Monthly Archives: 5月 2016

「大衆」が姿を変えたという錯覚ー薬師寺克行『公明党』

広宣流布ー日蓮大聖人の仏法を世界中に広めて、個人の幸せと社会の繁栄が一致する社会を作ろうとの創価学会の壮大なビジョンに私が目覚めたのは、1964年19歳の年だった。大学在学中にしゃにむにその活動に取り組み、卒業と同時に公明党の機関紙局に就職、公明新聞の記者になった。いらい50年余。その間のほぼ真ん中の時期(平成元年)に、衆議院議員候補に推薦され足掛け5年の苦闘の末に政治家に転進した。先年、公明党は結党50周年を迎えたが、私はほぼ同じ期間を公明新聞記者、党職員、衆議院議員秘書そして代議士として過ごしてきたことになる。つまり、公明党の50年は私の人生そのものと重なる▼その50年の創価学会と公明党の軌跡を追った本が出版された。元朝日新聞記者で現在は東洋大教授の薬師寺克行氏の『公明党』である。庶民大衆を無視しイデオロギーの弄びに終始していた自社両党。そこから政治を取り戻すとの旗印のもと「55年体制」打破に賭けた日々。打倒自民党の戦いに一時は自らを解党し、大きな勢力に合流してまで取り組んだ。それがかなわぬと見るや一転、内側からの変革に切り替え、当の相手の懐に入り込み連立を組むまでに。こうした自分が歩んできた道を、新聞記者とし、学者としての眼差しで克明に分析されたものを見せられるのは、他人の日記を覗き見るようで実に興味深い。薬師寺氏は、精一杯公正な視点をもとに抑制を利かせた筆致で公明党と創価学会の50年を描いてはいる。私が上司として長年仕えた市川雄一公明党書記長への素描が粗っぽく、いかにもステロタイプ的なことは少々気になるが、これまでにだされた「公明党」論では出色のものだろう▼勿論あれこれ異論をはさみたくなるが、ここでは一点に絞る。「公明党が重視する『大衆』は、五〇年の間に大きく姿を変えてしまった」のだから、「公明党は自らのアイデンティティを再構築するときにきている」という結論だ。ざっくり言えば、経済的に苦しい人々が多かった社会から、今や社会全体が豊かになった。だから救うべき対象としての大衆そのものが変化したという捉え方だ。しかし、創立者がさし示したところの「大衆」は、人間であるがゆえの悩みを持つ存在である。経済苦だけではなく、病苦、人間関係のもつれなどあらゆる苦難に立ち向かう人間を指す。その観点からいえば、50年たっても全く「大衆」の実像は変わっていない。経済にあっては豊かさの中の貧困という「格差拡大」や、統合失調症や引きこもり、痴呆症といった新たなやまいに悩む人々の数は一段と増えている▼そうした状況の中で、政治,政党が果たすべき役割も基本的には変わっていない。安保法制を例に挙げれば、共産党や民進党などの「戦争法」といったレッテル張りの反対姿勢は50年前のいわゆる革新の姿とそっくりダブって見えてくる。つまりは残念ながら「公明党の戦いいまだ終わらず」、ある意味で50年経ってもっと課題は深刻さを増している。「大衆とともに」のアイデンティティは再構築というより、再強化されるときだろう。日本における政党が人間、大衆と真正面から向き合うことをせぬ限り、公明党の役割展開に終止符は打たれることはないのである。(2016・5・26)

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宗教と国家の関係を読み解く大事さー中島岳志、島薗進『愛国と信仰の構造』

