Monthly Archives: 7月 2017

自衛隊取材の環境はなぜ激変したかー杉山隆男『兵士に聞け 最終章』を読む

「あしたフライトがないときは、とりあえず、あしたは死ぬことはないな、と思います」ー27歳のパイロットは、こう言ってフライトがない前日は思いっきり吞むという。「もし自分たちが乗った飛行機に何かあったら、十人の部下の家族を一軒一軒たずねて、機長の妻として頭を下げてくれ」ーP3C機長の夫は、結婚にあたり妻への最初の頼みとして、こう言った。「任務の特性上、必ず帰ってこられるという保証はどこにもありません」ーそれでもよろしければ結婚させてください、といきなり最悪の話から切り出した。何れも、杉山隆男『兵士に聞け 最終章』にある。この本を読みつつ、私は姫路
の第三特科連隊(当時)付近での懇談会の場でのある母親の発言を思い出した。それは、ほぼ30年前のこと。自衛隊がPKO任務を初めて帯びてカンボジアに派遣されるというニュースで持ち切りのとき。「そんな危ないことをさせるために自衛隊に息子を入れたのではなかったのに」という慨嘆の声であった▼こうした自衛隊員をとりまくありのままの姿は知られているようでいて、意外に知られていない。私は20年間の国会議員時代の大半を安全保障委員会に所属していたので、それなりに分かっているつもりだが、それでも表面上だけで、隊員の生活ぶりなどは全くと言っていいほど知らない。兵庫県なら伊丹市に方面の拠点があるし、宮崎の新田原航空基地や、沖縄の那覇基地など全国各地の自衛隊基地を訪れたり、米軍基地も僅かながら訪問した経験も持つ。しかし、所詮は上っ面だ。であるがゆえに、自衛隊員の日常を描いた本には興味を持って追いかけてきたつもりだ。この本には冒頭に挙げたようなものから、災害派遣の現場で、低体温症や高山病で”戦列”
をやむなく離脱する若い隊員の赤裸々な姿まで”様々な真実”があぶり出されて興味深い▼杉山隆男『兵士シリーズ』はこれで7冊目。取材を始めてから足かけ24年になるという。最初の頃から読んできたが、自衛隊をめぐる問題の貴重な情報源だといえた。題名からもわかるように、今回で最後の作品になるというが、残念なことだ。なぜ今回で終わりになるのか。著者はあとがきで「取材環境が激変したこと」を一番の理由に挙げている。今までは隊員と一対一で話を聞くことができたのに、今回は、「自衛隊の広報が絶えず立ち合い、私が歩くところには必ずお目付け役のようにして基地の幹部がついて回った」というように、一変したというのである。このため個別のインタビューなどもできにくくなった、と。このあたり実際はどうなのか。自衛隊の側の言い分もあろうし、単に杉山氏がもう自衛隊を追いかけるのに疲れたのだけかも知れない▼それよりも、気になるのは日米同盟の名のもとに、自衛隊の中でアメリカの存在がさらに大きくなっていくことへの危惧を述べているくだりだ。「神は細部に宿り給う」という最後の章で「まわりに漂う匂い」の一片として、「3・11」の一か月後のトモダチ作戦の日米間の連絡調整の場で偶々同席した時のことを挙げている。場所は仙台だが、およそ日本ではないような空間であったことに強い違和感を感じた、と。作家・開高健がベトナム戦争のさなかに、「本質はしばしばそのまわりに漂う匂いの中に姿をあらわしている」として、様々な「細部」を書きとどめていったひそみに倣って、杉山氏が追い続けてきたことが明かされる。杉山氏は、日本における米軍の存在がこの24年間でいやまして大きくなってきていることを痛切に感じていると述べる。かつて「自衛隊は日本人にとって、鏡の中のもう一人の自分」と書いたが、あと何年かすると、「鏡をのぞいたら、見たこともない他人が見つめていることになるのかもしれない」と結んでいて、思わせぶりだ。南スーダンにおける日報をめぐる稲田防衛相、黒江事務次官らの一連の対応は文字通り目を覆うばかりだった。ようやく退任を決断したが、もはや遅すぎる。自衛隊の最前線と最高幹部との大いなるズレこそがすべての元凶と思われる。杉山氏の懸念も正鵠を射ているように思われてならない。(2107・7・27)

