◆直接訊いた「お勧めの本」
ロシア・ソチ冬季五輪の日本人選手の活躍に一喜一憂しているさなか、インドネシア・バリ島の日本人女性ダイバー7人の安否が気遣われた。五輪の話題についかき消されてしまいそうな事故だった。2014年のことだ。事故発生後4日目に20キロも漂流していたところを5人は救出されたのだが、残る2人のうち1人は遺体で発見。これを聞いた際に、少し前に読み終えた中西進さんの『日本人の忘れもの』を思い起こした。
中西さんは20年余り前に当時25歳だった娘さんを初秋の伊東の海で亡くしている。スキューバダイビング中だった。その折のことを『日本人の忘れもの』第一巻「おそれ」という文章に哀切をこめ、怒りを滲ませながら書いている。「自然へのおそれを忘れた現代人の遊び感覚」との副題をつけて。 最愛の娘を亡くすという絶望的な心情を抱えながら、山や海という自然へのおそれ、つつしみを持つべきことの大事さを説く。「自然に対するおそれを知らないチャレンジは、麻薬やエイズと同じようにこわい」のだから、山河を尊び、天地に祈りをささげてきた本来の日本人の姿を忘れるな、と。
実はこの本は、数年前に初めてご本人にお会いした時に「ご著作のうちで、一番お薦めの本は何でしょうか」との私の問いに、挙げて頂いたものである。万葉集に関するものではなかったので、意表を突かれた思いがした。慌てて書棚から引っ張り出して、あらためて読むことにした。丹念に読み進めると、深い味わいのある本だということに気づいた。まことに早合点は怖い。これは見事な「日本論」である。そして素晴らしい日本を忘れた「現代日本人論」にもなっている。ご本人は、『徒然草』の吉田兼好や『枕草子』の清少納言を日本の名随筆、随筆家として褒め称えておられるが、両人のものに決してひけを取らない抜群の随筆集だと太鼓判を押したい。雑誌「ウエッジ」で連載されたものだが、一つひとつが心に染み入る。忘れないように、座右の銘にすべく心に残った箇所をアイパッドミニに書き残した。私としては初めての試みだった。
◆補完的関係にある「生と死」
たとえば、「おやこ」では、家族における様々な問題には、〝子ども大人の氾濫〟という原因があるとされとても興味深い。戦前の日本では、両親の役割分担がなされていた。父は子に道理を示し、母は子に滋をつくせとの孔子の教えが生きていた。この関係を胸と背中に言い換え、母は子を胸に抱きかかえ、父は子に背中を向けよ、と教えたのである。また、言葉の本来の意味に立ち返るべし、との着眼はあらためて感じ入る。そもそも『義』という文字は『羊』と『我』からできている。羊は中国で最高の価値あるもので、義のある人間はもっとも価値ある『我』である。『義』に『言』をつけたものが『議』だから、会議とは会合してことばによって自分をつくることだ」という風に、字源にさかのぼって指摘してくれているのだ。「会議」が持つこうした意味には気付かなかった。無意識にやり過ごしている字義の奥深さに今更ながら感心する。
「戦後の民主主義が儒教なんて古いときめてかかり、いっきょに親の立脚点をさらってしまった結果、父にしろ母にしろ、親子関係がうまくいかなくなった」との指摘は、戦後民主主義の申し子としての団塊世代は耳が痛かろう。今まで、様々な場面でこんな状況が続くと日本はダメになると思い、口にもしながらただ漫然と流されてきたすべての人々がこの本での中西さんの指摘を前に、頭をたれてしまうに違いない。「いのち」では、「生きることと死ぬことをめぐる今日の考えかたは、むかしの考えとよほど違ってる」として、肉体のおわりを生命のおわりと捉えてしまう昨今の風潮を嘆く。「生と死の正しい関係は補完的でおたがいに領域を侵しあっている」と述べ、生死の基本を真正面から説く。そんな中で気になるくだりに出くわした。
「なぜ現代人は肉体にこだわって肉体の消滅ばかりを気にするのか。肉体の若さを賛美し若さを価値とする社会──現代日本社会はもっともその傾向が強いのだが、そんな社会は未熟な社会であり、中国のように老人を尊重する社会は成熟した文化をもつ」──ここは、ややもすれば、現代中国を敵視しがちな昨今の風潮の日本にあって、見落とされがちな視点だと思われる。
【他生のご縁 京都での映画講演を楽しみに】
中西進先生と私は、コロナ禍の前に、ある一般社団法人の代表と専務理事として、ご一緒に名を連ねていたことがあります。当時、京都市の右京区図書館に名誉館長をしておられた先生をときどき訪ねました。先生が担当されていた映画講評会を聴くために、打合せの日を調整したのです。参加者と共に映画を観たあとのことでしたが、まさに珠玉のひとときでした。
令和の名付け親になられたあとも『卒寿の自画像──我が人生の讃歌』を著されました。それを読み、「こんな90歳になってみたい」と思った人は少なくないはずです。私が『新たなる77年の興亡』を出版した直後に総合雑誌『潮』2023年11月号の波音欄に取り上げて頂いたことには、感激しました。