を一刀両断する手法はまことに鮮やかで私も一時はとりこになりました(尤も、明治維新前夜を語りだしてからはいささか煩雑さが目立ち、切れ味が鈍いように思われ、興味が失せてきています)。第三巻「古代言霊編」あたりは、彼の持論展開に拍車がかかっており、冴えわたっています。一言でいえば、万葉集は「犯罪者たちの私家版」だったというのが彼の結論です。怨霊を恐れた桓武天皇が鎮魂のために、犯罪者の名誉を回復し、後々に万葉集はもてはやされるように至ったというのがその見立てなのです。

「日本の歴史は怨霊の歴史である」というのが彼の主張で、その典型的実例が万葉集を通じて見て取れるというわけです。大津皇子を始め、長屋王、有間皇子といった人たちは持統天皇によって無実の罪を着せられ、処刑されたのが史実です。そういった人々の歌が同じく反逆者の大伴家持の手で編纂されたのが万葉集だ、と。

こうした主張はしかし事新しいことではありません。井沢氏本人も、自分は柳田国男、折口信夫、梅原猛氏ら先達の跡づけをしているに過ぎないと言っています。こうした先達たちはみな、学者ではあっても歴史学者ではないというところに彼の言い分の特徴があります。つまり歴史学者は日本の歴史の真実を読み取る力がないといいたいのでしょう。

ただ、歴史学者の書いたものよりも、前述した学者や週刊誌ジャーナリズムの寵児の方が、一般人の目につきやすいと言えます。今では「政治の敗者はアンソロジー(詞華集)に生きる」(大岡信)というのが定説であり、常識になってると思われます。つまり歴史学者の方が弱い立場にあるように私には見えます。

井沢氏に加えて、この議論を押し立てている人をもう一人挙げるとすると、関裕二氏でしょう。『なぜ「万葉集」は古代史の真相を封印したのか』とか『日本古代史 謎と真説』『奈良・古代史 ミステリー紀行』などの本を書いて、いわゆる歴史愛好家に人気の作家です。かつて、古代史に造詣の深い友人に「入門書をあげるとすれば、誰のものがいい?」と水をむけたことがありますが、この人の名があがりました。こういう人たちの仕事のおかげで、日本の歴史や文学が庶民の手に渡った側面があると言えましょう。(ところで、関裕二氏は巻末に参考文献をあげていますが、その中に井沢氏のものが見当たりません。影響を受けてるはずと思われるだけに、少々違和感があります。あえて読まないのかどうか。こっちの方もミステリーです)。

こうした謎追いもいいのですが、静かに万葉集の良さを味わうことも勿論大切なことです。実は先週のことですが、堺市博物館に万葉学の泰斗である中西進先生をたずねました。来月に淡路島で行われる予定のあるフォーラムの講師にお招きすると聞き、その主催者との打合せに同席させていただいたのです。義母が姫路での同先生の文学講座の受講生とのご縁もあって、同先生のことは、かねて注目していました。私自身も数年前に一度だけパーティの場でご紹介され、名刺を交換したことがあるのですが、驚いたことにその時の会話を覚えていただいておりました。「『西播磨の豪族・赤松氏の末裔にあたられるのですか』との問いかけをしましたよね」、と。静かなたたずまいのなかに凛とした面持ちを湛えられた素晴らしいお方でした。これまで数多の学者や文化人と称される皆さんとご挨拶を交わしてきましたが、この人は飛び切り優しい魅力を持たれた方でした。

「一冊だけ先生のご著作から私に勧めて頂くものをあげて頂けますか」とお尋ねすると、一瞬考える風をされた後に、『日本人の忘れもの』でしょうね、との答えが返ってきました。この本は先年に新幹線を待つ新大阪駅の書店で買い求めながら、読むのを忘れていたものです。改めて今それに挑戦していることは言うまでもありません。

『古代史で楽しむ万葉集』とのタイトルで中西先生の手になる文庫本があります。その中で先生がこうした謎解きの対象になっている万葉集の時代をどう見ておられるのかを探してみました。

