(343)どう生きてどう死ぬか、自戒の日々ー佐藤優の『希望の源泉 池田思想❷』を読む

池田先生の『法華経の智慧』全6巻を読むキリスト者・佐藤優さんの知的営みは、大変に得難い。このところ、『世界宗教の条件とは何か』を読み終え、さらに毎週連載されている週刊誌『アエラ』の「池田大作研究 世界宗教への道を追う」を楽しみにしているものにとって、『希望の源泉 池田思想』は〝古典〟に挑む趣きが漂う。私が前回❶を書いたのが2月5日だから、いらい一ヶ月半。今度は❷を取り上げたい。まず、私の創価学会入信いらいの持論である「円型組織論」について。佐藤さんは、この本の中で、「学会の組織は、ヒエラルキー型、ピラミッド状の組織ではなく、『リゾーム(地下茎)型組織』なんですね。つまり、一つの価値観に基づいて多方向に伸びていくヨコのネットワークです。そして、そのネットワークのいわば〝基礎単位〟の一つが、それぞれの地元組織で行われる座談会であるわけです」という。恥ずかしながら、リゾーム型とは全く思いもしなかった。私はこの50年余り、自分が思いついた「円型」にこだわり続けてきた。座談会に結びつける発想もなかった。方向は間違いないものの、表現のありようにおいて佐藤さんに遠く及ばないなあというのが実感である▲ついで、第6章の「国難の時代に脚光を浴びる日蓮思想」(11章の「死生観」のくだりも関連)について。過去の日本において、田中智学や井上日昭(戦前の右翼集団「血盟団」)らのように国家主義と結びついた日蓮信徒の悪しき実例を挙げて、「日蓮思想に正しく光が当たることを願いたい」と強調している。かつて私が公明党広報局長であった頃、新聞記者諸氏としばしば懇談した。談たまたま宗教論に及び、ある記者から「どうして日蓮仏法というのは、過激なナショナリズムと結びつくのですかねぇ。今の創価学会を見てるとそんなことには繋がらないのですが、日本史を見ると、どうしてもねぇ」といった問いかけに直面した。私は、その時に「日蓮を敬う(うやまう)とも悪しく敬わば国滅ぶべし」との一節を挙げて、アプローチの仕方で誤れる方向性に傾きやすいことを日蓮自身が見抜いていたことを述べた。佐藤さんは、「国家主義と結びついたゆがんだ奉じ方であれば、生命軽視の方向に暴走してしまう場合はあります」としたうえで、「創価学会は『生命こそ宝塔』という宗教だから、生命軽視には決してつながらない」と断言している▲全編に漲る日蓮仏法、池田思想への正確無比の認識には驚嘆するばかり。それを認めた上で、二つほど、私の問題意識からの拙いこだわりを提起したい。一つは、「与党化」ということについて。佐藤さんは205頁で、北朝鮮の核兵器開発について、「公明党が与党であることの意義の大きさを痛感する」としている。更に「自民党単独政権であったら、もっと米朝対立を煽る方向に日本は進む可能性があった」とも。私は言わずもがなのことだが、この「与党化」は「自民党化」ではないことを強調しておきたい。自民党が未来永劫与党であることはあり得ず、いつなんどき違う政党が自民党に代わりうる存在になるかもしれない。民主主義が政権交代可能な政治的仕組みを用意するものだけに、その辺りの思い違いを自戒しておきたいと思う▲最後にもう一つ。「死生観」について。日蓮仏法を信奉する者が「生も歓喜、死も歓喜」(池田先生の米ハーバード大での講演)との言葉に象徴される死生観に立っている、として佐藤さんは評価(210頁から214頁)している。「死を忌み嫌わない姿勢」が毎日を生き生きと生きる姿に直結しており、「死を恐れずに真正面から向き合う姿勢」が、死の恐怖というものの克服という古来からの宗教の課題に確かな答えを提供しているのではないか、と。これこそ、入信いらいの私の命題であった。55年経って、この「姿勢」を不動のものにしているのかどうか。それこそ毎日のように問い続けている。(2020-3-25)

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