自分の所属する団体・創価学会こそ平和を作りゆく主体者であり、担い手だと私は確信している。ところがそうではないとか、すくなくともそうではなくなる可能性があると指摘する論考がこのところ散見される。東京工大教授で政治学者の中島岳志、東大名誉教授で宗教学者の島薗進のお二人は昨今急速にそういった姿勢を示されている。このご両人が対談された『愛国と信仰の構造』を読んで、様々な意味で啓発もされ、驚きもした。いわゆる「アンチ」の立場を取ってきた人たちの主張ではないだけに、その指摘は傾聴に値しよう▼幾つもの興味深い視点が提示されているが、ここでは二つに絞る。まず第一に近代150年の捉え方を挙げたい。中島氏は、社会学者の大澤真幸氏の「日本社会25年パラダイム変換説」を取り上げ、戦前、戦後の75年をそれぞれ三つの時代区分に分けて比較し、分析している。これは作家の半藤一利氏の「40年日本社会変換説」よりもさらにきめ細かく悲観的だ。1868年の明治維新、1894年の日清戦争勃発、1918年の第一次大戦終了までが戦前の3期の仕切り。一方、戦後の3期は1945年の第二次大戦の終結、1970年頃からのジャパンアズナンバーワンを経てバブル絶頂まで、そして1995年の阪神淡路大震災、オウム真理教事件から今日までと続く。この説を推奨する人たちは戦前と戦後の類似性を強調し、これからくる三期の終わりには「社会の基盤のもろさが表立って」きて、「国内全体が言いようのない閉塞感に苦しむ」ことになるという。いささかこれは”予定調和的思考”が過ぎると思うのだが▼第二に、戦前の仏教と右翼思想との関係、とりわけ親鸞主義との関係だ。日蓮主義については既に北一輝や石原莞爾らとの絡みで、言い尽くされてきた感が強い。一方、親鸞主義はあまり知られていない。三井甲之、清沢清之と言われても知ってる人は少なかろう。「自力」への否定としての「絶対他力」や、大勢順応に居直るという意味での「寝転がる思想」といった展開を知って、おぼろげながら理解はできる。本居宣長の国学の構造と親鸞の思想の類似性。さらには、ありのままの神に随順する「大和心」が「絶対他力」と重なり、日本の全体主義の流れが加速していったとの指摘は興味深い▼宗教、思想が用い方や理解の浅深によっていか様にも変わった側面を露にすることは日蓮、親鸞のケースだけでは勿論ない。だが、日本近代の形成にあって極めて深刻で甚大な負の影響を与えたものゆえ、その仕組みは熟知しておく必要があろう。この本の後半に「愛国と信仰の暴走を回避するために」との章があり、中島氏が公明党の自民党への追随に警鐘を鳴らし、島薗氏が創価学会に対し「国家とは距離を保って活動してほしい」と述べているくだりがある。「よみがえる全体主義」の一角を創価学会、公明党が担いでいるとの”倒錯した見立て”が提示されているのだ。ここは自民党を内側から変えようとし、日本社会の構造変革に関わる際の陥穽に気をつけろ、との注告だと冷静に銘記しておきたい。(2016・5・21)

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西洋的父性の論理へとジャンプする危険ー河合隼雄『中空構造日本の深層』

NHKは「困った会長」問題とは別に、興味深い番組をしばしば作ってくれる。中でも「100分de名著」シリーズは私の好きなものの一つだ。先に放映され、一冊の本にまとめられた『「日本人」とは何者か?』も面白かった。ここでは4人の思想家たちの代表的な著作を4人の学者たちがそれぞれ解説しているが、そのうち、河合隼雄『中空構造日本の深層』を改めて読んでみた。生前の河合氏とは、彼が文化庁長官時代に一度だけだが忘れえぬ交流をした。日本の政治家はユーモアセンスが欠けていると言われるので、その磨き方の教えを乞うたのだ。詳細は以前に書いたので省くが、重要なことをさりげなく言ったり書いたりする人だった。この本でも日本、日本人の特質を僅かな紙数の中でずばり表現していることが印象深い▼要約すれば「日本人の思想や宗教、ひいては社会構造の原型は中空である」というもの。要するに中心は空っぽというのだ。キリスト教的世界が「中心に存在する唯一者の権威や力で統合される構造」であるのと違って、日本では「中心は必ずしも力を持つことを要せず、うまく中心的な位置を占めることによって、全体のバランスを保つのである」という。このあたりの対比については言い尽くされてきた感もあるが、河合氏はここで「中空構造が今は危機に立っている」との重要な指摘をした▼憲法をめぐる保革の対立ーその論争の起因としての江藤淳氏の有名な「1946年憲法の拘束」論を取り上げていて興味をひく。江藤氏は「憲法へのアメリカの介入があり、交戦権不承認の条項を入れ込んだことが日本人を意識的、無意識的に拘束」しているとして、憲法への疑義を提起したのだ。河合氏もこれを全否定はしていない。一たびは評価し共感を表明したうえで、「その結論は急ぎすぎの感を持たざるを得ない」とし、「西洋的父性を日本的中空構造の中心に据えようとする」ことに、強い危惧を表明している。それは日本的母性と対極にあるものだといえばわかりやすいかもしれない▼これらの論争が取りざたされたのは昭和56年。公明党が安保政策で現実路線に大転換をした頃だ。河合氏は江藤氏及びその主張に与する流れに対して「西洋的父性の論理へとジャンプすることではなく、日本人としてのわれわれの全存在をかけた生き方から生み出されてきたものを、明確に把握してゆこう」と「意識化への努力」を提言している。で、それから35年ほどが経っているが、憲法や防衛をめぐる状況に変化はあるだろうか。保革の対立自体は、いわゆる革新の壊滅で変質した。代わって、今我々の目の前に展開している政治選択上の対立は、大枠では「自公」対「民共」という新たなものだ。ここでは「西洋的父性の論理」に公明党は依拠していないということにだけ留意を促したい。憲法を巡って早急にことを運ぼうとする自民党に対して、もっと議論を深め国民的合意を得ようと言い続けている。防衛についても現実的な対応を進める中で、しっかりと歯止めをかけてきているのは公明党だ。今は亡き河合氏に、「もう少し旧革新への批判を強く書いてほしかった。であれば、もっとクリアな論考になりましたよ」と生意気な感想を述べる一方で、「公明党がある限り自民党に無謀なジャンプはさせませんから」と誓いたい。(2016・5・9)

