Monthly Archives: 11月 2013

本格的な法華経研究者の登場に大いなる期待

現役時代の最終盤のころと記憶するから昨年のことだったか。仕事を通じて知り合ったある大学の教授と懇談している際に、その方が僧職も兼務されていることを知った。それをきっかけに、仏教談義となった。やり取りの最終段階で、彼は植木雅俊『仏教、本当の教え』が凄く分かり易くて面白い、と推薦された。この時とほぼ相前後して、日経新聞の文化欄に作家の安部龍太郎氏が、自作『等伯』についての執筆余話の中で、植木雅俊氏のことに触れていたのを発見した。法華経に関する部分(長谷川等伯は法華経の信者)は彼の指南に負うところが大きいと知った。仏教、なかんずく法華経に造詣の深い人として頭に焼き付いた。

いらいこの人を注目するに至っている。インド思想、仏教思想論やサンスクリット語をかの中村元先生のもとで学んだ後、男性として初めて御茶ノ水女子大で人文科学博士号を取得。5年ほど前には、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下二巻を完成され、毎日出版文化賞を得られた。朝夕法華経の最重要部分を読誦してはいるものの全貌を抑えたとは言い難い私などにとって驚異としか言いようがない凄い人である。これまで『仏教のなかの男女観』などあれこれ著作が世に出ているのに知らなかった。中村先生亡きあと、数少ない本格的な法華経研究者だろう。

通常の給与生活者としての仕事の傍らの研究・翻訳作業で、深夜までの作業の連続は30年に及んだという。恐らく今は30歳前後とみられる娘さんが、高校生の時に「私は、生まれてからこの方ずっと、父親というものは、仕事から帰ってくると勉強するのが当たり前だと思ってきました」との作文を書いたことを紹介している。奥さんや義父に漢訳の書下ろしやコンピュ―ターへの入力作業を手伝ってもらったことなど、家族総出の姿が涙ぐましく微笑ましい。この人の人物像に迫るには『思想としての法華経』の序章を読むに限る。学問というものにどう迫るか、自分の頭で考えるということはどのようにすればいいかが分かってくる。法華経とは何なのかということーそれは前掲の『法華経』下の末尾にある解説が手引きとなるーとは別に、若い人たちがそれぞれの道に進むに当たり、参考になる実践法がそこはかとなくくみ取れる。

さて、21世紀の世界に生きる人間の進むべき方途が、仏教に明かされているとの指摘は特に目新しくはない。ただ、前回見た梅原猛氏に代表されるように、西洋哲学及びそれと表裏一体のキリスト教への必要以上の遠慮やら敵愾心が相俟って、一般的には共有されるに至ってていない。植木氏の出発点は、仏教の教えが間違って捉えられているのではないかとの問題意識だった。「北枕」の例(私たちの世代は親から縁起が悪いとして教えられた)など文化的誤解の幾つかをあげ、いかに仏教の本質理解を妨げているかを示す。確かに、信仰の対象としての仏教を取り巻く事態は霧の中であるという他ない。相当な知識人であっても、こと仏教に関しては(宗教全般にいえることだろうが、特に)疎い人が殆どだ。西洋哲学に強い関心を持つ学者が、私との会話の中で、法華経なるものは、現実とはかけ離れた荒唐無稽なおとぎ話的なものの羅列だと思えてならないと言っていた。残念ながら思想、哲学としての仏教、法華経は殆どと言っていいほど人口に膾炙していないのである。

こうした状況を前に、植木氏は「思想としてとらえ直した時、新たな意味と価値が見いだされる」として、文明の衝突が危惧される今日、「『法華経』の止揚の論理、寛容の思想がもっと注目されていい」と強調する。ほぼ50年に亘って法華経、なかんずく日蓮仏法を実践してきた私にとって、我が意を得たりと、共感する。同時になまかじりの身には‘’日暮れて道遠し‘’を実感せざるをえない。様々な意味で覚醒もさせられる刺激的な「植木ワールド」の展開に心ときめく思いがする。

