Monthly Archives: 2月 2017

ひとり一人が繋がることの大事さー山折哲雄『「ひとり」の哲学』を読む

人間の孤独について考え抜き、深い関心を抱く友人から、「自分はもう読み終えたのでいらないから」と言われて本を貰った。山折哲雄『「ひとり」の哲学』である。「親鸞、道元、日蓮、一遍らの生きざまを振り返り、日本思想の源流ともいえる『ひとりの覚悟』ともいえるべきものに光を当てる」という触れ込みだ。その友人はあまり中身に感じ入るところはなかったようだが、恐らく私なら仏教に関心を持っているだけに、読みたいと思うに違いないと見込まれた。有難いこと。ざっと読ませていただいた。それなりに勉強になった。だが、ひとに勧めようとは思わない▼私は19歳で日蓮仏教の門を叩いた。いらい職業としての新聞記者、政治家の道は歩んだものの、創価学会ひとすじの人生である。尤も、前期青年期ともいえる15歳あたりから19歳までに思想遍歴めいたものはないではない。高校時代に倉田百三『出家とその弟子』をかじって親鸞に興味を抱き、友人の勧めで「財団法人天風会」に入り、創始者・中村天風に傾倒したことも。これはヨガの哲学めいており座禅を組み無念無想の境地に入るところは禅宗に似ている。天下に遍く知られているように、日蓮は鎌倉時代に「四個の格言」を表明し、念仏は無限地獄に陥り、禅は天魔の所為であると断定した。鎌倉時代に支配的だった宗教(他に真言、律宗)について、その思想的位置づけをしたわけだ。なぜそういえるのかと、私も「格闘」し続けたが、ここでは触れない▼山折さんは、ひろさちや氏らと並んで仏教を現代にひろく整理し紹介する水先案内人の役割を果たしている。ここではドイツの哲学者カール・ヤスパースのいう「基軸の時代」のひそみに倣って、日本の鎌倉時代における宗教者たちの”乱舞”を対比させている。紀元前800年から前200年の間に、中国やインド、西欧世界に次々と哲人たちが出現、人類最大の精神変革期を形成したが、日本では、親鸞、道元、日蓮、法然、一遍らが登場した13世紀がそれにあたるというわけである。さらに山折さんは、これらの宗教者たちは「その生涯においてひとりで立つ気概をみせ、ひたすらひとりの命に向き合い、その魂の救済のために献身し、語り続ける人生を送っていた」とする。この流れは近代日本の夜明けに一人立った福沢諭吉へと行きつくわけだが、この書では殆ど掘り下げてはいない。前記の鎌倉の巨人たちを追うために旅にでて足跡を探るなど、いかにも売れっ子の本づくりの常とう手段めいていて安易な匂いがする▼彼が言わんとするところは現代日本人に垣間見える「ひとり」や「孤立や孤独」を嫌う風潮だ。確かに「自助・共助・公助」はひたすら助けを求める構図であって、自ら一人立って立ち向かう意図を感じさせない。なにかにすがろうとする柔な姿勢そのものである。福沢の言った「独立自尊」の気風はひたすら影が薄い。現代における「つながる」ことの魅力に触れていないのも物足りない。独立、自立なくしてただ群れるだけであってはならぬ。尤も、ひとり立ったひとびとが相互につながるときの力たるや壮絶なものがある。今、世界中に日蓮仏法の系譜を受け継ぐ人々がSGI運動に嬉々として馳せ参じている姿には眼を見張らせられる。親鸞や道元の流れは「ひとり」に寄り添うものではあっても、日蓮の「ひとり一人」を強力に繋げ束ねる力には遠く及ばない。鎌倉期の宗教者たちの現代世界への影響力に、つい思いをはせてしまった。(2017・2・25)

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塾歌の由来から破天荒な青年期に再会ー福沢諭吉『福翁自伝』を読む

