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「死刑存続か廃止か」の議論を想起ー佐木隆三『復讐するは我にあり』を読む

世の中呆れるばかりの恐るべきニュースが後を絶たない。アパートの狭い自室に若い女性(男性一人を含む9人)を連れ込んで殺し、その遺体をバラバラにし、内臓はごみと一緒に捨て、頭を始め骨などは冷蔵庫や部屋の中に隠しておいたという事件がつい先日起こった。口にすることさえ憚られる嫌なニュースだ。過去に残虐非道な事件は数知れないが、この度のものは特筆されよう。別にそれに合わせたわけではないが、つい少し前に我が書棚に長く眠ったままにしてあった佐木隆三『復讐するは我にあり』を読んだ。この小説は実際にあったものを題材にしたノンフィクションで、映画化もされ話題になっただけにご存知の方は多いはず。かねてタイトルに惹かれて購入したもののそのままになっていた▼この小説は、残虐きわまりない殺人と狡猾かつユーモアさえ感じさせる詐欺犯罪とが入り乱れて出来上がっている。後者における悪知恵の発揮ぶりにはほとほと感じ入ってしまうほど。前半を読む中でなぜにこんな犯罪小説を読ませられるのかと幾たびか辟易したものだが、挟み込まれた知能犯ぶりの巧みさに次第に引き摺り込まれていった。警察を翻弄しきった逃避行が、最終的に幼女の直観に見抜かれるというエンディングもいい。著者はあとがきで40数年の作家生活を振り返り、この作品に最も愛着を感じている風を匂わせ、この小説の改訂新版にこぎつけ古希を迎え(78歳で逝去)て「もはや思い残すことはない」と語っているのが印象深い▼様々な読み方があろうが、この作品は、タイトルがある意味全てであろう。「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」(ロマ書)と表紙の扉にあるように、新約聖書の引用である。主人公・榎津巌がキリスト教の洗礼を受けているとの設定であることや、かつて交流のあった教誨師宅に逮捕寸前に足を運んでいることなど思わせぶりではある。キリスト教と遠い位置にある人間にとっては、”復讐する我”とは被害者の身内的なるものだと当然ながら想像してしまう。このあたり、「目には目を」なのか、「悪を犯した人間は自然の摂理の中で罰を被るもの」で納得できるのか、大いに判断は分かれるところだ▼これまた偶々なのだが、読売テレビ系の人気テレビ番組「そこまで言って委員会」で、死刑の是非をめぐる討論番組を観る(11・5)機会があった。いつもより以上の壮絶なバトルだったが、なかなか迫力があった。死刑存続を認めるか廃止するか、真っ二つに分かれての大議論は聞きごたえがあった。感情的には「死刑」は当然あっていいというのが自然だが、冤罪がゼロでない以上、命を奪う権利はいかなる場合もあってはならないという結論も無視できない。日本の現状にあっては、疑わしきは死刑にせずとの流れが横溢しており、現実には冤罪で命を奪われるというケースはほとんどないようだ。わたし的には死刑存続は止むをえないとの立場である。(2017・11・12)

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