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読まぬ阿呆に読むあほうー中路啓太『もののふ莫迦』を読む

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」ー読み進めながら、ご存じ阿波踊りの一節をしきりに思い出した。読まぬ阿呆に読む阿呆、同じ阿呆なら読まなきゃソンソン、と。久方ぶりに、「巻を措く能わず」と形容したくなるホントに面白い小説に出くわした。中路啓太『もののふ莫迦』である。滅法面白いからあっという間に読み進めると言っておきながら、「読む阿呆」とはなんだと訝しがられるかもしれない、その理由の一端は後に触れる。この小説、実は私が青春期に記者をしていた『公明新聞』に連載された小説である。これまでも同新聞は、火坂雅志の「安国寺恵瓊」ものや、葉室燐の「赤穂浪士」にまつわるものなどの歴史小説で数々のヒット作を世に提供してきた。今度のものは「加藤清正」と対峙する架空の人物・岡本越後守が主人公。中路さんという作家は東大の人文社会系研究家博士課程を中退し、38歳頃に作家デビュー。この10年余りで、吉川広家、毛利勝永らの歴史上の武将を取り上げたり、「槍の勘兵衛」や「もののふ越後」などの新しい武士像を作り上げてきた。これだけ面白い小説を登場させながら、新聞小説の場を提供しただけの媒体は、本になっても全く世間に紹介されないというのはちょっぴり悔しい思いもする▼小説の時代背景は、豊臣秀吉による統一がなる直前から「関ケ原」辺りまで。前半の舞台は九州は肥後の国で展開。主人公「越後守」がとある村で破天荒そのものの、ものふぶりを発揮、作中世界に一気に引込まれる。後半は朝鮮に場所を移し、秀吉の命を受け半島に出兵した加藤清正らの壮絶な戦いぶりが手に汗握らせる。しかも、加藤配下から朝鮮側に寝返った「越後」との息詰まる死闘が繰り広げられ、みじんも飽きさせない。この流れの中で、「もののふ」をめぐっての生き方の是非が繰り返し提示される一方、男勝りの姫・たけと二人の「もののふ」との愛憎が基底部を深く愛おしく流れる。誰もが歴史上の史実として大まかに知っているストーリーが壮大な筆致で語られる。と、同時に作りごととしてのお話が巧みに織り込まれて息を吞みつつ推移する。いやはや、たまらなく面白い筋立てだ▶さて、「もののふ莫迦」で作者・中路さんは何を言いたかったか。ただ単に面白いといって済ませられないだけの芯の強さが読後にずしりと残る。この小説の前半の山場、清正と越後守との対決場面。「聞かせてもらおう。そちがさきほどから申しておる、そのもののふの道とはなんだ」と清正が訊く。これに対して越後は「恥を知ることにござりまする」と。この小説に一本通る太いテーマが、今の世の中、「恥知らずが多すぎるということ」だろうと、つまり「もののふ」がいないことに尽きるとの問題提起である。中路さんは、現代における「恥の喪失」を憂え、ほんものの人物を見いだせない社会状況への警鐘を乱打したかったのではないか。倫理観が問われるような事件がおきても、弁明の中で「恥ずかしい」という言葉を聞くことは稀だ。教師や警察官としてあるまじきことを行っても、また大学教授や医師として本来してはならないことをしても、彼らから出て来る言葉は「申し訳ない」。「恥ずかしい」という言葉は殆ど出てこない。「申し訳ない」とは、周りへの迷惑に謝ったとしても、自らのあるべき姿に言及していない。かくいう私が生きてきた政治家の世界でも、ジャーナリズムの世界でも同様だ。この小説を読んでいて、ただただ無性に恥ずかしくなる自分を感じた▼肥後・熊本での加藤清正の人気は圧倒的だ。姫路はお城が世界文化遺産であっても、関係する歴史上の人物で、清正を上回る武将や城主を持たぬ点で劣る。そう思ってきた私だけに「清正」が一層まぶしく見える。この小説で「清正」を既成の、出来合いのリーダーとしておき、それのアンチテーゼとしての「肥後守」と比べてみる。最後のクライマックスにおけるヒロイン(男勝りの女性、たけ)の両者への思いー「越後守がもののふの道を極めるには、清正もものふの道を極めなければならない。(中略)越後守と清正の話し合いは、ある種の和解とならなければならないのだ」は、作者の「清正」に代表される既存のリーダーへの妙な気配りのように思えてしまう。結局は舞台回し役の「粂吉」(正念坊)という、もののふならぬ、”ふ(歩)そのもの”のというべき状況追従型の男に、私を始め通常の読者は自分のありのままの姿を投影せざるを得ない。はらはらドキドキの戦闘場面や、越後守とたけの「戦場での恋」に興奮しつつ、魔法にかけられたように読み終えた。魔法がとけると、なぜか悲しく虚しい思いにもなってしまうのは何故か。作者が創作した「物語部分」がいささかリアルさが欠けるところに起因するのかも。このあたりが、読まぬ阿呆に読む阿呆というフレーズを思いつくことに関係してくるのかもしれない。とはいうものの、朝鮮半島を舞台に、豊臣軍と明軍との攻防は、今の東アジア政治を想起させ、想像の翼が新たに羽ばたき始めてやまない。                            (2017・7・21)