「大化以後はまことに古代史における一大転換の時であった。それなりに新時代の誕生は輝かしくはあったけれども、一面それは血と非情を代価として得た輝きであった。その非情の歴史の中から、まず最初の万葉歌が生まれて来る。非情の中に非情たり得ないのが人間だからである。この人間にささえられて、万葉歌は芽ばえた」とありました。見事な言い回しに思わずうなりました。血と非情を代価として得た輝きの中に思いっきり身を投じてみたいと、あらためて思います。

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想像力をたくましくして読まないと

古代史といえば当然ながら天皇のことを抜きには語れません。私のような戦後第一世代は、天皇が現人神ではなく、人間として日本社会に定着する過程と、自分自身の成長とが重なり合うのです。そこには天皇は最高の人格の持ち主で、あらゆる意味で至高の存在たれとの願望が込められてきました。

根が真面目というべきか奥手というのでしょうか。古代史を学ぶなかで、天皇たちの文字通りの親兄弟相互での殺し合いやら近親相姦のようなふしだらな有様を見聞きするたびに、おぞましい思いを抱いてきました。天皇家の連続性を強調されると尚更首肯できないものを感じてきたのです。戦後民主主義教育の弊害というのでしょう。歴史を現時点での価値観で見てしまう癖から抜けきれなかったのです。

そんな私にとって万葉集冒頭の天皇の歌も従来的な天皇観を変えるにはいたりませんでした。ほのぼのとした人間臭さを感じなくはないのですが、一皮めくると究極のパワハラに思われるのです。

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ

大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも

雄略天皇の歌です。春の菜を摘んでいる娘に心を動かされた天皇が娘の名を尋ねている場面です。自分の立場を明らかにして相手の気を誘うやり方は、どう読んでもナンパに見えます。

次にくる歌は舒明天皇の作とされています。

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製(おおみうた)

大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は

かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

大和にはあれこれの山があるけれど、香具山に登って下を見ると、かまどの煙が立ち上り、海原ではかもめが飛び立っている。大和の国はいい国だ、と自賛している歌です。ほのぼのとした情景が眼前に広がっていき、民の喜びを感じ取っている為政者の自信がくみ取れる歌といえましょう。先年、私は友人たちとこの香具山に登ってみました。なだらかな丘陵でした。四方が見渡せましたが、海原は勿論見られずかもめは発見できませんでした。

万葉集をめぐっては様々な学者がありとあらゆる研究を重ねてきています。今あげた二つの歌についても、問題点がかなり指摘されています。読むとこんがらがるばかりです。それについては、ドナルド・キーン氏が面白いことを名著の誉も高い『日本文学史』古代中世編一で述べています。「研究論文すべてに目を通し、あらためて歌を読んでみても、以前より理解が深まるとはとてもいえない。古今の万葉学者は様々な説をとなえてきたが、筆者には、完全に納得できるものは一つとしてないような気がする」と。痛烈です。これにはほっとします。あれこれ詮索するよりも素直に歌が持つリズムを味わえばよいのでしょう。

とはいうものの、それで終わらせてしまっては面白くありません。いい解説は奥深いところに誘ってくれるのです。丸谷才一氏は『日本文学史早わかり』の中で、この冒頭の二首をめぐって味わい深いことを書いてます。「恋歌と国見歌とが、かういふ晴れがましいところに一対のものとして並ぶことは、恋愛と国見とが古代日本の君主にとって最も重要な仕事であったことの證拠だといへよう」としたうえで、「古代日本人の最大の関心事は繁殖で、それゆゑ国王は、あるいは風景に言ひ寄る呪文をとなへ、あるいは女たちに親しむ演劇の司祭となったのである」と。

しかも、巻八にある舒明天皇のもう一つの作も対になってると指摘しています。

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今宵は鳴かず 寝(い)ねにけらしも

この解説がふるっています。「妻を恋うて鳴く鹿の声が今宵は聞こえないゆゑ、恋が成就したのだらうと思ひやる意だが、これは当然、人間の恋愛を獣の交尾と同質のものとして把握してゐるわけで、極めてエロチックな和歌である。すなはち舒明の国見歌は、一方では政治的恋愛、他方では自然的恋愛と対応しながら、実は、動植物の繁殖一般と相通ずる内容を歌ってゐる。風景と動植物とを刺戟することこそ、天皇の詠歌の本来のすがたであった」というのです。なるほど、と感心するしかありません。こういう御託も私のような堅物人間をして、歪んだ天皇観の形成にひと役買ってるのかもしれません。

