心のきしみを察する「聞く耳」を持つこと(58)

哲学という学問分野との付き合いは長い。しかし、未だに私自身、要領をえない。そのくせ気になって、捨てきれない。まったく困ったものだ。世に存在する哲学者が総じて人への理解のさせ方が下手だからだと折り合いをつけて、納得しているというのが現状だ。そんななか気になる哲学者が鷲田清一さんだ。この人、大阪大学総長をされていた頃から注目はしていたが、まともにその著作は読んだことがなかった。昨年の暮れだったかに、ある新聞社恒例の「今年読んだベストスリー」なる企画で、かの山崎正和さん(劇作家にして文明評論家)が、この人のものばかり三冊推奨するという掟破りというか、破格の取り扱いをしていたにもかかわらず、である。しかし、カリスマ臨床心理士たる畏友・志村勝之君と話していて、鷲田さんがいかに凄いかを語るのを聞くに及んで,心は決まった▼『哲学の使い方』なる題名が気にいった。それに新書であることが嬉しい。というわけで、初めての挑戦を試みた。冒頭の「哲学の入口」から、わが”お口に合う”雰囲気が漂ってきた。「哲学をばかにすることこそ真に哲学することである」(パスカル)や、「哲学を学ぶことはできない。ひとはただ哲学することを学びうるのみだ」(カント)などという、一見わかりやすそうな表現が続く。だが、彼はそういう常にわかりやすさを求める私のような読者に忠告する。ひとは「わからないものをわからないままに放置していることに耐えられないから、わかりやすい物語にすぐ飛びつく」のだ、と。「目下のじぶんの関心とはさしあたって接点のないような思考や表現にもふれることが大事だ。じぶんのこれまでの関心にはなかった別の補助線を立てることで、より客観的な価値の遠近法をじぶんのなかに組み込むことが大事だ」とも言う。そんなこと百も承知で、それが出来ずに困ってるのだけど、とのわが内なる声が聞こえてくる▼ところで、鷲田さんは臨床哲学なる分野を開拓した。その展開方法とはこうだ。まず、床に臥している人のところへ出向く医療者のように問題の渦中に出向く,フィールドワークが大事で、そこではまずあれこれ論じる前に「聴く」ことが必要になってくる、と説く。そして、「多義的なものを多義的なままにみるためには、みずからの専門的知見をいつでも棚上げできる用意がなければならない。いってみれば、哲学はある種の武装解除から始まる」と。このあたりは心理学と重なってこよう。今年の前半に私は友人たちとの対談を電子書籍にして出版した。そのうちの一冊、『この世は全て心理戦』(志村勝之君との対談)では、終始一貫して志村臨床心理士が聴くことの大事さを強調していた。聴けば自ずと問題の行く末は見えてくる、と言っていたものだ▼鷲田さんがつい先日神戸新聞の文化欄に『汀(みぎわ)にて』との小論を寄稿していたのを読んだ。「聴く耳をもたない人の言葉の応酬は、ほとんど石の投げ合い、刀剣による斬り合いを見るにひとしい」として、政治における言葉の劣化から説き起こし、大いに興味をそそられた。「聴く耳になりきる」ということは「口ごもりを聴くこと、つまりは言いたくても言葉が出てこない、そんな心のきしみを聴くということ」なのだと、その重要性を明かしていた。「苦しい体験ほど言葉にはしにくい。だから、語るに語れないことを、それでも相手が訥々と語り始めるまで待つということが『聴く』ことの第一の作法となる」のだという。実は、これも志村が同じことを言っていた。私のような、「聴く」ことが苦手で、ましてや相手の心のきしみをまったく察せぬまま、いつも待ちきれないで言葉を乱発するものには耳が痛い。かくのごとく『哲学の使い方』は日常的により関心の高い「心理学の使い方」とも類似の作法のように見え、大いに食指を動かされた次第である。(2014・10・27)

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