【191】①-1 人生勝利の因は反復にありー中嶋嶺雄著作選集➇『教養と人生』

◆「忙中楽あり」と「忙中本あり」と

 中嶋嶺雄──私にとってこのうえなく巨大で近寄りがたく、かつ優しく身近な存在だった。この矛盾した位置に20代前半から60代半ばまで、ずっと中嶋先生は私の傍にあった。『現代中国論』を引っ提げて華々しく論壇に登場されたときの先生は未だ20代後半。その少し後の慶應義塾での非常勤講師としての講義は、ひよっこに過ぎなかった私には衝撃の連続であった。先生の「中国文化大革命批判」の重みは、ある意味で我が人生の色合いを決定づけたともいえる。先年亡くなられた直後に発刊された中嶋嶺雄著作選集第八巻『教養と人生』を読んで改めてこの人物の凄さを思い知るに至った。真面目に人生を考える青年たちすべてにこの本を読んで貰いたいと心底思う。

 私は単行本で中嶋先生の著作は殆どすべて読んできた。中国論それも初期の頃のものは、仰ぎ見る存在としての先生を彷彿とさせるものばかり。一方、この選集第8巻に登場する『リヴォフのオペラ座』や『オンフルールの波止場にて』などの文章はどこまでも優しい先生を、ひたすら漂わせるものが多い。尤も、私はかつてピアノ奏者を志した妻や、絵画に造詣の深かった義父を持ちながら、一向に芸術の道には開眼し得ていない。それゆえ、どこまで理解を深めることが出来たかどうか大いに疑問ではあるが‥‥。だからこそというべきか、この巻の編集を担当されたご次男の中嶋聖雄さんの解説に大いなる興味が募った。先生の東京・板橋区のご自宅にも伺ったことがあり、奥様とも幾度かお話をしたことはあるものの、ご子息たちとはこれまでご縁がなかっただけになおさらだ。

 この本での読みどころは、人間存在の基底部は、繰り返しによって形成されるということ、だと思われる。ご自身のヴァイオリン演奏における暗譜。語学習得における暗誦、繰り返しの重要性。このあたりについて触れられたくだりは示唆に富んでいて極めて興味深い。中国論については私は蟷螂の斧のように、身の程知らずに先生に体当たりを繰り返してきた。しかし、流石に音楽論には太刀打ちどころか、立ち向かって太刀を合わせることすらできなかった。忙しい最中に音楽を聴いたり演奏をされたりした先生が「忙中楽あり」と口にされている。これには「忙中本あり」なる言い回しを専らにし、実際に自著のタイトルに用いた人間としてニヤリとするのが精いっぱいなのである。

◆「父・中嶋嶺雄から学んだ」4つの教え

 聖雄さんが、「父、中嶋嶺雄から学んだこと」との一文の結論に四つ挙げている。第一に、自分の考えを文章として残し、発表すること。第二に物事を常識的に考えること。第三に個性的でありながら、協調的であること。第四に、国際的な公共性をめざすために国際人たりうるためにこそ、自らが生まれ育った土地や環境に根付いたアイデンティティを持つことの重要性である、と。実は私もこの四つは先生から教えて頂いた。何れも中途半端は否めないが、耳朶に残って離れない。

 最末尾に、父上の死が絶望すら抱かせる壮烈なものであったことに触れ、「落ち込んだ時、もう駄目だと思ってはいけない。自己否定をしてはいけない。そこには新しい選択が生まれる」との先生の言葉を引かれているのは強烈なインパクトを感じる。父上の死をきっかけに永住権まで取られていたアメリカから帰国し、「現代中国」を研究するという「新しい選択」をされたのだから。

 彼が早稲田大学アジア太平洋研究所教授として「アジアにおけるクリエイティブ産業」などの授業を担当する一方、現代中国映画産業における英文著書を執筆されてきたと知って驚いた。実は私は、北京電影学院客員教授の榎田竜路さんと親交を深めているからだ。彼は、中国の若者に映像制作などを講義する一方、日本の若者たちに認知開発力を培うなかで、地域の真の意味での再生を図るという壮大な試みに取り組んでいる。聖雄さんが目指す分野との関連性に思いをいたし、早速おふたりの間を取り持ったことも懐かしい。改めて中嶋先生との深い縁を感じて、ひとり感じ入ったしだいなのである。

【他生のご縁 「外交安保も大事だけど、教育だよ」との励まし】

 中嶋嶺雄先生とのご縁については、学者と政治家の私的勉強会の『新学而会』始め数多くあります。市川雄一元公明党書記長との関係もまた深く、3人でいくたびもご一緒しました。台湾での「アジア・オープンフォーラム」への参加や東京外語大学長の頃にキャンパスを自ら案内していただいたことなど忘れられません。

 さらに、私の処女作『忙中本あり』の出版記念会の呼びかけ人代表を務めていただいたことも。本の帯に推薦の言葉を寄せていただき、「傑作だ」と週刊誌のコラム上でも持ち上げてくださったことも懐かしい思い出です。

 秋田国際教養大学の創設に深く関わられた先生は、同大学でのシンポジウムに招いて頂きました。晩年にしばしば「外交・安保も大事だけど、『教育』だよ。君もそろそろ取り組んだ方がいいね」と強調されたことが耳朶に今も残っています。同大学の行く末を気にされながら、逝かれたことは返す返すも無念なことでした。

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