全米図書賞をとったというリービ英雄『英語でよむ万葉集』を、随分前に日本語で読みました。彼は香具山に登って私と同じく、山は低く風景は小さい、海原はなくかもめが飛び立つはずもないと失望します。しかし、何年か経って英語に翻訳する作業をしているうちに「小さな風景とはうらはらに、雄大で厳かな対句が頭に響き、そこには陸と海とをかかえた大きく構造的な想像力がはたらいているのが分かった」というのです。なるほど、すべては想像力がなせる業なんだ、と。自分にはそれが足りないことが分かりました。

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想像力をたくましくして読まないと

古代史といえば当然ながら天皇のことを抜きには語れません。私のような戦後第一世代は、天皇が現人神ではなく、人間として日本社会に定着する過程と、自分自身の成長とが重なり合うのです。そこには天皇は最高の人格の持ち主で、あらゆる意味で至高の存在たれとの願望が込められてきました。

根が真面目というべきか奥手というのでしょうか。古代史を学ぶなかで、天皇たちの文字通りの親兄弟相互での殺し合いやら近親相姦のようなふしだらな有様を見聞きするたびに、おぞましい思いを抱いてきました。天皇家の連続性を強調されると尚更首肯できないものを感じてきたのです。戦後民主主義教育の弊害というのでしょう。歴史を現時点での価値観で見てしまう癖から抜けきれなかったのです。

そんな私にとって万葉集冒頭の天皇の歌も従来的な天皇観を変えるにはいたりませんでした。ほのぼのとした人間臭さを感じなくはないのですが、一皮めくると究極のパワハラに思われるのです。

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ

大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも

雄略天皇の歌です。春の菜を摘んでいる娘に心を動かされた天皇が娘の名を尋ねている場面です。自分の立場を明らかにして相手の気を誘うやり方は、どう読んでもナンパに見えます。

次にくる歌は舒明天皇の作とされています。

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製(おおみうた)

大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は

かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

大和にはあれこれの山があるけれど、香具山に登って下を見ると、かまどの煙が立ち上り、海原ではかもめが飛び立っている。大和の国はいい国だ、と自賛している歌です。ほのぼのとした情景が眼前に広がっていき、民の喜びを感じ取っている為政者の自信がくみ取れる歌といえましょう。先年、私は友人たちとこの香具山に登ってみました。なだらかな丘陵でした。四方が見渡せましたが、海原は勿論見られずかもめは発見できませんでした。

万葉集をめぐっては様々な学者がありとあらゆる研究を重ねてきています。今あげた二つの歌についても、問題点がかなり指摘されています。読むとこんがらがるばかりです。それについては、ドナルド・キーン氏が面白いことを名著の誉も高い『日本文学史』古代中世編一で述べています。「研究論文すべてに目を通し、あらためて歌を読んでみても、以前より理解が深まるとはとてもいえない。古今の万葉学者は様々な説をとなえてきたが、筆者には、完全に納得できるものは一つとしてないような気がする」と。痛烈です。これにはほっとします。あれこれ詮索するよりも素直に歌が持つリズムを味わえばよいのでしょう。

とはいうものの、それで終わらせてしまっては面白くありません。いい解説は奥深いところに誘ってくれるのです。丸谷才一氏は『日本文学史早わかり』の中で、この冒頭の二首をめぐって味わい深いことを書いてます。「恋歌と国見歌とが、かういふ晴れがましいところに一対のものとして並ぶことは、恋愛と国見とが古代日本の君主にとって最も重要な仕事であったことの證拠だといへよう」としたうえで、「古代日本人の最大の関心事は繁殖で、それゆゑ国王は、あるいは風景に言ひ寄る呪文をとなへ、あるいは女たちに親しむ演劇の司祭となったのである」と。