『仏教、本当の教え』は、副題に「インド、中国、日本の理解と誤解」とあるように、比較文化論に主力が注がれており、決して押しつけがましくない。ただ、私にはむしろそれが物足りなく思われる。例えば、日本の仏教といっても間口は滅法広い。この書では、親鸞や道元、日蓮の漢訳仏典の読み替えという興味深いテーマに触れているものの、それぞれの宗派の比較などには頁をさいていない。日蓮の思想に関しては、「日蓮が言うのは、今現在という瞬間に、生命の本源としての無作の仏の生命をひらき、智慧を輝かせる。そこに、瞬間が永遠に開かれる」とか、「仏教が志向したのは、<永遠の今>である現在の瞬間であり、そこに無作の仏の命をいかに開き、顕現するかということだったということを日蓮は主張しているのであろう」などといった時間論に触れるに留まっている。『思想としての法華経』にしても同様だ。ぜひ、この次には日蓮仏法の意味するところに迫ってもらいたい。(2013・11・25)

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本格的な法華経研究者の登場に大いなる期待

現役時代の最終盤のころと記憶するから昨年のことだったか。仕事を通じて知り合ったある大学の教授と懇談している際に、その方が僧職も兼務されていることを知った。それをきっかけに、仏教談義となった。やり取りの最終段階で、彼は植木雅俊『仏教、本当の教え』が凄く分かり易くて面白い、と推薦された。この時とほぼ相前後して、日経新聞の文化欄に作家の安部龍太郎氏が、自作『等伯』についての執筆余話の中で、植木雅俊氏のことに触れていたのを発見した。法華経に関する部分(長谷川等伯は法華経の信者)は彼の指南に負うところが大きいと知った。仏教、なかんずく法華経に造詣の深い人として頭に焼き付いた。

いらいこの人を注目するに至っている。インド思想、仏教思想論やサンスクリット語をかの中村元先生のもとで学んだ後、男性として初めて御茶ノ水女子大で人文科学博士号を取得。5年ほど前には、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下二巻を完成され、毎日出版文化賞を得られた。朝夕法華経の最重要部分を読誦してはいるものの全貌を抑えたとは言い難い私などにとって驚異としか言いようがない凄い人である。これまで『仏教のなかの男女観』などあれこれ著作が世に出ているのに知らなかった。中村先生亡きあと、数少ない本格的な法華経研究者だろう。

通常の給与生活者としての仕事の傍らの研究・翻訳作業で、深夜までの作業の連続は30年に及んだという。恐らく今は30歳前後とみられる娘さんが、高校生の時に「私は、生まれてからこの方ずっと、父親というものは、仕事から帰ってくると勉強するのが当たり前だと思ってきました」との作文を書いたことを紹介している。奥さんや義父に漢訳の書下ろしやコンピュ―ターへの入力作業を手伝ってもらったことなど、家族総出の姿が涙ぐましく微笑ましい。この人の人物像に迫るには『思想としての法華経』の序章を読むに限る。学問というものにどう迫るか、自分の頭で考えるということはどのようにすればいいかが分かってくる。法華経とは何なのかということーそれは前掲の『法華経』下の末尾にある解説が手引きとなるーとは別に、若い人たちがそれぞれの道に進むに当たり、参考になる実践法がそこはかとなくくみ取れる。

さて、21世紀の世界に生きる人間の進むべき方途が、仏教に明かされているとの指摘は特に目新しくはない。ただ、前回見た梅原猛氏に代表されるように、西洋哲学及びそれと表裏一体のキリスト教への必要以上の遠慮やら敵愾心が相俟って、一般的には共有されるに至ってていない。植木氏の出発点は、仏教の教えが間違って捉えられているのではないかとの問題意識だった。「北枕」の例(私たちの世代は親から縁起が悪いとして教えられた)など文化的誤解の幾つかをあげ、いかに仏教の本質理解を妨げているかを示す。確かに、信仰の対象としての仏教を取り巻く事態は霧の中であるという他ない。相当な知識人であっても、こと仏教に関しては(宗教全般にいえることだろうが、特に)疎い人が殆どだ。西洋哲学に強い関心を持つ学者が、私との会話の中で、法華経なるものは、現実とはかけ離れた荒唐無稽なおとぎ話的なものの羅列だと思えてならないと言っていた。残念ながら思想、哲学としての仏教、法華経は殆どと言っていいほど人口に膾炙していないのである。