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世界史が求めた?起き上がり小法師ーエズラ・ヴォーゲル『鄧小平』

日本の外相が中国を訪れたのは4年半ぶりだという。4月30日に王毅氏と岸田文雄氏の会談を報じる新聞を見て知った。ということは、前回の訪問は民主党政権下。今その党は存在せず、安倍第二次政権下では初めてということになる。いかに日中関係が滞っているかの端的なあかしであろう。両国間の課題は数多いが、最大の外交問題はやはり尖閣問題であり、東シナ海をめぐる問題であることに変化はない。それにつけても思い起こすのは、巧妙極まりない言葉の操り方でトラブル拡大を回避してのけた鄧小平元主席のことである▼尊敬する先輩から「最近読んだ本で最も面白く、身につまされる思いがしたのはエズラ・F・ヴォーゲルの『鄧小平』」と巧みにいざなわれた。社会学者の橋爪大三郎氏がインタビューしたもので、上下二巻に及ぶ重い本編の集約版ともいうべき軽い本である。以前に取り上げた植木雅俊氏との法華経をめぐる対談と同様に、めっぽう読みやすい。「現代中国を理解するための必読書!」と帯に掲げてる通りに、大いなる手引きをしてくれる。昭和40年代から中国問題に関心を持ってきた身としても、待望の著作であることは間違いない。もはや本編にあたろうかとの根気は萎えがちであるがゆえに、「その生涯と業績の大事なポイントをすべて盛り込むもの」との触れ込みは有難い▼私は鄧小平氏に一度だけだが北京の人民大会堂で会ったことがある。幾たびとなく失脚と復活を繰り返し、中国の「起き上がり小法師」と半ば揶揄され、尊敬もされてきた人物だが、その印象はあまり快いものではなかった。したたかで狡猾なやり手というのが顔と小柄な体全体から醸し出された率直な雰囲気だった。あれから40年近い歳月が経って、中国を今日の名実ともに巨大な存在に仕立て上げたのが鄧小平氏だということがわかってみて、初めて自分があまりこの人物のことをわかっていないことに気づく▼橋爪氏に「二〇世紀後半から二一世紀にかけての世界史にとって、もっとも重要な人物だ」と言われてみて改めてそのスケールの大きさに気づいたような気がする。鄧小平氏は「共産党よりも国のために」という考え方できた、とのヴォーゲル氏の捉え方は正鵠を射ていると思う。尤も、その考えが「中国のためよりも世界のため」であってほしいというのはあまりにユートピア的すぎるだろう。しかしながらなかなか世界史的人物が出てきそうにない隣国の住民としては固唾をのむ思いで、その後の動向を気にせざるを得ないのだ。江沢民氏への評価など日本から見て違和感を抱くところや、突然に出てくる「パーソンズ」なる学者の名前とか、疑問を持つところもいささかある。が、これは「予告編」ということだから仕方がないのかも。ともあれ本気で中国と向き合うつもりなら、誰しも本編を読むしかないと思われる。 (2016・5・1)

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