しかも、巻八にある舒明天皇のもう一つの作も対になってると指摘しています。

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今宵は鳴かず 寝(い)ねにけらしも

この解説がふるっています。「妻を恋うて鳴く鹿の声が今宵は聞こえないゆゑ、恋が成就したのだらうと思ひやる意だが、これは当然、人間の恋愛を獣の交尾と同質のものとして把握してゐるわけで、極めてエロチックな和歌である。すなはち舒明の国見歌は、一方では政治的恋愛、他方では自然的恋愛と対応しながら、実は、動植物の繁殖一般と相通ずる内容を歌ってゐる。風景と動植物とを刺戟することこそ、天皇の詠歌の本来のすがたであった」というのです。なるほど、と感心するしかありません。こういう御託も私のような堅物人間をして、歪んだ天皇観の形成にひと役買ってるのかもしれません。

全米図書賞をとったというリービ英雄『英語でよむ万葉集』を、随分前に日本語で読みました。彼は香具山に登って私と同じく、山は低く風景は小さい、海原はなくかもめが飛び立つはずもないと失望します。しかし、何年か経って英語に翻訳する作業をしているうちに「小さな風景とはうらはらに、雄大で厳かな対句が頭に響き、そこには陸と海とをかかえた大きく構造的な想像力がはたらいているのが分かった」というのです。なるほど、すべては想像力がなせる業なんだ、と。自分にはそれが足りないことが分かりました。

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抒情ただよう万葉集との出会い

万葉集との出会いはいつも突然です。何か別のものを読んでいてそこで見出したり、訪れた先で歌碑を発見するといった具合で。つまり、さあ万葉集を読むぞと肩ひじ張って第一巻から順に、というのではなく、つまみ食い的に拾ったり、様々な先達の関連本の中に出てくる歌をそのつど鑑賞することが専らでしょう。私もそうです。ここではそんな中から印象深く残ってる歌を取り上げてみます。

田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける  山部赤人

最後は、「降りつつ」ではなかったか、と頭をよぎります。百人一首に殆ど同じものが登場しているからです。「たごの浦にうち出てみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつつ」と。これは装いを新たにしたうえで新古今集に再録され(そこから百人一首に採用)た経緯があるのです。万葉集研究者からは、改悪だと、叩かれています。これに対し、中世和歌研究者からは反論がなされ、ちょっとした”田子の浦論争”の様相になっています。平安朝文学を専門にする吉海直人氏は『百人一首への招待』のなかで、反論は「どうも歯切れが悪い」としつつ、思わぬ事実を明らかにしてくれています。万葉仮名を平安朝の人たちが判読できず、「『万葉集』が平安朝においてほとんど読まれていなかった」のだ、と。

今の時点からはいささか驚きですが、『万葉集』は実はその後もずっと一般の人びとには忘れられていたのです。『万葉集』が現在のように日本文学史の中で正当な位置を占めるに至るのは「明らかに明治になってからで、とくにそれが画然とするのは正岡子規以降といっていい」(大岡信『あなたに語る 日本文学史』上)のです。この辺りは、大づかみでいうと「万葉集対古今集」の論争の歴史になってしまい、お互いの立場を是とするものたちの罵り合いにまで及んできました。私の理解では、素朴さと華麗さの対立であり、自然をありのままとらえるいき方と、色々と技巧を凝らす表現方法の差であろうと思います。どちらがいいとか悪いとかではなく、どっちもいいねというのが偽らざるところでしょうか。大岡信氏が前掲の書で「僕は両方を平等に見ることを心がけたい」としていますが、私も同感です。

前回に美智子皇后が「人の心に与える喜びと高揚を初めて知った」歌のことを紹介しました。皇后ご自身はその歌とは何かを具体的に指していませんが、恐らくは次の歌だとされています。

石(いわ)ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる 春になりにけるかも   志貴皇子

私はこどもの頃の一時期、神戸の垂水(正確には塩屋町)で過ごしました。この歌を見聞きするたびに、連想ゲームのように、その地で過ごした頃のあれこれを思い出しますから妙なものです。『万葉集』には当然のことながら全国各地の場所を詠みこんだものが数多くあります。ご当地ソングならぬご当地和歌です。兵庫県は播州姫路で生まれ、神戸は垂水、須磨で育った者として、そうした辺りの歌に出くわすと心騒ぎます。万葉歌人のなかで最も多くの歌が登場する(4500首のなかで450首)のは柿本人麻呂ですが、彼の旅の歌は、風物詩的な情緒豊かさにおいて、他の追随を許さないといいます。とりわけ瀬戸内海の周辺地域としての淡路島や明石海峡を詠んだ歌に、私は感激してしまいます。