こうした状況を前に、植木氏は「思想としてとらえ直した時、新たな意味と価値が見いだされる」として、文明の衝突が危惧される今日、「『法華経』の止揚の論理、寛容の思想がもっと注目されていい」と強調する。ほぼ50年に亘って法華経、なかんずく日蓮仏法を実践してきた私にとって、我が意を得たりと、共感する。同時になまかじりの身には‘’日暮れて道遠し‘’を実感せざるをえない。様々な意味で覚醒もさせられる刺激的な「植木ワールド」の展開に心ときめく思いがする。

『仏教、本当の教え』は、副題に「インド、中国、日本の理解と誤解」とあるように、比較文化論に主力が注がれており、決して押しつけがましくない。ただ、私にはむしろそれが物足りなく思われる。例えば、日本の仏教といっても間口は滅法広い。この書では、親鸞や道元、日蓮の漢訳仏典の読み替えという興味深いテーマに触れているものの、それぞれの宗派の比較などには頁をさいていない。日蓮の思想に関しては、「日蓮が言うのは、今現在という瞬間に、生命の本源としての無作の仏の生命をひらき、智慧を輝かせる。そこに、瞬間が永遠に開かれる」とか、「仏教が志向したのは、<永遠の今>である現在の瞬間であり、そこに無作の仏の命をいかに開き、顕現するかということだったということを日蓮は主張しているのであろう」などといった時間論に触れるに留まっている。『思想としての法華経』にしても同様だ。ぜひ、この次には日蓮仏法の意味するところに迫ってもらいたい。

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草木も国土もすべてにいのちはあるとの思想

小さい新書だけど、凄い価値を持つ本だと思う。梅原猛『人類哲学序説』だ。ー人類の歴史は極端にいえば、自然との闘いの連続ともいえる。前回までに見たように、人間は自然になされるがままの状態から、自然を統御し、支配する段階に至り、やがてまた再び自然に翻弄されるという事態を迎えている。その背景については、現在までの世界を牽引してきた近代西洋文明が生み出した科学技術文明が問い直されねばならない。梅原氏は、人間中心主義に裏付けられた西洋哲学に根本的な問題があるから、今日のような厳しい状況を招いてしまったと、分かり易い形で提起している。

梅原氏はこれまで様々な形で物議を醸す論稿や発言を展開してきた人だが、90歳を目前に人類哲学を打ち立てると勢い込んでいる。これまで彼が人生の時間の多くをかけて取り組んできた西洋哲学が行き詰まりを見せ、むしろ世界の環境破壊の元凶になっている事態を前に、その向かう姿勢の一大転換を表明しているのは極めて興味深い。西洋哲学の推移を適格に追いながら、その誤りを救う道は東洋哲学にあるとの結論付けは、これまでも少なからぬ人によって展開されてきた。しかし、具体的な解決への道筋を示した哲学者は寡聞にして知らない。梅原氏はそれに大胆に挑戦しようとしている。すなわち、日本文化の原理としての「草木国土悉皆成仏」という思想がカギを握っているとして、『人類哲学』の名のもとにご自身が新たに構築しようとされているのである。

「草木国土悉皆成仏」とは、動植物などから始まって国土に至るまで、自然のすべてはいのちを持つ存在だとの考えをさす。梅原氏はそれを天台本覚思想と呼ぶが、仏教の考え方の根本原理であろう。20年ほど前から西洋哲学の原理とこの思想とをどう対決させるかを悩んできたという。彼は、それを率直に「西洋哲学の巨匠たちを批判する勇気をなかなか持てなかった」からだと打ち明けている。今になってようやく立ち上がったのは、ひとえに原発事故を伴う東日本大震災の発生によるという。原子力発電を主なエネルギー源とする現代文明そのものの在り方が問われているとの問題意識はきわめて正しいといえよう。

これから梅原氏は西洋文明、特に西洋哲学を研究し、より正確で体系的に論じた著書を書かなければならないとし、それこそが人類哲学の本論だとしている。その所産に大いに期待し一日も早く読みたいと思う。と同時に、仏教についても研鑽を深めて貰いたいものだと思う。この本のなかで触れられているものを見る限り、きわめて大雑把な仏教理解にとどまっておられるような気がしてならない。法然や親鸞など浄土教についてはそれなりの論及はあるものの、法華経については熱心な信者だった宮沢賢治を取り上げているだけ。賢治が惹かれた利他行に触れながらも、日蓮仏法の本質に迫っていないのはきわめて残念である。

