(118)知らぬことばかりの自分の体について ー 笹山雄一『人体探求の歴史』

(118)還暦を過ぎてから、「60の足習い」とばかりに、ジョギングに精をだすなど健康には十二分に気配りをしているものの、時に容赦なく病魔は襲いかかってくる。青春の真っただ中で肺結核を患ったことがある私は、体についてひときわ関心を持ってきた。この猛暑の夏、笹山雄一『人体探求の歴史』を読み、心底から啓発された。死ぬまで付き合うわが体の仕組みについて、いかに自分が無知であったかが改めて解り、遅ればせながらの探求心がわいてきた。このうえなく役立つ面白い本との出会いに、興奮は冷めやらない。「眼」から始まって「耳」「鼻」「心臓」と続き、「肛門」「精巣」「卵巣」まで15の器官を微に入り細にわたり、特徴や役割を解説し、不調への対応を様々なエピソードを交えて示してくれる。まともに読むと決して読みやすいとは言えないが、よく注意を凝らして読み進めると、思わぬ宝に出くわす。老爺心ながら、この本も前から読むよりも後の「肛門」あたりから入った方がいいですよと言っておきたい▼勿論、ひとの興味のありようは様々。だが、「同病相憐れむ」傾向は万国、万民共通に違いない。痔ろうだったらしい夏目漱石が弟子・小宮豊隆への手紙に「御尻は最後の治療にて」「僕の手術は、乃木大将の自殺と同じ位の苦しみあるものとご承知ありて、崇高なるご同情を賜度候」とある。これを「ふざけて書いている」と見るよりも、哀れが先立ってしまう。「文豪とて、よほど辛かったとみえて、手術七日目に、『切口に冷やかな風の厠より』という句を読んでいる」のには、笑いをこらえて、さすが俳人と称賛したい。「精巣」ではつい先ごろの「切り取り」事件に思いが及び、わがペニスや睾丸が愛おしくなる。中国の宦官にまつわる去勢の実態やら、なぜ日本にはその習慣がなかったのかなどの記述は興味深い。尾籠な話ばかり紹介していては、私の品性が疑われかねない。「有名人の結核とその周辺」のくだりでは、樋口一葉、石川啄木、沖田総司、正岡子規ら「枚挙に暇が無い」と言いながらあれこれ取り上げられていて、知的好奇心がとめどなく湧いてくる。勿論、さりげない病への具体的対処も忘れてはいない。「糖尿病を予防するには、老化を感じる前から、運動するよう心がけることが肝要である」との記述には、わが意を得たりとなった▼本の性質上、杉田玄白が83歳で書き残した『蘭学事始』に関する引用が少なくない。その玄白の『解体新書』を「如何にして出版されるに至ったかは、『冬の鷹』吉村昭に詳しい。胸躍る作品である」と紹介しているのも、読んだものとして大いに共感する。一方、「胃カメラの考案者は日本人」において、その経緯は、「吉村昭氏が書いた『光る壁画』に詳しい」「ぜひ、一読をお勧めする」となっている。これには、すぐ注文したくなってしまう。次から次へとこんな調子。実に体躍り、心騒ぐ本である。一読ならず数読をお勧めする▼私の父は78歳で亡くなった。晩年、両の手のひらの皮膚が捩れたり引きつって困る、これはどうしてか、とよく云っていたものだ。当時は、へーぇといって眼を向けても、それ以上の関心は無かった。ところが、あれから30年ほどが経って、まったく同じ症状がわが手のひらにも現れてきた。遺伝だ。痛いわけではないものの、脂肪の小さな塊のようなものがあちこちから盛り上がって膨らみ、気持ちは穏やかではない。当初は、長年の労働の結果ゆえの勲章か、などと高をくくっていた。整形外科に行くと、デュピュイトラン拘縮という診たてだった。「これ以上酷くなると、手術が必要になってきますね。そうなる前にやりますか」と。冗談じゃない。手のひらを切り刻まれてはたまらない。糖尿病患者に良く見られる症状だというが、因果関係は未だ医学的に分かっていないようだ。かの石川啄木が貧乏な暮らしのなかでじっと手を見た心境と比べるべくもないが、死んだ親父にだんだん似てくる自分に思わず苦笑いせざるを得ない。(2015・8・26)

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