Monthly Archives: 3月 2014

(22)必要なのは、森にすむ動物にもやさしい視点

NHK広島総局に電話をしたのは、中国山地のあちこちで始まってるという挑戦は、大いに結構だが、木を伐採したあとをどうしているのかという問題である。つまり、スギやヒノキの針葉樹林を伐採した後に、少しでもブナやナラといった広葉樹林を植えていくことがないと、日本の森は蘇らないのではないか、との視点が私には気になっている。その点について、地元はどのような認識をもっているかと訊いてみた。井上恭介チーフ・プロデューサーは、あまりその認識がなかったことを認めたうえで、真庭町の町長はその点についての主張をしていたことを教えてくれた。

この『里山資本主義』では、これからの日本の進む道は二つあるという。一つは、「都会の活気と喧騒の中で、都会らしい二十一世紀型のしなやかな文明を開拓し、ビジネスにもつなげて、世界と戦おうという道」。もう一つは、「鳥がさえずる地方の穏やかな環境で、お年寄りや子どもにやさしいもう一つの文明の形をつくりあげて、都会を下支えする後背地を保っていく道」である。しかし、私は、この二つ目の道を作る際に、あえていえば、森にすむ動物にも優しい視点を盛り込む必要があるということだ。

森にすむ動物たち、すなわちクマやシカ、イノシシなどが荒廃する森から里山や人里に降りて来る現象が近年とみに目立つ。それは、膨大な針葉樹林のために動物たちの生息する環境が厳しいものになってきていることと無縁ではない。適度な広葉樹林の必要性が指摘されて久しい。中国山地はもはやクマが絶滅的状況にあると言われているが、それは広葉樹林の欠如と大いに関係するのだ。

今、中国山地で展開されている試みにそうした視点がなければ、結局は、元の木阿弥になってしまう。つまりスギやヒノキの針葉樹林の大量植林とその伐採の繰り返しでは、森の保水力は保てず、従来通りの川の氾濫をもたらしてしまうことになる。せっかく、伐採をするなら、そのあとに、広葉樹林を計画的に植えるという観点を入れる必要があろう。そこまでフォローしてこその「里山資本主義」だと考える。

この本はエネルギー供給という観点では鋭いものがあるが、もっと大きなこの国の安全や安心といった面では足らないところがあると言わざるをえない。NHK広島総局の井上氏には、藻谷さんにも、また現場の皆さんにも私の主張を伝えておいて欲しいと言っておいたが、さてどのように考えられるか。

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(21)21世紀の先端アイテムは里山の木材からー里山資本主義

広島の山奥での実践的な試みから現代人の生き方を根底的に問うー藻谷浩介とNHK広島取材班の共著『里山資本主義』が話題を呼んでいるというので読んでみた。事の発端は、2001年夏に中国山地における異様なまでに元気な年配者たちの革命的行動に始まる。衝撃を受けたというNHK広島総局の井上恭介チーフプロデューサーらが藻谷さんと組んで取材を始めた。

藻谷さんは、全国の市町村をくまなく歩いている地域エコノミスト。実は私が現役を退く少し前だから2年ほど前に国会の勉強会で講演を聴いたことがある。最前線の地域の実情を知り抜いている気鋭の経済人との印象を受けた。日本総合研究所の主任研究員であり、元をただせば日本開発銀行の銀行員だ。彼は少し前に『デフレの正体』という本で、「ものが売れないのは景気が悪いからではなく、人口の波に原因がある」との画期的な論稿を世に問うた。そっちは未だ読了してはいない。

中国山地の山奥で何が起こっており、そしてそこから何を感じ、どう今の日本の現状を切り取って未来への予測を打ち立てたのか。一言でいえば、里山を食い物にしてしまおうというのだ。里山にある木の枝を使って「エコストーブ」を活用するー知ってしまえば、なあんだ、と思うほど簡単な仕組みである。灯油を入れる高さ50センチほどの20リットルのペール缶の側面に小さなL字型のステンレス製の煙突がついたものがエコストーブの出来具合だ。この煙突部分に萌えやすいおが屑などをいれて着火して、木の枝をくべるというもの。真上に上がった炎はやがて真横に向きを変え、ストーブ本体に吹き込み、モノを温めていくことに。きわめてシンプルでお金も僅かで出来上がる。このストーブで煮炊きをし、部屋を温めていく。これが21世紀の新経済アイテムというわけだ。

