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「反核」を叫ぶ権利はいずこにあるかー太田昌克『偽装の被爆国』を読む

1993年から20年に及んだ私の代議士生活は、いわゆる「失われた20年」とほぼ重なる。バブル崩壊から長期にわたるデフレによる生活不安がそのベースを形成していた。「政治改革」をめぐる動きに端を発し、小選挙区比例代表並立制の導入を経て、連立政治が常態になった期間でもある。それこそ後の祭りなのだが、この間政治家は何をしてきたのかと、時に暗澹たる気分に襲われる。孫や子に恥じない政治家としての足跡を残すことができたのか、と自責の念にも駆られる。なかでも深く頭を垂れざるを得ないテーマが「核廃絶」である。与党の一翼・公明党の議員として、この分野を担当しながら結局は核をめぐる事態を毫も変えることが出来なかった責任は小さくない。そんな折も折、日本という国に対して『偽装の被爆国』との決定的な烙印を押す本に出会った■故市川雄一元書記長を追悼する拙文が毎日新聞朝刊5面に掲載されたのは3月5日のことだった。多くの人々から幾重にも心温まる激励の電話やメールを頂いたが、嬉しかったのは久方ぶりに声を聞けた旧友からのものだった。そのうちのひとりが共同通信の太田昌克記者(編集委員・論説委員)である。早速上京した機会に旧交を温めることになった。その際に戴いたのが彼が昨年9月に出版した上記の本なのである。ボーン上田記念国際記者賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。政策研究で博士号も。私より20歳ほども年若なのだが、この分野でのジャーナリストの先達として、畏敬の念を抱いてきた。「石畳を焼きつけていた強い西日に薄い雲がかかると、心地よい南風がピタリとやみ、瀬戸内特有の夕凪が薄暮の公園を静かに包み込んだ」ー2016年5月27日午後6時過ぎの広島市平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑前。この印象的な書き出しは、米大統領として史上初めて被爆地に足を踏み入れたバラク・オバマ氏の振る舞いへと続き、読者を「核」の世界へと誘い込む■太田さんはワシントン特派員時代から15年以上にもわたって幾たびもホワイトハウス高官ら米国のエリート官僚を取材してきた。その人々との息詰まるせめぎ合い。日米関係の錯覚をときほぐすお手並み。推理小説の種明かしのように、実に読み応えがある。この辺りの呼吸は他の追随を許さない。ただ、日本人しかも政治家の一員としては何とも切なく虚しい思いになる。「被爆国」という日本の一枚看板の素顔が次々と暴かれ、剥げ落ちて行くからだ。「核」をライフワークとするという広島選出の岸田外相。野球でいえばエースがリリーフで登場しながらも敢え無く打ち込まれて惨敗を喫したような、核兵器禁止条約をめぐる交渉の一部始終。太田さんは「『分断』を防ぐための提案を行うやり方もあったはずだ」し、「将来『核の傘』から脱却できる日が来た時に備え、いま米国の核抑止力を信奉している『傘国』、さらにはその背後に控える核保有国も参加できる仕掛けづくりに、被爆国の外交官の叡智を結集すべきではなかったか」と、さりげなくだが厳しいタッチで追及する。その矛先は政権のパートナーの身にもキリキリと痛く食いこむ■エピローグで、最近「日本政府にはもう『被爆国』と名乗らないでほしい」との被爆者の悲痛な叫びと憤怒の声をよく耳にするようになったと紹介されている。その心情たるや痛いほどよくわかる。ただ、ここで私が想起するのは最近読んだ佐伯啓思さんの『「保守」のゆくえ』における次の一節である。「もし日本に『反核』を唱える権利があるとすれば、それは『唯一の被爆国』だからではなく、日本が西欧近代的な思想を相対化しうるという限りにおいてなのである」。日本は明治維新以降150年というもの西欧近代的な思想に絡めとられてきた。その思想こそ「核」に行きつく宿命を持つがゆえに、それを絶対視してきた日本人には批判する権利はないというのである。つまり、西欧近代的な思想に代わりうるものを日本が持たなければ、「反核」などと偉そうなことをいう権利はない、とまで。この人らしい深くコクのある論理展開である。そうなると、冒頭に述べたように自信喪失をし自己嫌悪に陥っていた私も俄かに蘇る思いを抱く。「反戦・反核」の闘いを世界において長い歳月展開してきた創価学会 SGIにはその資格があるといえるからだ。どうしてか。日蓮仏法を基軸にした中道思想こそ西欧近代的な思想を乗り越えるものだと信ずるからだ。より正確には日本独自の世界観を持ってこそ「核」に反対する権利があるといえようか。こう思うに至って、沸々と「反核」への闘志が改めてわが体内に漲ってきた。(2018・4・15 修正版)