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

荒たへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行く我を

燈火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

瀬戸内海の船旅がもたらす醍醐味が蘇ってきます。淡路の野島といえば、先の阪神淡路の大震災の震源地です。私事に及びますが、藤江(明石市)は我が恩師の終の棲家の地でした。また、明石には今、娘夫婦と孫が住んでいます。

柿本人麻呂は、職業的な宮廷詩人だったといいます。恐らく注文に応じて作ったに違いない公的な歌と、自らの感情を思うがままに表現した私的な歌に、その作品群は分かれています。前者では、彼は枕詞や序詞をしきりに用いて対句や繰り返しを駆使し、色彩豊かで流暢な言葉の響きを展開しています。また後者では、漂う抒情が今に読むものの心を打ちます。

加藤周一氏はその名著『日本文学史序説』上の冒頭部分で「人麿の公的な挽歌では、多彩な言葉の積み重ねが、感動をつくり出すのに足らなかった。私的な挽歌では、事情が逆転し、強い人間的な感情が、控えめな言葉で語られる日常生活の些事に無限の意味を与えている」と、いささか持って回った表現で述べています。彼の日本文学史は序説と銘打っているものの、単なる文学を超えた壮大な思想史研究の趣きもあります。儒教、仏教はじめ外来の思想、宗教が与えた影響に深い洞察が加えられており、私は大変に好きで愛読しています。先年亡くなられましたが、その直前にキリスト教に入信されたとのこと。いったいどういう経緯があったのでしょうか。揺れ動いたであろう晩年の心の動きに、関心を持たざるを得ません。

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抒情ただよう万葉集との出会い

万葉集との出会いはいつも突然です。何か別のものを読んでいてそこで見出したり、訪れた先で歌碑を発見するといった具合で。つまり、さあ万葉集を読むぞと肩ひじ張って第一巻から順に、というのではなく、つまみ食い的に拾ったり、様々な先達の関連本の中に出てくる歌をそのつど鑑賞することが専らでしょう。私もそうです。ここではそんな中から印象深く残ってる歌を取り上げてみます。

田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける  山部赤人

最後は、「降りつつ」ではなかったか、と頭をよぎります。百人一首に殆ど同じものが登場しているからです。「たごの浦にうち出てみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつつ」と。これは装いを新たにしたうえで新古今集に再録され(そこから百人一首に採用)た経緯があるのです。万葉集研究者からは、改悪だと、叩かれています。これに対し、中世和歌研究者からは反論がなされ、ちょっとした”田子の浦論争”の様相になっています。平安朝文学を専門にする吉海直人氏は『百人一首への招待』のなかで、反論は「どうも歯切れが悪い」としつつ、思わぬ事実を明らかにしてくれています。万葉仮名を平安朝の人たちが判読できず、「『万葉集』が平安朝においてほとんど読まれていなかった」のだ、と。

今の時点からはいささか驚きですが、『万葉集』は実はその後もずっと一般の人びとには忘れられていたのです。『万葉集』が現在のように日本文学史の中で正当な位置を占めるに至るのは「明らかに明治になってからで、とくにそれが画然とするのは正岡子規以降といっていい」(大岡信『あなたに語る 日本文学史』上)のです。この辺りは、大づかみでいうと「万葉集対古今集」の論争の歴史になってしまい、お互いの立場を是とするものたちの罵り合いにまで及んできました。私の理解では、素朴さと華麗さの対立であり、自然をありのままとらえるいき方と、色々と技巧を凝らす表現方法の差であろうと思います。どちらがいいとか悪いとかではなく、どっちもいいねというのが偽らざるところでしょうか。大岡信氏が前掲の書で「僕は両方を平等に見ることを心がけたい」としていますが、私も同感です。

前回に美智子皇后が「人の心に与える喜びと高揚を初めて知った」歌のことを紹介しました。皇后ご自身はその歌とは何かを具体的に指していませんが、恐らくは次の歌だとされています。