この本の最末尾に歴史学者トインビーとの対談の際に交わされたエピソードが紹介されているが、大いに興趣をそそられた。トインビーは「21世紀になると、非西欧諸国が、自己の伝統的文明の原理によって、科学技術を再考し、新しい文明をつくるのではないか。それが非西欧文明の今後の課題だ」と述べたが、それに対して、梅原氏が「どういう原理によってそのような文明はできるのですか」と尋ねたら「それはお前が考えることだ!」と一喝されたという。

40年後の今になって、トインビーへの答えが出来上がったと言われること自体は素晴らしいと思う。ただ、やはり40年ほど前に、トインビーと池田大作SGI会長との対談(1972年)がなされており、梅原氏の関心を持つテーマが語りつくされている。ご存じないはずはないと思うのだが、全く触れられていないのは不思議に思われてならない。

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草木も国土もすべてにいのちはあるとの思想

小さい新書だけど、凄い価値を持つ本だと思う。梅原猛『人類哲学序説』だ。ー人類の歴史は極端にいえば、自然との闘いの連続ともいえる。前回までに見たように、人間は自然になされるがままの状態から、自然を統御し、支配する段階に至り、やがてまた再び自然に翻弄されるという事態を迎えている。その背景については、現在までの世界を牽引してきた近代西洋文明が生み出した科学技術文明が問い直されねばならない。梅原氏は、人間中心主義に裏付けられた西洋哲学に根本的な問題があるから、今日のような厳しい状況を招いてしまったと、分かり易い形で提起している。

梅原氏はこれまで様々な形で物議を醸す論稿や発言を展開してきた人だが、90歳を目前に人類哲学を打ち立てると勢い込んでいる。これまで彼が人生の時間の多くをかけて取り組んできた西洋哲学が行き詰まりを見せ、むしろ世界の環境破壊の元凶になっている事態を前に、その向かう姿勢の一大転換を表明しているのは極めて興味深い。西洋哲学の推移を適格に追いながら、その誤りを救う道は東洋哲学にあるとの結論付けは、これまでも少なからぬ人によって展開されてきた。しかし、具体的な解決への道筋を示した哲学者は寡聞にして知らない。梅原氏はそれに大胆に挑戦しようとしている。すなわち、日本文化の原理としての「草木国土悉皆成仏」という思想がカギを握っているとして、『人類哲学』の名のもとにご自身が新たに構築しようとされているのである。

「草木国土悉皆成仏」とは、動植物などから始まって国土に至るまで、自然のすべてはいのちを持つ存在だとの考えをさす。梅原氏はそれを天台本覚思想と呼ぶが、仏教の考え方の根本原理であろう。20年ほど前から西洋哲学の原理とこの思想とをどう対決させるかを悩んできたという。彼は、それを率直に「西洋哲学の巨匠たちを批判する勇気をなかなか持てなかった」からだと打ち明けている。今になってようやく立ち上がったのは、ひとえに原発事故を伴う東日本大震災の発生によるという。原子力発電を主なエネルギー源とする現代文明そのものの在り方が問われているとの問題意識はきわめて正しいといえよう。

これから梅原氏は西洋文明、特に西洋哲学を研究し、より正確で体系的に論じた著書を書かなければならないとし、それこそが人類哲学の本論だとしている。その所産に大いに期待し一日も早く読みたいと思う。と同時に、仏教についても研鑽を深めて貰いたいものだと思う。この本のなかで触れられているものを見る限り、きわめて大雑把な仏教理解にとどまっておられるような気がしてならない。法然や親鸞など浄土教についてはそれなりの論及はあるものの、法華経については熱心な信者だった宮沢賢治を取り上げているだけ。賢治が惹かれた利他行に触れながらも、日蓮仏法の本質に迫っていないのはきわめて残念である。

この本の最末尾に歴史学者トインビーとの対談の際に交わされたエピソードが紹介されているが、大いに興趣をそそられた。トインビーは「21世紀になると、非西欧諸国が、自己の伝統的文明の原理によって、科学技術を再考し、新しい文明をつくるのではないか。それが非西欧文明の今後の課題だ」と述べたが、それに対して、梅原氏が「どういう原理によってそのような文明はできるのですか」と尋ねたら「それはお前が考えることだ!」と一喝されたという。