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自前の歴史観を持ちたいとの渇望ー佐伯啓思『「保守」のゆくえ』

 朝日新聞を自宅で購読することをを来月からやめるつもりだ。長い間まさに愛読してきたのになぜなのかはここでは触れない。それよりも今やめると読めなくなるのが惜しいコラムがある。佐伯啓思(京都大名誉教授)さんの『異論のススメ』だ。この新聞が今辛うじて存在感があるのは、自社の主張とほぼ真反対の考えの持ち主を「異論」として登場させることだろう。この6日付けの「重要政策論の不在 残念ー森友問題一色の国会」がその典型だ。朝日新聞こそこの国会における野党の戦いぶりのこよない応援団であり、主導的役割を果たしている。その新聞が、佐伯さんの批判的意見をオピニオン欄の最下段とはいえ掲載し続けているのは面白い。この問題については与野党とメディアの双方に責任があると思うがこれもここでは触れない。佐伯啓思さんの近作『「保守」のゆくえ』を読んだ。先に西部邁さんが亡くなった時に、その志向するところの類似性に思いを馳せ、よりマイルドなのが佐伯さんだと書いた。かつて若い頃に嵌りかけた評論家・福田恒存氏の延長線上にも位置しよう。この本はまさに現在展開する諸事象の根源的な問題の所在に迫っており、「保守」の真髄とでもいうべきものを明らかにしている■我々が物心ついた頃から一貫してあった「保守対革新」の対立の枠組みが潰えてほぼ30年。いわゆる冷戦が幕を降ろしてからの時期と重なり、日本にあっては平成の30年とダブル。ソ連の崩壊とともに内外における「革新」の退潮があり、世界は混とんとしたカオスの状態に陥っている。佐伯さんは、冷戦とは「ソ連社会主義や共産主義という理想へ向けたそれこそ究極の『進歩主義』と、それを押しとどめようとするアメリカ中心の『保守』との対立」と見なされていたが、実はそうではなく、「計画的・平等主義的な進歩主義」と「競争的・自由主義的な進歩主義」の対立であったという。そして、「保守」を定義し論じることの難しさを正直に告白している。巻頭に掲げられた「無秩序化する世界の中で『保守思想』とは何か」で8つの基本的論点をあげてはいるが、何れも真正面からの定義づけではない。すべて「まともに論じるのにはかなり骨の折れる」ことで、「多くの場合、保守思想は、何らかの具体的な問題状況のなかで、それに即して論じるほかない」としている。まさに、これは私たちが中道主義とは何かを論じる場合と同じだということは興味深いものがある■この本はある意味で解のない論考といえ、矛盾の只中にある課題を考える解決への糸口を示しているに過ぎないものかもしれない。しかし、それゆえにこそ著者の苦労がしのばれ、その思考の所産を頂く喜びも大きい。様々な果実の中でわたし的には、「近代日本とは何であったか」とのテーマに関するものが参考になる。最も読み応えのあるのは第三章「歴史について」で、「「アメリカはその普遍的理念が挑発されていると感じ、中国は『中国』という国家そのものが挑発されていると感じ、イスラムはイスラムの宗教原理が侵食されていると感じて」、悪循環の回路にはまり込んでいる、と。で、最大の問題は「諸国家の利益の対立」ではなく、「西洋啓蒙主義が生み出した歴史観によって作り出された『近代』をめぐる価値の対立」にあると「見ておくべき」だという■西洋の歴史観に翻弄されてきたのが明治維新から150年の日本近代史であり、そこからの脱却こそ日本の大いなる希望であると私は思う。神道日本に仏教、儒教、キリスト教などの外来宗教、思想が入ってきたが、江戸期まではなんとか凌いで、自前の思想的なるものを持してきた。だが、明治に入って科学技術の鎧を纏った西洋啓蒙主義の怒涛のような侵入の前に、日本はなすすべもなく降参してきた。そこから何とか超えるための思想、歴史観の確立を急ごうと私など考えてきた。佐伯さんは「現実的な選択肢として、ポツダム宣言の背後にある歴史観を俎上に挙げ、アメリカの政治信条というべき『近代主義』の普遍的歴史に対して、われわれの歴史観を打ち出すなどということが容易にできるとは思えない」というのだが、そうだろうか。いかに困難であっても、自前の歴史観を持ちたいと渇望する。この本を読んで改めて一層その思いを強めた。(2018・4・10)

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