先日、姫路慶應倶楽部の新年会があり、そこで慶應福沢研究センターの都倉武之准教授のミニ講演を聴く機会があった。その中で、慶應塾歌の冒頭部分にある、「見よ風に鳴る 我が旗を 新潮(にいじお)よする 暁の 嵐の中にはためきて 文化の護り 高らかに 貫きたてし 誇りあり……」という歌詞の由来を知った。実はオランダがナポレオンのフランスに敗れ、世界中から後退した時に、唯一長崎出島においてのみその国旗がはためいていたという史実に基づいているというのだ。『福翁自伝』に書いてある、と。これと、幕末動乱のさなかにも揺るがず学問に傾倒した福沢・慶應義塾の姿を、作詞家の富田正文さんがリンクさせたのだ、という。不覚にも全貌を知らなかったのを恥じ、実に50年ぶりに『福翁自伝』を紐解いた。ぐいぐいと引き込まれてしまった▼改めて福沢諭吉というひとがいかに自由闊達な青年時代を送ったかについて知った。酒好きが半端ではない。青年期における乱暴狼藉の場面の連続には呆れるばかりである。そうしたところだけを読むとおよそ後の”教育者”らしからぬ振る舞いに驚く。近代日本を代表する真面目な思想家といったイメージには程遠い。「開国か攘夷か」と、まなじり決した「テロ」まがいの風潮が横行した幕末激動期。そんな時に一方に押し流されぬ無類のバランス感覚で、ひたすら未来に目を向け、洋学を学び続けた。ところが、福沢はそんな自分を「臆病」ものに描く。夜道。向うから怪しげな人物が歩いてきてすれ違う際の心理描写の巧みさ。すれ違った後、お互いに一目散に逃げたというのだから。随所にこうした漫画チックな福沢諭吉が現れ、滅茶苦茶に面白い▼漢学、儒学一辺倒だった時代から洋学へと流れが変わる転換期に、先駆けの役割を果たしたひと。洋学への異常なまでの関心、傾倒ぶりを除けば、本当に親しみやすい普通のひとだったということが分る。学問の師・緒方洪庵に対する敬愛の念は、ひとの世における師弟の重要性を気付かせられる。家族に対する並々ならぬ思い入れも大いに胸を打つ。惜しむらくは、大いに端折って書かれていること。たとえば結婚からこどもを授かられた辺りが出てこないのは物足りぬ。また、差別用語が平気で書かれているあたりも、「天はひとの上にひとを作らず。ひとの下にひとを作らず」との名言を編み出したひとにしては、いかがなものかと首をひねってしまう▼我が青春の曙期に、この本を読んでそれなりに感動した。その後、『学問のすすめ』から『文明論の概略』へと読み進んだものだ。「政治の実際」には背を向け、新聞を出し、評論を書き、大学を経営して青年を訓育した福沢。そんなひとに憧れた頃から半世紀が経った。とっくに福沢の歳を超えてしまった。彼が生きた「慶応」から「明治」という時代の持つ意味を、今ごろになって改めて真剣に考えようとしている。「そんなことして何になるんや、もう遅い。あほか」との声が聞こえてくるのに。(2017・2・19)

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20世紀をもう一度やり直す、とはー宮家邦彦、佐藤優『世界史の転換』を読む

先週ご紹介した宮家邦彦氏との懇談の際に、同じ外務省出身の佐藤優氏のことが話題になった。彼がいかに創価学会、公明党への理解が深いかについて、つい力説してしまった。宮家さんは、それには直接触れずに「彼とは対談本を出していますからね」とのこと。ウーン。まことに恥ずかしながら佐藤優さんが凄まじい勢いで次つぎと色んな人との対談本を出しておられるので、うっかり見過ごしていた。正直に告白すると、いささか食傷気味になっていたことは否めない。所望したこともあって、直ちにその新書『世界史の転換ー常識が通じない時代の読み方』が送られてきた。『トランプ大統領とダークサイドの逆襲』と併せて立て続けに読むことになった▼この本の読みどころは、「ISやアル・カイーダなどイスラム過激派がついに西側諸国に対する『世界イスラム革命戦争』を始めた」(佐藤)ということに尽きよう。シリアやイラクで追い詰められつつあるかにみえるイスラム過激派がこれからどう動くのか。極東の島国に住む我々とて無関心では到底いられない。その行方をめぐり「新たなジハード(聖戦)拡散の活動拠点は、フェルガナ盆地」(宮家)と断定していることは興味深い。「ウズベキスタンとキルギス、タジキスタンの国境線がジグゾーパズルのように複雑に入り組み、周囲を天山山脈の山々が取り囲む」ところだと。この戦争の行き着く先についてはさすがにご両人とも曖昧にしている。予断は許されないということなのだろうが、より不気味だ▼全編を通じて強く迫って来るのは、欧米の衰退であり、これまでの世界秩序が終わりを告げようとしていることだ。「『国境のない欧州』という夢は崩れる寸前で、通貨ユーロも風前の灯」との共通認識は「幕開け」であって、次はどうなるのか。「ポスト冷戦時代が終わったいま、私たちは、二十世紀をもう一度やり直していて」いて「現在の混沌とした国際情勢の中で、新たな秩序が形成されて落ち着く。そこからほんとうの新世紀が始まる」(佐藤)という。ここはさりげなくかかれているが、読み飛ばせない。「二十世紀のやり直し」とは「世界大戦のやり直し」を意味するからだ。しかも前世紀のそれと違って、新たな世紀の戦は「西欧文明対イスラム文明」の様相となる気配が濃厚で、それはまさに「世界史の転換」の一大構成要因を意味するものと思われる▼私たちは若き日に、師匠・池田先生から「地球民族主義」の大事さを教えられ、「等距離中立外交」の必要性を学んだ。新しき世紀は「東洋の仏法思想」を中心に据えた時代にせねばならないと夢を育んだものである。つまり、それこそ真の意味での「世界史の転換」を果たす担い手であることを自覚したものだった。あれから50年。もし時代が宮家さんや佐藤さんがここで語っているように展開していくなら、それは私たちが無責任だからだとさえ。ギリシャ哲学とキリスト教との合体による「西欧思想」は明らかに破たんの色が濃い。それを補い新たな世紀を引っ張るに足る思想は、「日蓮仏法」でしかないことを改めてかみしめたい。(2017・2・8)

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