現代日本と現代中国、どっちが忘れものが多いか (16)

ソチの影のバリ島ー冬季五輪の日本人選手の活躍に一喜一憂しているさなか、日本人女性ダイバー7人の安否が気遣われた。事故発生4日目に20キロも漂流していたところを5人は救出されたのだが、残る2人のうち一人は遺体で発見。これを聞いた際に、先日読み終えた中西進さんの『日本人の忘れもの』を思い起こした。なぜか。中西さんは今から15年前に当時25歳だった娘さんを初秋の伊東の海で亡くしている。スキューバダイビング中だった。

その折のことを第一巻「おそれ」という文章に哀切をこめ、怒りを滲ませながら書いている。「自然へのおそれを忘れた現代人の遊び感覚」との副題をつけて。 最愛の娘を亡くすという絶望的な心情を抱えながら、山や海という自然へのおそれ、つつしみを持つべきことの大事さを説く。「自然に対するおそれを知らないチャレンジは、麻薬やエイズと同じようにこわい」のだから、山河を尊び、天地に祈りをささげてきた本来の日本人の姿を忘れるな、と。

実はこの本は、先日ご本人にお会いした時に「先生のご著作のうちで、一番お薦めの本は何でしょうか」との私の問いに、挙げて頂いたものである。こちらは万葉集に関するものを予想していたのに、意表を突かれた思いがした。もうずいぶんと前にこの本を購入していながら放置していたために、慌てて書棚から引っ張り出して、あらためて読むことにした。傲岸不遜にも常識的なことが書かれていると、見損なっていたのである。丹念に読み進めると、深い味わいのある本だということに気づいた。まことに早合点は怖い。

これは見事な「日本論」だ。そして素晴らしい日本を忘れた「現代日本人論」にもなっている。ご本人は、『徒然草』の吉田兼好や『枕草子』の清少納言を日本の名随筆、随筆家として褒め称えておられるが、この両人に決してひけを取らない抜群の随筆集だと太鼓判を押したい。見間違えていた己の未熟さを棚に上げて、決してお世辞でもなくそう思う。 雑誌「ウエッジ」で連載されたものだが、一つひとつが実に深い。忘れないようにアイパッドミニにメモをした。私としては初めての試みだ。

たとえば、「おやこ」では、家族における様々な問題には、”子ども大人の氾濫”という原因があるとされる。戦前の日本では、両親の役割分担がなされていた。父は子に道理を示し、母は子に滋をつくせとの孔子の教えが生きていた。この関係を胸と背中に言い換え、母は子を胸に抱きかかえ、父は子に背中を向けよ、と。言葉の本来の意味に立ち返って述べてくれる。「そもそも『義』という文字は『羊』と『我』からできている。羊は中国で最高の価値あるもので、義のある人間はもっとも価値ある『我』である。『義』に『言』をつけたものが『議』だから、会議とは会合してことばによって自分をつくることだ」という風に字源にさかのぼってくれているのだ。会議が持つこうした意味には気付かなかった。

「戦後の民主主義が儒教なんて古いときめてかかり、いっきょに親の立脚点をさらってしまった結果、父にしろ母にしろ、親子関係がうまくいかなくなった」との指摘は、戦後民主主義の申し子としての団塊世代は耳が痛かろう。今まで、様々な場面でこんな状況が続くと日本はダメになると思い、口にもしながら流されてきたすべての人々がこの本での中西さんの指摘を前に頭をたれるに違いない。

「いのち」では、「生きることと死ぬことをめぐる今日の考えかたは、むかしの考えとよほど違ってる」として、肉体のおわりを生命のおわりと捉えてしまう昨今の風潮を嘆く。「生と死の正しい関係は補完的でおたがいに領域を侵しあっている」と述べ、生死の基本を真正面から説く。そのような流れの中で気になるくだりに出くわした。

「なぜ現代人は肉体にこだわって肉体の消滅ばかりを気にするのか。肉体の若さを賛美し若さを価値とする社会ー現代日本社会はもっともその傾向が強いのだが、そんな社会は未熟な社会であり、中国のように老人を尊重する社会は成熟した文化をもつ」-ここはどう読んでも、現代日本を古い中国と比較しておられるのではないか。今の中国に成熟した文化の片鱗などうかがえることができようか。道徳的退廃があらゆる場面に浸透し、今や孫文を必要とした時代に、あるいは共産革命を求めた時代に、中国は逆行しているのではないかとの指摘も花盛りである。

伝統的な中国が成熟した文化を持っていたことは私も否定しない。しかし、現代日本が忘れ物を沢山してるとおっしゃるなら、現代中国はもっと沢山の忘れものをしてるのではないか。どうしてもこのあたりを、ご本人に直接確かめたいとの思いが募っていった。(続く)

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