(295)ズバリ歴史を見抜く6つの観点ー井沢元彦『日本史真髄』を読む(上)

井沢元彦の『逆説の日本史』の最新刊(第24巻)のあとがきに、『日本史の真髄』を書いたので、「朝日(新聞)は日本の良識と信じ騙され続けてる人たちに」読んでみろと勧めて欲しい、とあった。全ての歴史学者を相手どって壮大な喧嘩を売り続けている元ジャーナリストにして歴史家。そのファンたる私としては読まないわけにいかない。早速読んだ。新味を期待したが、従来からのこの人の主張の集大成で、いささか失望は禁じえなかった。尤も、復習としての意味はある。ここではこの人が独自に掲げる日本史を押さえる上での6つの観点を整理してみたい▼第一は、ケガレ忌避信仰。日本人は誰しもケガレを嫌がる。お箸、茶碗など家族であっても共用はしない。そして究極はケガレ=死。いくら厭っても死は必然。死を伴う行為としての武力行使や動物の皮処理を専門に取り扱う存在としての武士や革製造  職人。武士政権の誕生と「部落差別」問題の発生は通底している。つまり、普通の人が嫌がることを専門にする存在は、ケガレ忌避信仰によって支えられているのだ▼第二は、「和」の精神。聖徳太子の17か条の憲法は、話し合い絶対主義をまず第一に説いている。続いて仏教、そして三に天皇と、敬われるべきものが続き、最後の十七条で再び話し合いの重要性が説かれている。つまり、協調に基づく「和」こそ古代から今に続く日本の精神であり、それは明治新政府の五箇条のご誓文にも盛り込まれた。そして先の大戦での「一億総懺悔」から、今の企業における「稟議書」に至るまで、「みんなの責任」という形をとることが至上命題になっている。そこでのキーワードは「和」なのである▼第三は、怨霊信仰。「雲太・和二・京三」ー古代日本の三大建築物である出雲大社、奈良東大寺の大仏殿、京都の大極殿を簡略化してこう呼ぶ。平安中期の『口遊(くちずさみ)』の記述から、オオクニヌシという敗者が祀られた出雲大社の位置づけを怨霊信仰に基づく鎮魂とみた井沢。「徳」の字がついた6人の天皇がいずれも不幸な死に方だったことの背景と、それゆえの鎮魂のありようを次々と暴く。究極は崇徳天皇を巡る悲惨な顛末。藤原氏によって没落させられたものへの鎮魂としての六歌仙。菅原道真の秘話や源氏物語や平家物語が書かれた秘密等、いずれも息を呑むほど興味深い話ばかり。わかりやすくて、面白いことこの上ないが、これこそが歴史学者たちが井沢を遠ざける所以なのだろう。(以下、次回に続く=2019-2-6)

 

 

 

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