石(いわ)ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる 春になりにけるかも   志貴皇子

私はこどもの頃の一時期、神戸の垂水(正確には塩屋町)で過ごしました。この歌を見聞きするたびに、連想ゲームのように、その地で過ごした頃のあれこれを思い出しますから妙なものです。『万葉集』には当然のことながら全国各地の場所を詠みこんだものが数多くあります。ご当地ソングならぬご当地和歌です。兵庫県は播州姫路で生まれ、神戸は垂水、須磨で育った者として、そうした辺りの歌に出くわすと心騒ぎます。万葉歌人のなかで最も多くの歌が登場する(4500首のなかで450首)のは柿本人麻呂ですが、彼の旅の歌は、風物詩的な情緒豊かさにおいて、他の追随を許さないといいます。とりわけ瀬戸内海の周辺地域としての淡路島や明石海峡を詠んだ歌に、私は感激してしまいます。

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

荒たへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行く我を

燈火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

瀬戸内海の船旅がもたらす醍醐味が蘇ってきます。淡路の野島といえば、先の阪神淡路の大震災の震源地です。私事に及びますが、藤江(明石市)は我が恩師の終の棲家の地でした。また、明石には今、娘夫婦と孫が住んでいます。

柿本人麻呂は、職業的な宮廷詩人だったといいます。恐らく注文に応じて作ったに違いない公的な歌と、自らの感情を思うがままに表現した私的な歌に、その作品群は分かれています。前者では、彼は枕詞や序詞をしきりに用いて対句や繰り返しを駆使し、色彩豊かで流暢な言葉の響きを展開しています。また後者では、漂う抒情が今に読むものの心を打ちます。

加藤周一氏はその名著『日本文学史序説』上の冒頭部分で「人麿の公的な挽歌では、多彩な言葉の積み重ねが、感動をつくり出すのに足らなかった。私的な挽歌では、事情が逆転し、強い人間的な感情が、控えめな言葉で語られる日常生活の些事に無限の意味を与えている」と、いささか持って回った表現で述べています。彼の日本文学史は序説と銘打っているものの、単なる文学を超えた壮大な思想史研究の趣きもあります。儒教、仏教はじめ外来の思想、宗教が与えた影響に深い洞察が加えられており、私は大変に好きで愛読しています。先年亡くなられましたが、その直前にキリスト教に入信されたとのこと。いったいどういう経緯があったのでしょうか。揺れ動いたであろう晩年の心の動きに、関心を持たざるを得ません。

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年の初めは日本古来の和歌から

新しい年が明けました。おめでとうございます。今月は『万葉集』に挑戦します。全部で20巻。取り上げられたる歌の数は4500でその大半が短歌です。7世紀後半から約100年の間につくられたものが8世紀の後半に編纂されました。最終的には大伴家持らによってまとめられたというのが定説です。内容は、「相聞」(男女の間の歌)「挽歌」(人の死を嘆く歌)とそれ以外の「雑歌」の三つに大きく区分されますが、圧倒的に多いのはやはり「恋」の歌です。「恋と女の日本文学」の源泉はここにあります。全部を読むわけにはいかないのでとりあえず少しづつ読んでいきます。

現代日本人が和歌(短歌)というものに人生にあって最初に出くわすのは、お正月の「かるた取り」です。ご多聞にもれず私も小学校の頃に「百人一首」との出会いがありました。日本の子どもは、お正月には凧あげて駒をまわし、羽根つきをし、福笑いに興じ、トランプをし、かるた取りをしました。戦後も間もない昭和30年代前半、姉が二人いた我が家では、お正月遊びの定番は「百人一首」の上の句や下の句を読み上げ、その相方を探すことでした。昭和の終り頃に私の娘は小学校に通いましたが、残念ながらその習慣はありませんでした。平成の今はどうでしょう。プリクラに夢中の孫娘が学校に行く頃にやるとはとても想像しがたいのです。

「万葉集」に向かう入口というか、短歌に馴染む手引き役として「百人一首」はあります。これは13世紀の中ごろ、鎌倉時代初期に藤原定家によって編まれた秀歌撰だとされていますから、二つの間には500年ほどの時間が横たわっています。取り上げる順序は逆なのですが、お正月に免じてお許しください。あとで触れますが、日本文学史における万葉集と古今集や新古今集をめぐる相克とは関係がないということも断っておきます。