40年後の今になって、トインビーへの答えが出来上がったと言われること自体は素晴らしいと思う。ただ、やはり40年ほど前に、トインビーと池田大作SGI会長との対談(1972年)がなされており、梅原氏の関心を持つテーマが語りつくされている。ご存じないはずはないと思うのだが、全く触れられていないのは不思議に思われてならない。(2013・11・18)

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人間中心主義がもたらす弊害について

「われ思う、ゆえにわれあり」との言葉とセットになって、デカルトの『方法序説』は、ヨーロッパにおける近代合理主義の出発を意味する書物だということはあまねく知られています。しかし、そのことが歴史の流れのなかでどういう意味を持つのかとなると、もう一つ良くわかりません。これまで私がぼんやりと捉えていたものは簡単に言えば、次のようなものです。

まず、近代合理主義って、一体何でしょうか。反対語を考えると、「中世非合理主義」となりますから、少しははっきりとします。中世と言えば、キリスト教が圧倒的な力を持っていた時代で、その教えたるやおよそ理屈に合わない、つまりは非合理なものの考え方が跋扈していた頃です。そうした古い遅れたものを打ち破って出てきたのが近代合理主義っていうことなんだろう、と。で、それをもたらしたものは、デカルトがすべてを疑い続け、否定し抜いてなお残るものとして、そうしたことを考える、疑う自分自身の存在は確かだというのです。要するに、考えない人というものは自分がない、すなわち人間というものは、関西風に言えば、考えてこそなんぼのもんやちゅうわけです。

ところで、人類の歴史のなかで、幾つかの文明は栄枯盛衰を繰り返し、今は見る影もないものが少なくないです。例えば、メソポタミア文明やインカ文明などがあげられましょうか。それに比べて、今日まで生き続けているのが西欧文明ですね。古代ヨーロッパにおける、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらによるギリシャ哲学に支えられてきたといえます。ところが、途中でキリスト教との確執がありました。その結果、中世スコラ哲学に主役の座が取って代わられました。そのことがデカルトが登場する頃に、学問が混迷と煩雑さを招いたと考えられます。

デカルトは『方法序説』(谷川多佳子訳)のなかで、自らの哲学を述べる一方で、学問の方法について簡単明瞭に提起しており、きわめて興味深いものがあります。直観、分析、総合、枚挙といった、学問をするうえでの四つの方法や、ものごとは穏便に処せ、選択に当たっては迷うな、自分の欲望にうち勝て、との生きる上での三つの法則(格率という言葉が使われていますが、少しなじみませんね)を掲げています。当時の時代状況の中でこれほど平易な形で生き方のコツを述べた人はおよそ珍しかったのではないでしょうか。読んでいて一気に親しみを感じてしまいます。この辺りは、あまたの人々を導くよすがとなってきており、遅れて生きる我々にとっても大いに参考になります。

ところが、めぐり巡って今や、近代合理主義は評判が良くありません。その限界が声高に叫ばれているんですね。なぜそう言われるのか、文中を探してみました。「われわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめることである。このことは、たんに大地の実りと地上のあらゆる便宜を、やすやすと享受させる無数の技術を発明するために望ましいだけではない。主として、健康を維持するためにも望ましいのである」とのくだりがそれにあたると思います。つまり、これって、他の生き物や自然を支配するために人間を至上の存在とする考えですよね。一言でいえば、人間中心主義。今日の環境破壊、滅びゆく大自然の元凶とさえ指摘されています。

ですけど、デカルトの登場前の世界っていうと、人間は大自然に翻弄され、振り回されることがしばしばだったんですね。生活を豊かに、健康で過ごすうえで、立ちはだかる自然をコントロールする必要が人間の側にはあったことを、今の時点で誰が否定できるでしょうか。結局はデカルトも‘’時代の子‘’だったといえますね。そのことを裏付けると私には思える記述があります。旅をしていく中で気づいたというくだりで、「同じ精神を具えた同じ一人の人間でも、子供の時からフランス人やドイツ人のあいだで育てられると、中国人や人食い人種のなかでずっと生活してきたのとは、どんなに違った人間になることか」ー訳者の注によると、人食い人種とは、アメリカの原住民をさすとあります。彼が生きた時代は17世紀半ばゆえ、無理もないといえましょうが、中国人と並列して書く神経はなかなかのものです。

