(310)若者の自殺願望と足尾銅山事件が背後にー夏目漱石『坑夫』を読む

「漱石全集」(岩波書店版)も読み進めて第5巻になった。ここでは『坑夫』と『三四郎』がセットとなっており、学校時代に突然に授業が休講になったように、嬉しい気分に浸れた。『三四郎』はこれまで、二度ほど読んでいるので、今回は読まずとも済むからだ。これまでの長い間、『坑夫』には手をつけないできた。ようやく一気に読んだ。前回いささか手を焼いてしまった『虞美人草』や、漱石の青春ものの決定版『三四郎』と違って、さらっと読めた。これが書かれた明治40年あたりというと、世に有名な「足尾銅山事件」があった。その背景をリアルに描いたものとしても印象深い▼「さっきから松原を通ってるんだが、松原と云ふものは絵で見たよりも余っ程長いもんだ」と始まる絵画的な書き出し。ポン引きと出くわした主人公が銅山へと連れて行かれる奇妙な道のり。世を儚み、家出をして死に場所を探す19歳の男がズルズルと、この世の地獄に嵌り込んでいく過程は妙に惹きつけられる。地獄には通常通りの鬼がいて壮絶な苦痛を味わう。だが、思わぬ仏にも出くわして生きる意欲に覚醒する場面には心打たれる。明治36年5月に栃木県日光山中の華厳の滝に投身自殺したかの有名な藤村操は、漱石の教え子だった。当時の社会的背景に対する漱石の厳しい思いも伝わってくる▼若者が安易に選ぶ死に対して、漱石はこの小説を通じて教え諭したとの側面はあろうが、注目されるのはさりげなく盛り込まれた次のくだりだ(十八節)。「寝ると急に時間が無くなっちまう。だから時間の経過が苦痛になるものは寝るに限る。死んでも恐らく同じ事だろう」ーしかし、死ぬのは難しい。「凡人は死ぬ代りに睡眠で間に合せて置く方が軽便である」ー確かにそうだ。しかし、そんなことで間に合わない場合はどうする。「本当に煩悶を忘れる為には矢張り本当に死ななくっては駄目だ。但し煩悶がなくなった時分には、又生き返り度くなるに極ってるから、正直な理想を云ふと、死んだり生きたり互違にするのが一番よろしい」ー冗談ではない。死ぬほどの目にあってこそ生への思いも募ってくると云いたいのだろう。更に、人は溺れかかった瞬間に過去の一生を思い起こすとの挿話を述べたところも興味深い。走馬灯のごときものを見て初めて「自分の実世界に於ける立場と境遇を自覚したのである。自覚すると同時に、急に厭な心持になった」ーここは痛烈に我が身に堪える。今私は「回顧録」をHPに書いているが、実はこの「自覚」から始まっているからだ。但し「厭な心持」は書いてるうちにおさまった▼『坑夫』を巡っても、例によって『漱石激読』を開いてみる。石原千秋と小森陽一両氏は、『坑夫』は「坑夫にならない過程を過度に描写した小説」で、「意味の引き延ばし」をしていると云う。それは、「『虞美人草』において最後に意味を収斂させることに失敗した漱石にとって、ぜひやらなければならないプロセス」であり、それを「書いたから『虞美人草』の失敗から立ち直れた」と。新聞小説として、「それぞれの日の終わり方が、翌日に関心をつなぐ技としてもいちいちみごとなのです」と、小説の区切り方を体得し、連載の技術を学んだ漱石を称えている。更に、面白いのは、石原が『婦人の側面』という正岡芸陽の明治34年の文章を引用しているところ。「女は到底一個のミステリーなり。それいずれの方面より見ると、女は矛盾の動物なり」と。「矛盾」という表現が『坑夫』に頻繁に出てくるのは、「時代の言葉」ゆえと分かったと気づいた、と。「漱石が『三四郎』以降、女性を男性にとって「謎」の存在、つまり「矛盾」と書くのは『坑夫』があったから」だとも。要するに、『坑夫』は、「男に託して女を書いた」のであり、「漱石的『土佐日記』」であって、それだからこそ、『三四郎』における美禰子が書けたんだと、まで。評論家とは何だか偉いもんだと思わせられる。改めて『坑夫』の位置付けを納得するに至った。(2019-5-11)

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