(223)好奇心で溢れかえる美術館ー中野京子『怖い絵』を読む

怖いもの見たさに「怖い絵」展に行ってきた。お盆明けの17日に。夏休み只中とあって、好奇心旺盛な子どもたちと大人たちとで兵庫県立美術館はいっぱい。まず、会場入り口の入場券売り場前が長蛇の列。普通はまずこれで怖い思いをするところだが、当方は、学芸員の資格を持ちこの美術館でボランティアで解説をしている友人のお蔭もあってフリーパス。しかし、場内は想像通り、溢れかえるひとの肩と頭とで、肝心の絵はまともに見えない。じっくり見るのは諦めて、人だかりの少ない絵を見定めてのつまみ食いをするほかなかった。美術館の展示物はなぜ、こうも位置が低いのか。もうあと10センチほどでいいからどうして上に飾らないのか。空白の上層部の壁を見やりながらぼやくことしきりであった▼この絵画展の監修は、怖い絵を語らせて右にでるものはいないと思われる中野京子さん。これまでこの手の本をたくさん出している。文字通り題名そのものの『怖い絵』1~3を私はかねて購入し、読むというよりは折に触れて眺めてきた。今回のことをきっかけに、掲げられている絵に関する記述を再読してみた。まずは、ポーラ・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』。これは何度見ても怖いというか、痛々しい。目隠しをされた可憐な白い肌をした美しく若い女性が、太い鉈で斬首される直前の姿。泣き叫ぶ侍女と介添え役の僧侶と首切り役の男。ああ、嫌だ。中野さんは「当時は斬首は高貴な死であり、絞首されるのは下々の者であった」とさりげない。「せめて女性は別のやり方で」と願う現代人の感覚の間違いを指摘しながら、斬首が一回で成功せずに、何回も何回も繰り返す下手な執行人のケースを淡々と記しているのは怖いの通り越して残酷そのものだ▼次は、ウイリアム・ホガース『ジン横丁』と『ビール街』。かたや、荒廃した吹き溜まりの貧民街で安酒のジンをあおって正体不明になっている人々がひしめき合う。もう一方は、ジョッキ片手にビール腹をさすりながら、女を口説く男たちや仕事に励み絵作に打ち込む姿。この作者は、「羅列の快楽」ともいうべき、絵の中に幾重にも描かれた細部を発見する楽しみを披露する。この場合、ジン横丁がいかに地獄の様であるかを、中野さんは克明に、書き連ねる。ジンでごまかすしかない、落ちぶれてやつれきった女や男の姿の一方で、この時代状況の中で、景気がいいとされる質屋、酒屋、葬儀屋の三職種の有様を丁寧に描く。孫と一緒に見る絵本の「間違い探し」に取り組んでいるかのような錯覚に陥るのはご愛嬌だ▼次はヘンリー・フュースリ『夢魔』。艶めかしい姿で眠りこける女体の上に坐る化け物とカーテンの裾から顔を出す馬。この絵の解説で、中野さんは「眠りはある意味、こま切れの死だ。夜がその黒々とした翼を拡げるたび、幾度も幾度も自我を完全喪失しなくてはならない」と、眠りの持つ恐怖の一面を、妖しくエロティックに表現して強烈なインパクトをもたらす。最近、私も歳を重ねると共に、夜中に目覚めることが多い。「こま切れの死」という表現は実感として身につまされ怖さをそそる。一方、怖い絵展における解説を家で読み直すにつけても、美術館で見ていた子どもたちはどう感じたのか、と気になってしまう。子どもに読ませたくないくだりもあり、そちらの方が親にとっては怖かったかも、と想像してしまう。一緒にいった友人はそういう心配をする私に「近頃の子どもは俺たちの頃よりよほど早熟だから、あまり気にせずともいいのでは」というのだが、さてどうだろうか。(2017・8・18)

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