いまでこそ反自然だといってデカルトを批判したり、近代合理主義への攻撃の矢は向けられますが、これは最近のことであって、かつては「デカルトの自然学が古代や中世の自然学に対する長所は、こうして人間を自然の支配者たらしめたところにあります」(澤瀉久敬『思想の英雄・デカルト』)といった捉え方が常識的なものでした。(11/11)

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人間中心主義がもたらす弊害について

「われ思う、ゆえにわれあり」との言葉とセットになって、デカルトの『方法序説』は、ヨーロッパにおける近代合理主義の出発を意味する書物だということはあまねく知られています。しかし、そのことが歴史の流れのなかでどういう意味を持つのかとなると、もう一つ良くわかりません。これまで私がぼんやりと捉えていたものは簡単に言えば、次のようなものです。

まず、近代合理主義って、一体何でしょうか。反対語を考えると、「中世非合理主義」となりますから、少しははっきりとします。中世と言えば、キリスト教が圧倒的な力を持っていた時代で、その教えたるやおよそ理屈に合わない、つまりは非合理なものの考え方が跋扈していた頃です。そうした古い遅れたものを打ち破って出てきたのが近代合理主義っていうことなんだろう、と。で、それをもたらしたものは、デカルトがすべてを疑い続け、否定し抜いてなお残るものとして、そうしたことを考える、疑う自分自身の存在は確かだというのです。要するに、考えない人というものは自分がない、すなわち人間というものは、関西風に言えば、考えてこそなんぼのもんやちゅうわけです。

ところで、人類の歴史のなかで、幾つかの文明は栄枯盛衰を繰り返し、今は見る影もないものが少なくないです。例えば、メソポタミア文明やインカ文明などがあげられましょうか。それに比べて、今日まで生き続けているのが西欧文明ですね。古代ヨーロッパにおける、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらによるギリシャ哲学に支えられてきたといえます。ところが、途中でキリスト教との確執がありました。その結果、中世スコラ哲学に主役の座が取って代わられました。そのことがデカルトが登場する頃に、学問が混迷と煩雑さを招いたと考えられます。

デカルトは『方法序説』(谷川多佳子訳)のなかで、自らの哲学を述べる一方で、学問の方法について簡単明瞭に提起しており、きわめて興味深いものがあります。直観、分析、総合、枚挙といった、学問をするうえでの四つの方法や、ものごとは穏便に処せ、選択に当たっては迷うな、自分の欲望にうち勝て、との生きる上での三つの法則(格率という言葉が使われていますが、少しなじみませんね)を掲げています。当時の時代状況の中でこれほど平易な形で生き方のコツを述べた人はおよそ珍しかったのではないでしょうか。読んでいて一気に親しみを感じてしまいます。この辺りは、あまたの人々を導くよすがとなってきており、遅れて生きる我々にとっても大いに参考になります。

ところが、めぐり巡って今や、近代合理主義は評判が良くありません。その限界が声高に叫ばれているんですね。なぜそう言われるのか、文中を探してみました。「われわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめることである。このことは、たんに大地の実りと地上のあらゆる便宜を、やすやすと享受させる無数の技術を発明するために望ましいだけではない。主として、健康を維持するためにも望ましいのである」とのくだりがそれにあたると思います。つまり、これって、他の生き物や自然を支配するために人間を至上の存在とする考えですよね。一言でいえば、人間中心主義。今日の環境破壊、滅びゆく大自然の元凶とさえ指摘されています。

ですけど、デカルトの登場前の世界っていうと、人間は大自然に翻弄され、振り回されることがしばしばだったんですね。生活を豊かに、健康で過ごすうえで、立ちはだかる自然をコントロールする必要が人間の側にはあったことを、今の時点で誰が否定できるでしょうか。結局はデカルトも‘’時代の子‘’だったといえますね。そのことを裏付けると私には思える記述があります。旅をしていく中で気づいたというくだりで、「同じ精神を具えた同じ一人の人間でも、子供の時からフランス人やドイツ人のあいだで育てられると、中国人や人食い人種のなかでずっと生活してきたのとは、どんなに違った人間になることか」ー訳者の注によると、人食い人種とは、アメリカの原住民をさすとあります。彼が生きた時代は17世紀半ばゆえ、無理もないといえましょうが、中国人と並列して書く神経はなかなかのものです。