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孫悟空を追い続ける西域ひとり旅ー浅野勝人『宿命ある人々』を読む

『宿命ある人々』ー耳慣なれない言い回しのタイトルの本に出会った。宿命とは何か。辞書によると、その環境から逃れようとしても逃れることができない、決定的な(生まれつきの)巡りあわせを指したり、立場上そうならざるを得ない泣き所を意味するという。運命と同義で、一般的には厳しい経緯を経て、暗い結末へと至る身の上を意味する。ここでは「人智では動かしえない定めある人たち」と云いたいのだと思われる。この本の著者・浅野勝人さんは、元NHK解説委員にして、元官房副長官、元外務副大臣(衆・参両議院議員)を経験した政治家。7年前に勇退してから、一般社団法人「安保政策研究会」の理事長を務めるかたわら、日中友好に深く貢献していることでも知られる。著書も数多く、この読書録でも『日中秘話ー融氷の旅』『北京大学講義録』などを取り上げてきた。私には仰ぎ見る先輩のひとりだ。しかも現在、当の「安保政策研」でお世話になっており、宿縁浅からぬ人でもある▼この本は三部形式。一つは、比叡山延暦寺大阿闍梨・酒井雄哉師の生の講話集。二つは、「孫悟空」を追いかけて一人旅をした西域記。三つは、大相撲横綱・白鵬との交友録。全体を通じて「宿命ある人を追っての西域ひとり旅日記」の趣きだが、味わい深い話が満載されており、読み応えたっぷり。最初の酒井雄哉師の講話は、序文に「ことばに尽くせない鬼気迫る貴重な人生訓」とある。7年かかって延べ1000日修行する千日回峰行。話には聞いていたが中身は知らなかった。以下にほんのさわりを。まず最初の4年間は毎日32キロほど、堂塔、霊蹟、野仏、草木を礼拝する行をしながら、嵐だろうが病気や怪我だろうが休むことなく歩き続ける。もし「行」に失敗すれば、山を去るか、自害するかが掟だ。決死の難行。5年目に入って700日終わると、「お堂入り」をする。これは無動寺谷明王堂に籠り、9日間、断食、断水、不眠、不臥で不動真言と法華経全巻を唱える荒行のこと。このあと、赤山苦行、京都の大廻り(毎日84キロ歩く)などと続く。この修行、病に倒れず、死にもせずにやり通すことは至難の業という他ない。口の渇きのために、舌の上の一滴の水の処し方など、克明に記された体験記は是非直接読んでほしい。酒井師はこの千日回峰を二回やった人だが、淡々と語る姿は筆舌に尽くしがたい。こうした修行を経たうえでの「『生きている』とは何なのか」のくだりなど、読むものはただただ息を吞むだけ。「今日の自分は今日でお終い。明日はまた新しい自分が生まれて、明日の新しい生活が生まれてくる」と。『一日一生』というこの人の代表作の題名が浮かぶ。さてさて、これほどの超人的な修行をしないと悟りの極意には到達できないものなのか。ただただ溜息が出てくる▼浅野さんは少年時代「西遊記」の孫悟空に憧れた。如意棒と筋斗雲を持ったスーパースターに、79歳の今も魅力に取りつかれている。