さて「百人一首」には古今集から24首、新古今集、千載集、後拾遺集からそれぞれ14首づつといったように、全部で10の勅撰和歌集(天皇の命令によって作られたもの)から100首が集められています。その中身を見ると、恋歌が43と半分近くを占め、そのあとは春夏秋冬の季節を歌ったものが32と続きます。それぞれの歌人が心の思いを31文字に綴ったもの100首の存在は、あたかも交響楽の演奏のようだと譬える専門家もいます。私はかるたに描かれた女性の十二単姿に魅せられました。頻繁に登場する月に比べて太陽の出番がないなあとか、秋の歌がめっぽう多いのに夏が殆ど詠まれていないことにも印象深く思ったものです。あらためて100首を詠んでみましたところ、明確に記憶に残っているのは30首だけ。深い意味も分からずに男を待ち望む女の心やその逆のケースを詠んでいたわけです。

お正月が来るたびに短歌に接触しながら、ついに今の歳になるまで、まともに一首も詠んだことがないというのも哀れなものです。それでも百人一首にまつわる本は何冊か読みました。一番印象深いのは安野光雅『片想い百人一首』です。上の句を問いだとすれば、下の句は答えにあたる意味があるとして、思いの丈を込めて百首作っています。新聞記者をしていた頃(昭和50年代半ば)にこのひとの自宅を訪ねて取材をしたことがあり、ひとかたならぬ関心を持って様々な作品に触れてきました。絵の素晴らしさはいわずもながですが、ユーモア溢れるエッセイも出色。この本ではパロディの何たるかを提示してくれているようで、味わい深いものがあります。たとえば、和泉式部の「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一度の逢ふこともがな」を「花さそふ酒も最後となりぬれば今一度のあふこともがな」といった具合です。酒に未練たっぷりの夜のうただ、と添えています。

この本で最もインパクトが強かったのは美智子皇后の御歌集『瀬音』や、著作『橋をかける』を取り上げているくだり。前者では、七首の歌を紹介しており、いずれも胸を打つ。私的には「母住めば病院も家と思ふらし『いってまゐります』と子ら帰りゆく」が好きです。後者では、皇后がある一首の和歌を「誦していると、古来から日本人が愛し、定型としたリズムの快さの中で、言葉がキラキラと光って喜んでいるように思われ」、「詩が人の心に与える喜びと高揚を、初めて知ったのです」との文章もとてもいいです。

「百人一首」については軍国主義華やかなりしころの日本が悪用したという悲しい歴史があります。戦時下における国民の愛国心を鼓舞するためにとの名目で、万葉集いらい明治元年以前の物故者から100首が選ばれていたのです。昭和17年11月に制定されています。冒頭を飾ったのは柿本人麻呂の「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」です。選定委員には、佐々木信綱、斎藤茂吉、折口信夫、土屋文明、川田順ら錚々たる歌人が名を連ねています。今から思えば、恋の歌が半分近くを占める百人一首を戦争に利用したりするなんて、と思いますが、時の勢いでしょうか。この辺りは次回にも触れます。

五七五七七という定型で、最近私はこんなものを作ってみました。「革新の幻想去って大衆に翻弄される今の政治家」「武士の道廃れて今は危機来たり指導者不在で民衆哀れ」ーなんだか短歌というよりも川柳ぽいですが、本人としては満更でもないのですからいい気なものです。

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年の初めは日本古来の和歌から

新しい年が明けました。おめでとうございます。今月は『万葉集』に挑戦します。全部で20巻。取り上げられたる歌の数は4500でその大半が短歌です。7世紀後半から約100年の間につくられたものが8世紀の後半に編纂されました。最終的には大伴家持らによってまとめられたというのが定説です。内容は、「相聞」(男女の間の歌)「挽歌」(人の死を嘆く歌)とそれ以外の「雑歌」の三つに大きく区分されますが、圧倒的に多いのはやはり「恋」の歌です。「恋と女の日本文学」の源泉はここにあります。全部を読むわけにはいかないのでとりあえず少しづつ読んでいきます。