いまでこそ反自然だといってデカルトを批判したり、近代合理主義への攻撃の矢は向けられますが、これは最近のことであって、かつては「デカルトの自然学が古代や中世の自然学に対する長所は、こうして人間を自然の支配者たらしめたところにあります」(澤瀉久敬『思想の英雄・デカルト』)といった捉え方が常識的なものでした。

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自分でなく、ひとに考えて貰うこと

「本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである」ーショーペンハウアーはこう述べたあと、読書する時間を「あらゆる時代、あらゆる国々の常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品に振り向けよう」と言う。そう簡単にいくだろうか。ベストセラーと聞けばつい手を出したくなるのが人情だ。私などもごたぶんに漏れずあれこれと読み、偉大な人物や名だたる古典は正直敬遠することが少なくなかった。寄り道ばかりして目的地には程遠いのに、日は暮れかかっている旅人のようなものなのである。

しばしば人は、古典を読め、しかも原典にあたれと言う。しかしこれらは口当たりが良くない食い物のようなもので、消化は良くないし美味しくもない。勢い歯ごたえはなくとも食べやすいものに目が向き、手を出してしまう。澤瀉久敬は『「自分で考える」ということ』の中で、参考書、入門書、解説書のたぐいは読まない方がよい、樹にまつわりつく蔦のようなものだから、と厳しい。この本は講演をまとめたものだけに平易な文章で分かりやすい。これとて読書すること、哲学することの解説書ではないのか、とつい皮肉を言いたくなる。結局は良書、悪書などといったことはあまり気にせず、読んだもの勝ちではないか、と思う。

ただ大事なことは、本を読むのは知識を増やすためだけではなく、他人の考え、思想を正しく把握することであり、そのためには自分の考えを一たびは消し、虚心坦懐に読むことに尽きようか。澤瀉は、具体的方途として、一冊の本を読む前に、その本の取り上げている問題を自分で考えてみるのもいいとする。しかし、政治や経済に関する論文ならそれはある意味で可能だろうが、一冊の書物となると、そうはなかなかいかない。自分の頭で考えるということはことほど左様に難しい。ただ、多読、乱読で来た人は一たび立ち止まって、読前、読後に著者との会話を試みるのは悪くないだろう。その積み重ねがやがては大きく実ることを確信する。

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自分でなく、ひとに考えて貰うこと

 「本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである」ーショーペンハウアーはこう述べたあと、読書する時間を「あらゆる時代、あらゆる国々の常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品に振り向けよう」と言う。そう簡単にいくだろうか。ベストセラーと聞けばつい手を出したくなるのが人情だ。私などもごたぶんに漏れずあれこれと読み、偉大な人物や名だたる古典は正直敬遠することが少なくなかった。寄り道ばかりして目的地には程遠いのに、日は暮れかかっている旅人のようなものなのである。

 しばしば人は、古典を読め、しかも原典にあたれと言う。しかしこれらは口当たりが良くない食い物のようなもので、消化は良くないし美味しくもない。勢い歯ごたえはなくとも食べやすいものに目が向き、手を出してしまう。澤瀉久敬は『「自分で考える」ということ』の中で、参考書、入門書、解説書のたぐいは読まない方がよい、樹にまつわりつく蔦のようなものだから、と厳しい。この本は講演をまとめたものだけに平易な文章で分かりやすい。これとて読書すること、哲学することの解説書ではないのか、とつい皮肉を言いたくなる。結局は良書、悪書などといったことはあまり気にせず、読んだもの勝ちではないか、と思う。

 ただ大事なことは、本を読むのは知識を増やすためだけではなく、他人の考え、思想を正しく把握することであり、そのためには自分の考えを一たびは消し、虚心坦懐に読むことに尽きようか。澤瀉は、具体的方途として、一冊の本を読む前に、その本の取り上げている問題を自分で考えてみるのもいいとする。しかし、政治や経済に関する論文ならそれはある意味で可能だろうが、一冊の書物となると、そうはなかなかいかない。自分の頭で考えるということはことほど左様に難しい。ただ、多読、乱読で来た人は一たび立ち止まって、読前、読後に著者との会話を試みるのは悪くないだろう。その積み重ねがやがては大きく実ることを確信する。(11/4)

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