神道プラス朱子学の害毒の怖さー井沢元彦『逆説の日本史23 明治揺籃編』を読む

俗っぽい週刊誌に連載されたものが単行本になり、そして文庫本になって25年以上が経つ。通常の歴史家をこき下ろし、大胆な自説を展開するが故にその道のプロからは疎んぜられるものの、声なき声の大衆からはわかりやすく面白いと絶賛される。『逆説の日本史』シリーズの著者・井沢元彦氏はまだ64歳。去年の10月に発刊された23巻が「明治揺籃期」を扱っているので、もうすぐ24巻がでてこようが、一体いつまで続くのか。購入後一年足らずほおっていたものをこの程読み終えた。ひときわ異彩を放つものとして強く印象に残る■全部で3章構成。一つ目は、近現代史を考察するための序論と銘打って「近現代史を歪める人々」の名のもとに、徹底的に対象著名人をこき下ろしている。朝日新聞の元社長・木村伊量、主筆・若宮啓文、そしてTBSの筑紫哲也らをめった斬り。この辺りはもはや「定説」ともいえ、彼らに弁護される余地はない。ただ、半藤一利を褒めつつ斬りつけているあたりは、異論を唱える向きもあるかもしれぬ。ともあれ、改めてこの章を読むと「またぁ」と、いささか辟易する。ただ、このように整理して提示されると役立つに違いない。ともあれ、このシリーズを読み慣れているものからすると、おさらい連続の感が強い。興味深いのは二つ目から。「大日本帝国の構築」1で、琉球処分、2で廃仏毀釈のテーマを取りげており、この二つの章はとびきり面白く、勉強になる■「琉球」と「沖縄」の名称はどちらが古いか。当然、琉球が古いと思っていたが、意外にも見解は分かれるという。断定はされていない。また、琉球人(沖縄人)のアイデンティティは日本に近いとの見解にも少なからぬ驚きが私にはある。中国に近いのでは、との思い込みがあったからだ。例えば、日本は、大和、アイヌと琉球という三つの民族から成り立つとの説を私は信じているが、先日、「博覧強記の人」と言われるらしい防衛省新事務次官の高橋憲一と懇談した際に、彼からは否定された。琉球民族はない、と。この辺り、研究の余地がわたしにはあるように思われるが。ついでに言うと、佐藤優の「琉球独立論」を巡っても、彼と私の意見は分かれた。かねて国会の場でも、「このままいけば沖縄は独立するしかないとの立場に立って、日本政府を脅かせ」との論法を披瀝していた私は、佐藤説に賛成。しかし、勿論のことながら次官は否定。その際に、かつて佐藤が普天間基地の移設問題で、「最低でも県外」との鳩山由紀夫説を擁護し、のちに自らの不明を恥じたことを持ち出した。信用するに足り得ない人物だと言わんばかりだった。要するに、リアルに欠けるというわけである。勿論それは認めるが、外交の極論的手法として捨てがたい魅力があろう。ともあれ、こうした沖縄をめぐる現在の課題を考える上で、この章における琉球処分の歴史的経緯を押さえておく必要があることを痛感した■最後の章「廃仏毀釈と宗教の整備」は、盲点を突かれた。明治維新に際して、新政府首脳はキリスト教の日本への進出を恐れて、自らの寄ってたつ基盤としての宗教強化を目論んだ。つまり、神道と仏教の混合体としての日本教を整備しないと、欧米列強には勝てない、というわけである。そこで、「神仏分離令」のもとに仏教を排し、神道と朱子学の「混合体」を樹立したという。朱子学の害毒を、手を変え品を替えて訴え続ける著者の執念たるや半端ではない。孔子、孟子のような初期儒教の先達と違って、後期のそれである朱子がいかに国家組織体をダメにするものかを強調。具体例としての韓国、北朝鮮の無残さを事細かに挙げている。中国も清王朝の没落に寄与し、漸く共産中国になって薄らいできた、と。日本も徳川時代から明治期にかけてその毒が深く入ったとの説明には実に迫真性がある。「朱子学の独善性、排他性に影響され猖獗をきわめた『廃仏毀釈運動』」の実例として、鹿児島には国宝、重要文化財クラスの仏像や寺院が皆無なことを克明に記している。併せて古都奈良にも吹き荒れた「廃仏毀釈」の嵐などの記述も目からウロコが落ちる。仏教を排し、朱子学を神道と組み合わせる形で宗教を整備する一方、欧米の科学技術を懸命に取り入れた。その結果としての近代化はいびつな形で進み、軍事国家としては肥大化したものの、精神的骨格に禍根を残すに至った。敗戦後には神道プラス朱子学に代わって、キリスト教に裏打ちされた欧米民主主義の独壇場となることを許してしまったのである。この本を通じて、日本史においても朱子学の果たした役割がいかに大きいかを、思い知った。(敬称略=2018-9-10)

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