こういう仕組みを著者たちは「里山資本主義」と呼ぶ。おカネの循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、おカネに依存しないサブシステムを作ってしまおうという考え方である。これは単純に昔の暮らしに戻せと言うのでもなく、今の経済社会に反逆せよというのでもない。要するに、森や人間関係といったおカネでは買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することによって、マネーだけを頼りに暮らすのではなく、はるかに安全で安心な底堅い未来を現出させることが出来ると言う。

こうした主張を読んで、一つ大きな疑問が沸いてきた。私は直ちに、NHK広島放送局に電話し、井上さんを呼び出した。そこで交わした話は次回に。

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(20)組織永続のための徳川家来たちの忠義

忠臣蔵のストーリーは、赤穂藩の大石内蔵助以下の47人が、主君の仇を晴らすため、艱難辛苦の果てに見事に吉良上野介を討つというもの。だが、それは表のことで、実は裏は全く違う、と竹村公太郎氏はその謎を「地形」で明かす。面白い。その謎解きの結果は、徳川幕府に吉良家を抹殺したいとの永年の怨念があり、たまたま浅野内匠頭が不祥事を起こしてくれたため、それを利用して巧みに赤穂浪士たちを庇護の下におき、一方的な襲撃を可能にしてやったというのである。それは事件後、吉良家の血筋を一人も残さないほど徹底的に滅亡に追い込んでいったことで解る、と。それは、徳川幕府にとって重要な泉岳寺に赤穂浪士たちが手厚く埋葬されたことなど、巧妙な仕掛けが施されていることでも解る、と。なるほど、そうかと納得してしまう。

では、その謎の「地形」とは何か?それは、1300年代からの矢作川の干拓の歴史に遡る。矢作川とは今の愛知県岡崎市を流れる川だ。この川の河口に吉良家、上流部が徳川家の領地という風に隣接する。ここでは300年に及び塩田をめぐっての干拓争いが繰り広げられた。家康が力を持って徳川家が台頭するまでは、吉良家の方が圧倒的に優位にたっていた経緯がある。しかも、この力関係が逆転したあとも、吉良が対朝廷の関係において優位にあったため、征夷大将軍の地位を世襲するには、徳川家は隠忍自重する必要があった。それがようやく果たせるチャンスを、赤穂義士たちが作ってくれたというのである。

こういう経緯を知ってみると、なるほどと思える。前回見たような赤穂浪士たちへの様々な配慮も、吉良への怨念を果たす徳川の意志の表れとみると謎が解けてくるわけである。これまでは、江戸の危ない中心部に浪士たちが多く潜んだことはその大胆さを示すものだとか、吉良邸を寂しいところに移したのは、むしろ吉良が防御しやすいようにしたためであるとかとの俗説が支配的だった。しかし、徳川対吉良の対決の歴史を知らされてみると、見方がぐっと変わってくる。

加えて、泉岳寺という家康が創建した寺に埋葬したことは、この討ち入りを忠義の物語として仕上げ、日本国中に広めていくためであった。その宣伝のために、わざわざ高輪大木戸を泉岳寺のそばに移すということまでやってのけているという。当時の旅人が泉岳寺により立ち入り易いようにした(全国への宣伝効果を狙って)ということを指摘する。このことは、同時に徳川家にとって真のねらいであった「吉良家の取り潰し」の企みが秘匿できる(赤穂浪士への賛嘆の影に徳川の狙いは隠せる)からだという。

