第一巻から読み進めてきた漱石全集も第6巻となった。『それから』である。漱石の小説のタイトルは凝ったものや単なる思いつきのものなど、色々とあるが、これは動的な印象を与えるだけ良い部類に属すると思われる。『三四郎』から『門』に至る漱石の前期三部作の中間に位置するもので、さあ、それからどうなるのかって、発表当時には新聞小説の読者に期待を抱かせたに違いない。男女の出会いから始まって別れに至るまでの種々の類型を描いたものとして、興味深く読める。ここでは『それから』に見る、漱石文学と村上春樹文学との類似性やら異質性などほんのチョッピリ感じたままを述べてみたい▼まず、この小説のあらすじを超戯画化的に要約する。主人公(代助)は、友人に自分が好きだった女性を斡旋して結婚させてしまう。ところがその二人の仲が良くないと見るや、かつての自分の思いを復活させ、その女性に言い寄る。彼女もこれを受け入れる。という筋立てを知った友人は主人公の父親にその非を訴える。30歳を越えて結婚をしない息子に業を煮やしていた親父はその理由を知って激怒し、勘当してしまう。生活の全てを委ねていた父親に見捨てられ、主人公は波のまにまに漂う。およそ乱暴なまとめだが、この間に重要なファクターとして彼女の心臓病という患いが厳然とした位置を占める▼こうした出来事は私たちの周りにも散見されるのではないか。尤も、二人の仲が悪くなることや、不幸を期待しながら、期待ハズレに終わったり、あるいは、言い寄ったところで、受け入れられずに終わるなどといったケースが多い。わたしは最近、村上春樹の小説を時に応じて繙く。100年の歳月を隔てて、漱石と春樹というそれぞれの時代の寵児の小説作法の違いや類似性に思いを寄せてみるのは面白い。この二人の作家、描くところの主人公の人間の佇まいが極めて似通っていることに驚く。風来坊というべきか、全く呑気な自由人が描かれる。「何でも都合のよさそうな時間に出る汽車に乗って、其の汽車の持っていく所へ降りて、其所で明日迄暮らして、暮らしているうちに、又新しい運命が、自分を攫ひに来るのを待つ積であった」ーこういう主人公は春樹のものにも、いつも出てくる。先日取り上げた『騎士団長殺し』や、この間読み終えた『海辺のカフカ』などにも。明らかに春樹は漱石を意識していると私には思われる▼一方、違いといえば、漱石のものには出てくる処世訓じみた記述が春樹にはなく、ひたすら音楽や絵画など現代芸術や風俗に関する蘊蓄が披瀝されるばかり。そして男女の濡れ場が露骨な表現を持って直裁に語られるものと、比喩を通じて回りくどく、時に秘められたように語られるものとの違いも大きい。例によって、『漱石激読』では、「代助の性的な欲望も花に託されています」とか、「当時の内務省の検閲官に読み取れなかった性的な描写が漱石の小説にはものすごく繰り込まれている」と云った風に〝深読み〟が繰り出されて、ただただ圧倒される。それにつけても「心臓小説」であるとか、「植物小説」だとか云われると一体自分は何を読んだのだろうかと、自信喪失に陥ってしまう。(2019-8-6)