孫悟空に関心を強く抱いた浅野さんは「三蔵法師、西域、インドの旅」に関する中国古典や資料、著書を読み漁るうちに、「孫悟空ってほんとは誰なのか」との謎解きに嵌っていく。そのきっかけが慈覚大師・円仁が著した『入唐求法巡礼行記』。それをベースにやはり巡礼行をした酒井師の後を追いながら、「悟空」に迫ろうというのだから凄い。西安では、薦福寺、興福寺の二か寺を訪れ「悟空」との接点を探すも得られず、敦煌へ。そこでは「敦煌研究院」の特別の計らいを得て、有名な「莫高窟」を見学。非公開の「第17窟」に入り貴重な石窟の数々を目にする。写真撮影が禁止されているために、悪戦苦闘したいきさつがなんともハラハラどきどきさせられる。さらに敦煌から東にタクラマカン砂漠の東端を越えて「楡林窟」へ。そこで、遂に「玄獎取経図」と出逢う。そして現地での学者、研究員らとの白熱の討議。念願の孫悟空に逢ったのだが、そこからがまた難行苦行の連続。「ホントのところは孫悟空とは誰なのか」を追うことはとてもスリリングだが少々難しい。答はあえて秘しておこう。読んでいて酒井師の千日回峰を思い起こさせられるほど。かの肉体的修行に比してこちらは精神的苦行になぞらえられよう。で、この「西域ひとり旅」はいつ始まっていつ終わったのか。探してみたが、今のところ発見できていない。あたかも狐ならぬ猿に鼻でもつままれたような気分になってしまった▼白鵬関と深い付き合いのある浅野さんは「横綱はチンギスハーンの生まれ変わり」というほどの入れ込みよう。「強い人が大関になる。宿命ある人が横綱になる」との白鵬関の発言。この言いぶりはいかにも日本的だという感じを抱く。実は私は鶴竜関の姫路後援会の一員だったことがあり、現役時代には毎年春の大阪場所前に、彼や井筒親方(元逆鉾)らと一緒のテーブルを囲んだものだ。白鵬関とは違ってカリスマ性には乏しいものの、折り目正しいその佇まいは日本人そのものに思われ、私にはとても好ましい人だ。横綱だから、この人もまた宿命ある人と思いたい。尤もこのところ休場続きなのが心配される。ところで、私は71歳の今日まで、宿命はあるとかないとかの次元ではなく、元々誰しもにあるものと捉えてきた。つまり、人間はすべて宿命ある人々だ、と。ここでいう宿命とは、人間の持つ最高の能力という意味、つまり仏の命を指す。ただ、人としてその仏の命の現れ方(宿命の在り様)が千差万別なのである。ということから、己自身が自覚した宿命が、仮に弱くボロボロのものだったら、これを力強く颯爽としたものに変えねばならない。「宿命転換」の原理なのだが、これは、今の仮の姿から、本来の姿としての仏の命に立ち戻らせねばならないというわけだ。その立ち戻らせ方を教えてくれるのが「日蓮仏法」だと確信している。この辺り、一般的な「宿命論」を覆す新たな座標ではある。(2017・7・12)

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不安定な筋、頭がこんがらがる内容 を噛み砕くー丸谷才一、大野晋『光る源氏の物語』下巻を読む