まことに、竹村さんの推理は巧みである。つくづくなるほど、と感じ入らされる。私は、ここまでして徳川幕府は、自らの体制を永続可能なものにしていく配慮を怠らなかったということに驚愕する。家康は自らの世襲体制を出来る限り長きにわたって続けさせるべく、ありとあらゆる手立てを講じたことはよく知られている。しかし、それが実際に、260年もの長きにわたって存続しえたのは、その後継者たちの壮絶なまでの思いがなければ到底実現しえない。家康が逝って100年ほどの歳月が流れた後に、その思いを果たすために永年の宿敵である吉良を用意周到なやり方で巧みに潰してしまい、その体制の永続化をはかったとは、凄い。むしろ、この徳川の忠義の方が、赤穂の浪士たちの忠義よりも重く深いものがあり、われわれ現代に生きるものが学ばねばならないと思う。

つまり、主君がしでかした失敗の汚名を雪ぐための隠忍自重の浪士たちの闘いも勿論、称賛に値する。だが、それを巧みに利用して、徳川家の組織温存、発展のために、家来たちがその忠義を創建者のために尽くすということは、もっと大きいことではなかったかと、思われてならない。

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(19)表は赤穂浪士の情。裏は徳川幕府の怨。

「忠臣蔵には日本人の情がいっぱいつまっています。この情を世界に訴えるべきだと思います」-中西進さんはかつて、テレビの忠臣蔵特集番組で、忠臣蔵を世界に紹介する際に何をポイントにすればいいか、と訊かれてこうコメントした。『日本人の忘れもの』第三巻の最終章に出て来る。忠臣蔵と情。これには誰しも異存はない。その通りだと思う。今、NHKの大河ドラマで放映中の『軍師 官兵衛』も情にあつい官兵衛と24人の部下たちのドラマだ。我が郷土は情にとりわけあつい人たちを多く輩出しているのは嬉しい限りだ。

その上にたって、忠臣蔵の赤穂浪士たちの話は情だけではなく、全く別の観点から読み解けるとの珍しい説を目にした。竹村公太郎さんの『日本史の謎は「地形」で解ける』だ。実は、この本、文庫化されるにあたって整理され直したもので、読むのは二度目になる。一度目と違ってさらに面白いことを考えさせられた。

竹村さんは私が衆議院国土交通委員長をしていた2001年に河川局長をしておられたれっきとした高級官僚。たまたま私とは同い年だが、途方もない凄い男だと思う。日本史を文科系の頭で考えるのではなく、気象や地形といった観点から読み解くというのだから。赤穂浪士の話も彼にかかると、徳川幕府が吉良家を潰すために、赤穂浪士の討ち入りがしやすいようにあれこれ便宜をはかり、成功した後もそれを宣揚するために大いに尽力したのだという。つまりは、情の物語は表面で、実は裏面は怨の物語である。しかも主体は徳川幕府なのであって、浪士ではない。読んでいない人のために概略紹介しておこう。

竹村さんは「赤穂浪士は江戸幕府に匿われていた」のであり、もっと言うと実態は「指名手配の過激派が警視庁の裏をアジトにしたようなもの」だとまで言う。なぜか。①半蔵門は江戸城の大切な正門②江戸幕府は将軍がその半蔵門の堀を渡るのに、構造上危うい木橋ではなく、土手にした③半蔵門の土手防御のため、四谷見附から江戸城までの郭内は御三家や親藩の屋敷を配置し、かつ、戦闘集団の旗本たちも住まわせた④賑わう麹町の商店には、密偵がくまなく配置されていたと推定できる⑤江戸で最も警備が厳重なこの麹町に、副官の吉田忠左衛門、武闘派急先鋒の原惣右衛門をはじめ16名もの赤穂浪士が潜伏していたーこれらのことから先の結論が導き出される、と。

加えて、吉良邸が江戸城郭内ともいえる呉服橋門から本所の回向院の隣に移転させられたのは、なぜか。まさに、強力な警備機構が集積している江戸の中心部から川向こうの倉庫街という寂しいところへ移されたのはいったいなにゆえなのか。竹村さんは、江戸幕府が吉良上野介を江戸城郭内からまるで放逐したのは、吉良家を抹殺するために舞台を自らお膳立てしたのだという。「忠臣蔵」をめぐっては数多の異説が飛び交うが、この説はとびきり変わっていて、興味深い。次回にその種明かしと、そこから私が考えることを述べたい。(この項続く)

 

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