現代日本人が和歌(短歌)というものに人生にあって最初に出くわすのは、お正月の「かるた取り」です。ご多聞にもれず私も小学校の頃に「百人一首」との出会いがありました。日本の子どもは、お正月には凧あげて駒をまわし、羽根つきをし、福笑いに興じ、トランプをし、かるた取りをしました。戦後も間もない昭和30年代前半、姉が二人いた我が家では、お正月遊びの定番は「百人一首」の上の句や下の句を読み上げ、その相方を探すことでした。昭和の終り頃に私の娘は小学校に通いましたが、残念ながらその習慣はありませんでした。平成の今はどうでしょう。プリクラに夢中の孫娘が学校に行く頃にやるとはとても想像しがたいのです。

「万葉集」に向かう入口というか、短歌に馴染む手引き役として「百人一首」はあります。これは13世紀の中ごろ、鎌倉時代初期に藤原定家によって編まれた秀歌撰だとされていますから、二つの間には500年ほどの時間が横たわっています。取り上げる順序は逆なのですが、お正月に免じてお許しください。あとで触れますが、日本文学史における万葉集と古今集や新古今集をめぐる相克とは関係がないということも断っておきます。

さて「百人一首」には古今集から24首、新古今集、千載集、後拾遺集からそれぞれ14首づつといったように、全部で10の勅撰和歌集(天皇の命令によって作られたもの)から100首が集められています。その中身を見ると、恋歌が43と半分近くを占め、そのあとは春夏秋冬の季節を歌ったものが32と続きます。それぞれの歌人が心の思いを31文字に綴ったもの100首の存在は、あたかも交響楽の演奏のようだと譬える専門家もいます。私はかるたに描かれた女性の十二単姿に魅せられました。頻繁に登場する月に比べて太陽の出番がないなあとか、秋の歌がめっぽう多いのに夏が殆ど詠まれていないことにも印象深く思ったものです。あらためて100首を詠んでみましたところ、明確に記憶に残っているのは30首だけ。深い意味も分からずに男を待ち望む女の心やその逆のケースを詠んでいたわけです。

お正月が来るたびに短歌に接触しながら、ついに今の歳になるまで、まともに一首も詠んだことがないというのも哀れなものです。それでも百人一首にまつわる本は何冊か読みました。一番印象深いのは安野光雅『片想い百人一首』です。上の句を問いだとすれば、下の句は答えにあたる意味があるとして、思いの丈を込めて百首作っています。新聞記者をしていた頃(昭和50年代半ば)にこのひとの自宅を訪ねて取材をしたことがあり、ひとかたならぬ関心を持って様々な作品に触れてきました。絵の素晴らしさはいわずもながですが、ユーモア溢れるエッセイも出色。この本ではパロディの何たるかを提示してくれているようで、味わい深いものがあります。たとえば、和泉式部の「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一度の逢ふこともがな」を「花さそふ酒も最後となりぬれば今一度のあふこともがな」といった具合です。酒に未練たっぷりの夜のうただ、と添えています。

この本で最もインパクトが強かったのは美智子皇后の御歌集『瀬音』や、著作『橋をかける』を取り上げているくだり。前者では、七首の歌を紹介しており、いずれも胸を打つ。私的には「母住めば病院も家と思ふらし『いってまゐります』と子ら帰りゆく」が好きです。後者では、皇后がある一首の和歌を「誦していると、古来から日本人が愛し、定型としたリズムの快さの中で、言葉がキラキラと光って喜んでいるように思われ」、「詩が人の心に与える喜びと高揚を、初めて知ったのです」との文章もとてもいいです。

「百人一首」については軍国主義華やかなりしころの日本が悪用したという悲しい歴史があります。戦時下における国民の愛国心を鼓舞するためにとの名目で、万葉集いらい明治元年以前の物故者から100首が選ばれていたのです。昭和17年11月に制定されています。冒頭を飾ったのは柿本人麻呂の「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」です。選定委員には、佐々木信綱、斎藤茂吉、折口信夫、土屋文明、川田順ら錚々たる歌人が名を連ねています。今から思えば、恋の歌が半分近くを占める百人一首を戦争に利用したりするなんて、と思いますが、時の勢いでしょうか。この辺りは次回にも触れます。

五七五七七という定型で、最近私はこんなものを作ってみました。「革新の幻想去って大衆に翻弄される今の政治家」「武士の道廃れて今は危機来たり指導者不在で民衆哀れ」ーなんだか短歌というよりも川柳ぽいですが、本人としては満更でもないのですからいい気なものです。

 

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