『源氏物語』を私に読むように勧めてくれた尊敬するお医者さんのことは先日少し書いた。長きにわたり読めないでいたのだが、解説本とはいえようやく読み終えたことを報告できるまたとない機会を得たことも。その日までに丸谷才一、大野晋『光る源氏の物語』上下二巻を読み終え、その読後メモを用意することを密やかな企みとして、当日を迎えた。「知的巨人」としての地域の大先輩に”ご恩返し”するまたとない機会を私らしく工夫したしだいだが、かの源氏の読み方(a系b系さらにはc系d系と分けられるということ)を同先生がご存知かどうか。これはもう五分五分と見るしかなかった。この説を認知する向きは、「源氏学会」においても少数派であるとはいうものの、竹田宗俊氏の発表以来65年程が経っているだけに、である。知っておられたらあまり面白くはない話だが、仮にご存じなかったら、これはもうぞくぞくするくらい興味深い、と▶それにつけても、この物語を解説する二人の対談は変てこりんという他ない。なぜかといえば、(下)でいうと、「若菜」では「これを読まなければ、源氏を読んだことにならない」と絶賛したかと思えば、そのあとに続く巻では「この巻では作者がくたびれてる感あり」(鈴虫)とか、「不明なところがままある」(幻)し、「筋が不安定で安心して読めない」(紅梅)やら、「頭がこんがらがる」(竹河)とも。挙句の果ては「題があるだけで本文なし」(雲隠)というのだから(中身はタイトルの如く雲隠れしたのか)。そのくせ、「浮舟」では「俄然事態は動く。本当に見事な巻」とくるので、油断しているととんでもないことになりそうだ。せんじ詰めれば、いわゆる「宇治十帖」なるものは、「宇治は憂路に通じ、光が死んでしまったあとの光のないくらい世界」のことで、「女にとって男との間に幸せはないという主題」が込められている、と。そして「宇治十帖」は「どうも文章がズルズルと続いていて、力強さがない」し、「美が乏しい」と強調されている。こうくると、なぜ『源氏物語』が世界文学の最高峰なのか、理解に苦しむのだが、そこはもう随所に目くるめく様な仕掛けが施されていると思うほかない▼そのあたり、あとがきの大野晋氏と丸谷才一氏のツーショット解説が抜群に読ませる。大野氏は『源氏物語』には、「光源氏と数多くの女性とのことが描かれていますが、第三十三番目の「藤裏葉」という巻で」区切られ、そこまでに登場する4人の女性(空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘)とのかかわりの部分を全部抜き去ってしまっても、残りの部分は一貫した物語としてよく読める」、いやそれどころか「その方がむしろ明瞭に筋がたどれるというめずらしい事情がある」というのだ。加えて「本書を読まれるときに、まず谷崎潤一郎さんの現代語訳でなり、ともかく最初に執筆された十七帖(a系)をまず読み通してみて頂きたい」と。そのうえで、この対談本を読むと「お互いが響き合う」とおっしゃる。確かに、この対談では、「閨房のこと(男色を含む)についてまことに熱心に討議して」(丸谷)おり、実に味わい深い。そこは瀬戸内寂聴さんの「学者と実作者の源氏物語の斬り口」なる解説が何よりも裏付けていよう。「私の引用が閨房のことばかりに偏したのは、この点をお二方が最も熱心に扱われたからで、私が特に好色のせいではない」とは、よくぞまあ。彼女が好色の塊であることは天下周知の事実なだけに大いに笑える▶さて、冒頭の疑問に戻ろう。私の尊敬するお医者さんは当初、そんな説(abcdの4系列に源氏物語が分れるという)って、いつ誰が言ったのですか、と訝しげだった。そう、ご存じなかったのだ。私はそこで長きにわたってのこの物語への疑問を投げかけた。「で、先生は『源氏物語』を読まれてすっきりと筋立ては解られてたのですか」と。「いやあ、解らんよ」、大体そういう読み方はしないんだよという意味のことを続けられた。これですべては解けた。これだけ私にはちっとも解らん小説なのに、なぜ愛読しているひとがいるのかとの疑問が。寂聴さんが「いかに自分がこの名作をかいなでにしか読んでいなかったかを、肝に銘じてほしいものである」と結んでいるが、恐らく源氏物語読者の99%までは解らないまま、その魅力に嵌っているに違いない。ようやくスタートラインに立った私が、どうこれからこの物語に立ち向かうか、新たな喜びに胸がときめいている。
                                              (2017・7・5)

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