【136】森と熊と光と海とー貝原俊民さんの追悼文集『惜福』に寄せて

昭和61年から4期15年の間、兵庫県知事だった貝原俊民さんが不慮の事故で亡くなってより一年余りが経ちました。このほど『惜福』というタイトルで追悼集が発刊されました。彼の生前中にゆかりのあった313人の人々による文章が収められています。私もその一人として参加させていただいたので、その文章をそのまま転載させていただきます。

知事をひかれた後の貝原さんと私は、ひとつだけ同じ肩書を持っていました。それは西宮市に本部を置く自然環境保護団体「日本熊森協会」(森山まり子会長)の顧問という立場です。私が衆議院議員に初当選したのは1993年7月。ちょうどその年の三月に尼崎市立武庫東中学の理科の教師だった森山さんと、その教え子たち有志が貝原県知事に「ツキノワグマを絶滅から守って欲しい」と訴えました。
貝原さんは生態学視点から、ことの重要性を理解され、ツキノワグマの保護に向けての努力を約束されました。当時は中学生で、今は弁護士となっている同会の副会長を務める室谷悠子さんは、その時の喜びを今なお生々しく覚えているといいます。
明治維新いらい、日本はヨーロッパ文明をしゃにむに受け入れ、科学技術分野での遅れを必死に挽回し、追いつこうとしてきました。その結果としてこの150年ほどの間、外来の思想、文化を日本風に変容させるという伝統的な手法が忘れられてきた傾向は否めません。今、その弊害がいたるところで噴出してきています。ツキノワグマが人里に下りてくるのは奥山が荒廃している予兆であり、森が悲鳴をあげているシグナルとも言えます。人間最優先の考え方で、自然や野生動物を支配しようとするのはキリスト教を中軸とした悪しき文明のなせる業です。人と自然の共生こそ日本本来のものとする考え方を貝原さんと私たちは共有していました。本当に心優しい、得難いリーダーでした。
今、私は、瀬戸内海に世界の観光客を呼び寄せる構想の具体化に、万葉学者の中西進先生や井戸敏三兵庫県知事らと連携しながら取り組んでいます。淡路島と関西国際空港との結びつきの強化を皮切りに、光溢れる瀬戸内海へのクルーズに夢を羽ばたかせています。その時に、かつて淡路島に夢舞台なるものを作られ、2000年に「淡路花博」を開催することを企画・立案された貝原さんの遠謀深慮というものが突然、理解できました。
西播磨の一角に世界一の放射光施設を誘致されて、壮大な科学公園都市を作られたのも貝原さんでした。現職時代の私は常にその構想の壮大さに感心し、支援を心がけたものです。引退した今は、瀬戸内海の東の入り口に横たわる”くにうみの島”を観光振興の一大拠点にしようとされた貝原さんの深い思いに魅入られています。今も昔も、これからも自分は森と熊と光と海を大辞された貝原さんと一緒にいるのだとの思いにとらわれているのです。(一般社団法人 地域政策研究会 発行『惜福 追悼 貝原俊民さん』)

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