「迷残執」との戦いの果てにーやました ひでこ『断捨離』を読む

10年前に出版され話題を集めた本ー私が所帯を持ってから7度目の今回の引っ越しにあたり、まさに「忙中本あり」を地で行くように片付け作業の合間に読んだ。著者によると、「断捨離」の定義とは、以下のようになる。片付けを通じて「見える世界」から「見えない世界」に働きかけていく。そのためにとる行動とは、「断」=入ってくる要らないモノを断つ 、捨=家にはびこるガラクタを捨てる 。その結果、訪れる状態は 離=モノへの執着から離れ、ゆとりのある〝自在〟の空間にいる私、だと。だが、これほど云うは易く行うは難しいことはない。結局は、これまで、いつも「迷残執」に終わってきた。捨てることに迷い、古いものへの執着から逃れられないのである。今回は何とか、と思ったが、部分的に成功したものの、全体的には未だしの感が強い▼一軒家からマンションへというのは今回が初めて。広さは一気に半分くらいになるので、まずは問答無用に荷物を半減させるしかない。これまで、引越しのたびに整理はしてきたものの、段ボール箱に詰めたまま開きもせずに、物置にいれていたものを全部点検するしかなかった。アルバムやら昔から捨てきれないで持ち越してきた荷物がゴッソリと出てきた。全てそのまんま捨てることを決断したが、アルバムだけはそうもいかず、結局大部分はまたも次のところへ運び込むことになってしまった。お皿やグラスなど山のような台所用品の数々は捨てたが、つくづくと、「断捨離」とは、「もったいなさ」と、「懐かしさ」との勝負であると思った。本に書かれているようにはとてもいかない。大袈裟ながら価値観の崩壊さえ実感せざるを得なかった▼最大の難物は、書籍をどうするかという問題だった。議員を辞めるときに、議員会館や地元の事務所、そして議員宿舎に置いていた20年間に溜め込んだ本のほぼ全てを、党の政調スタッフ、秘書メンバー、衆議院の各委員会事務局や調査室のスタッフ、各省庁の担当スタッフたちに持って行って貰った。それでも、家の書斎にはまだ三千冊に迫る蔵書があった。いずれも手放し難い昔馴染みのものばかり。考えた挙句、親しい友人たちや我が姉弟、その子どもたちにアットランダムに選んで送り届けた。さらに、外交安保関連の専門書の類は、参議院議員に初当選した高橋光男氏に、憲法、経済、社会保障関連は伊藤孝江議員の神戸事務所に引き取って貰った。その数、合わせて千冊ほど。それでも千冊近くが残る。これについては自治会の公民館に2対の本立てと共に贈呈することにした。恐る恐る後任の自治会長に申し出たところ、快く受け入れをしていただくことになったのである。私の拙い「忙中本あり」の揮毫と共に、「赤松文庫」(プレート付き)がささやかながら実現したのは嬉しい限りであった▼かくして、手元には、まだ殆ど読んでいない「夏目漱石」、「山崎正和」、「高坂正堯」、「白洲正子」などの全集ものが残った。池田先生の全集のうち、手放せない重要なものと、日蓮大聖人の御書、法華経関係のものとともに、新しい住まいの押入れの中に(本箱はないので)ひっそりと積み込まれることになった。その数300冊ほど。かつて老後になったら読もうと買い込んだ本である。尊敬する先輩が先年膨大な蔵書をそのまんま残されて、鬼籍に入られたが、御夫人が呆然とされていたことを思い起こす。誰しも若き日からの蔵書を整理することには躊躇しがちだが、それだけは私はほぼ今回出来たように思われる。これだけは我ながら褒めてやりたい気がするのだが、いかがなものか。(2019-10-25)

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