遠い日に観た深作欣二監督の映画『仁義なき戦い』(原作・飯干晃一)は、筋書きもなにもかも忘却の彼方だが、強烈なインパクトだけは今に残っている。イタリア・マフィアを描いた『ゴッドファーザー』に勝るとも劣らない名(作だと、私は持ち上げることを憚らない。それに似た映画が5月半ばに公開されると知り、先に原作を読もうという気になった。柚月裕子『弧狼の血』である。2年半ほど前に刊行されているのに、全くその存在を知らずにきた。読み始めるや一気に嵌り込んでしまった。女の身でありながらとは言わないが、よくぞここまで警察、暴力団の世界をリアルに描けるものよ、とつくづく感心し続けながら読み進んだ■広島県呉原市(架空の町)が舞台。とくれば、もう広島弁が主役。暴力団といえば神戸とくるはずだが、関西弁は暴力の世界といまいちしっくりこない。『仁義なき戦い』での菅原文太らの言葉づかいが今も耳元に響く。警官で暴力団係長・大上章吾の描き方にはド迫力があり圧倒される。その大上の相棒となる新米刑事・日岡秀一とやくざとの乱闘シーンでいきなり幕が開けるが、ここから一気に引きずりこまれる。やくざそのものと見紛う先輩刑事と広島大出のインテリ若造という組み合わせは絶妙である。この小説はもちろん単なる暴力を描いたものではなく、推理小説仕立て。12の章ごとに冒頭に、日岡の書いた日誌が出てくるのだが、何故か黒い線で塗りつぶされている個所が数多く出てくる。ネタばらしは出来ないが、感のいい読み手なら、なぜ消されているか作者の意図がわかるかもしれない。■大上の人物像の描き方に絶妙な差配が窺えるのに比べて日岡はどうも線が弱いし、リアルさに欠けるという印象(これは最後に謎が解けるのだが)に苛まれる。警察官が暴力団と深く関わるなかで一線を越えてしまうという設定も、今によくあるパターンではある。アメリカ映画ではよく見受ける風景なのだが、現象面の一歩奥にある時代背景がよく見えないというのは気にかかる。『仁義なき戦い』は戦後の焼け野原の広島が舞台だけに、否が応でもあの大戦の傷跡が重なって見えた。それに比べてこの小説は歴史の背景がよく見えない。淡泊さが否めず、なにかもの足りなさが付き纏う。つまり、戦後70年余の時代を経ての広島でのヤクザ同士の争い、警察組織と暴力団の凌ぎ合いが小さくまとまって見えてしまう。つまり架空の場所での夢物語のように、である■映画は、役所広司と松坂桃李の二人がコンビで、他に江口洋介や真木よう子が出ているという。果たしていかがな出来栄えか。日本映画界の進展ぶりもうかがえるだけに注目されよう。『仁義なき戦い』では多くの脇役が個性的な光を放ち、金子信雄など未だに記憶に残る。大上の愛用したパナマ帽やジッポライターなど本の中で繰り返し登場する小道具が使われるのかどうか。今からワクワクしている。(2018・4・29)