自分の所属する団体・創価学会こそ平和を作りゆく主体者であり、担い手だと私は確信している。ところがそうではないとか、すくなくともそうではなくなる可能性があると指摘する論考がこのところ散見される。東京工大教授で政治学者の中島岳志、東大名誉教授で宗教学者の島薗進のお二人は昨今急速にそういった姿勢を示されている。このご両人が対談された『愛国と信仰の構造』を読んで、様々な意味で啓発もされ、驚きもした。いわゆる「アンチ」の立場を取ってきた人たちの主張ではないだけに、その指摘は傾聴に値しよう▼幾つもの興味深い視点が提示されているが、ここでは二つに絞る。まず第一に近代150年の捉え方を挙げたい。中島氏は、社会学者の大澤真幸氏の「日本社会25年パラダイム変換説」を取り上げ、戦前、戦後の75年をそれぞれ三つの時代区分に分けて比較し、分析している。これは作家の半藤一利氏の「40年日本社会変換説」よりもさらにきめ細かく悲観的だ。1868年の明治維新、1894年の日清戦争勃発、1918年の第一次大戦終了までが戦前の3期の仕切り。一方、戦後の3期は1945年の第二次大戦の終結、1970年頃からのジャパンアズナンバーワンを経てバブル絶頂まで、そして1995年の阪神淡路大震災、オウム真理教事件から今日までと続く。この説を推奨する人たちは戦前と戦後の類似性を強調し、これからくる三期の終わりには「社会の基盤のもろさが表立って」きて、「国内全体が言いようのない閉塞感に苦しむ」ことになるという。いささかこれは”予定調和的思考”が過ぎると思うのだが▼第二に、戦前の仏教と右翼思想との関係、とりわけ親鸞主義との関係だ。日蓮主義については既に北一輝や石原莞爾らとの絡みで、言い尽くされてきた感が強い。一方、親鸞主義はあまり知られていない。三井甲之、清沢清之と言われても知ってる人は少なかろう。「自力」への否定としての「絶対他力」や、大勢順応に居直るという意味での「寝転がる思想」といった展開を知って、おぼろげながら理解はできる。本居宣長の国学の構造と親鸞の思想の類似性。さらには、ありのままの神に随順する「大和心」が「絶対他力」と重なり、日本の全体主義の流れが加速していったとの指摘は興味深い▼宗教、思想が用い方や理解の浅深によっていか様にも変わった側面を露にすることは日蓮、親鸞のケースだけでは勿論ない。だが、日本近代の形成にあって極めて深刻で甚大な負の影響を与えたものゆえ、その仕組みは熟知しておく必要があろう。この本の後半に「愛国と信仰の暴走を回避するために」との章があり、中島氏が公明党の自民党への追随に警鐘を鳴らし、島薗氏が創価学会に対し「国家とは距離を保って活動してほしい」と述べているくだりがある。「よみがえる全体主義」の一角を創価学会、公明党が担いでいるとの”倒錯した見立て”が提示されているのだ。ここは自民党を内側から変えようとし、日本社会の構造変革に関わる際の陥穽に気をつけろ、との注告だと冷静に銘記しておきたい。(2016・5・21)