(203)二流の現代日本を憂うー原田伊織『三流の維新 一流の江戸』を読む

原田伊織さんの「維新三部作」は実に読み応えがあった。いわゆる司馬史観なるものがいかに歴史の表層だけしかとらえていないか、ということを微に入り細にわたって解き明かしてくれた。加えて先の大戦以降の民主主義教育なるものも、戦前の全否定には熱心であっても、真に掘り起こすべき歴史の実相には刮目していないことを白日の下にさらけ出した。そこでは薩長土肥の4藩を主力にした明治政府を作った武士たちの横暴さと、徳川幕府を構成した幕僚たちの能力の高さが対比されるように浮き彫りになった。そこへ4作目になる『三流の維新、一流の江戸』が刊行された。前三作の背景をなす江戸期の持つ素晴らしさを描き出したものとして、それなりに面白い。ただ、4匹目のどぜうを狙った感があり、焼き直し的印象は否めない▲尤も、それは三部作の衝撃度が高かったがゆえであって、逆にそれらを読んでいない向きには却って新鮮かもしれぬ。この本をまず読んで、著者の意図の全体像を掴んでから、さかのぼって読み進めば、理解度は相当に進むかもしれない。それにしても原田さんの「維新像」はまだまだ少数派で、明治維新を絶対視する歴史観の根強さは現代日本を覆いつくしている。吉田松陰とその門下生たち、そして坂本竜馬、西郷隆盛らを崇め奉る向きは、彼らをテロリスト呼ばわりする原田さんに対して生理的嫌悪感すら抱きかねないのである。だがどういった分野であれ、私のようないわゆる定説を疑問視するへそ曲がりには、堪えられないほどの爽快感がある▼江戸時代の持つ凄さへの理解度は、前回に取り上げた『徳川が作った先進国日本』で明らかにされたように、かなり進んできている。しかし、私のような原田びいきが改めてこの本で認識を新たにしたことが幾つかある。一つはキリスト教の位置づけである。通常「隠れキリスタン」をめぐる悲惨なエピソードが物語るように、被害者としてのキリスト教徒たちというのが通り相場だ。しかし、九州では真逆にキリスタン大名による非信者たちへの迫害があったという事実は以外に知られていない。もう一つは、少し時代を経ての「廃仏毀釈」のすさまじさである。私など通り一遍に仏教もキリスト教と同じように迫害を受けた程度にしか理解していなかった。しかし、この本で、原田さんは「テロを繰り広げた薩摩長州人は、古来の仏教文化でさえ『外来』であるとして『排斥』した」としていることは改めて注目される。具体例として奈良興福寺や内山永久寺の惨状を紹介し、「仏教文化の殲滅運動」だとして糾弾していることは興味深い▼神道、仏教、儒教という日本における三大思想が、本格的なキリスト教の挑戦を受けたのは、信長、秀吉、家康の勃興した戦国時代末期であった。純粋な宗教次元では、江戸時代の260年の流れのなかで、キリスト教は日本社会に馴染まず、一たびは押し返されたかのように見える。しかし、維新における薩長の乱暴狼藉と「文明開化」の旗印のもとでの西洋文化への無批判な受け入れで、キリスト教はその姿を西洋思想(ギリシャ・ローマの哲学)の装いをまとって再び日本に入り込む。その結果、西洋に比べて、科学技術分野における日本の致命的な遅れは、思想分野においてまでも劣等意識を持たせるに至ったのである。原田さんの維新3部作プラスワンは、明治から150年を経た日本が何に気づくべきかを読むものに示唆してくれる。私たちは現代日本が二流、三流に甘んじることなく、一流の江戸期にまで迫るには、どうすればいいかを考えねばならない。キリスト教プラス西欧哲学という西洋思想などに勝るとも劣らない、日蓮仏法を基盤にした「現代日本思想」の確立こそ急がれる。(2017・3・28)

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