Monthly Archives: 8月 2018

(270)防衛通への変身に見る政治家の真骨頂━━佐瀬昌盛『むしろ素人の方がよい』を読む

 先年、徳島商業高校を表敬訪問した際に、森本泰造校長(当時)が校庭の一隅にある三木武夫元首相の顕彰碑に連れていってくれた。思わぬ喜びだった。三木は、「三角大福中」と呼び慣わされた自民党の領袖のひとりでありながら「クリーン」を売り物にした特異な政治家だった。私が選挙戦で二度まみえた河本敏夫(元通産相、元経企庁長官)の政治家としての師匠筋にあたっていたからでもある。偶々読みさしにしていた佐瀬昌盛『むしろ素人の方がいいー防衛庁長官・坂田道太が成し遂げた政策の大転換』の中でしばしば登場していたことも手伝った。

 書棚に逗留していたものを、一気に読み進めることになった。もちろん、この本における主人公は三木武夫ではない。坂田道太である。一般にはあまり知られていない人だが、厚生、文部、法務の各大臣、衆議院議長を歴任した間に防衛庁長官に就任した。その時の首相、つまり任命者が三木武夫だったのである。佐瀬昌盛は長く防衛大学校の教授を務めた人で、『(新版) 集団的自衛権』(同名の著作がある)を解説させてこの人の右に出るものはいない。精密な論理構成に基づく論争力には定評がある。その佐瀬が坂田への限りない愛着の思いを込めて書き上げた本がこれである。

 「専門家の防衛論から国民の防衛論へ」と引き寄せ、「戦後日本の防衛政策と自衛隊を振り返る一冊」として読まれるべき名著だと思う。単に「防衛」に関する造詣を深めるために役立つだけではない。政治家という存在を考えるうえで、この人こそ目標とされるべき人物かもしれない。丸眼鏡で長身、学者然とした坂田はいわゆる文教族で、防衛畑とは無縁の人であった。その彼が昭和49年末に長官に就任以後、「防衛を考える会」を発足させ、そこでの学者、文化人らとの議論を通じて、自ら猛烈な勉強を始めた。やがて「防衛」に成熟し、そして精通していった。

 その結果、「所要防衛力構想」(状況に応じて対応するもの)から「基盤的防衛力構想」(あるべき基盤を形成するもの)へと、防衛政策の大転換を成し遂げた。それだけではない。防衛力整備計画を改めて『防衛計画の大綱』を策定、『防衛白書』の作成から日米防衛協力の枠組み作りをも推進したのである。在任期間は歴代最長の747日(庁と省を跨いだ石破茂を除いて)。その間に、ロッキード事件が発覚。いわゆる「三木降ろし」騒動やら、ミグ25機が函館空港に強行着陸する問題が起こった。

●文学青年の面影漂うエピソード

昭和51年末の三木内閣退陣と共に、坂田は離任するのだが、実は公明党もこの年、党内での防衛大論争でてんやわんやだった。挙句に「自衛隊を認める」など防衛政策の〝小さいが確かな〟転換を成し遂げた。市川雄一元書記長(当時安保部会長)の英断によるものだった。「防衛費のGDP1%枠」など、この頃決められた国の方針を巡っての論争を、懐かしく思い起こす。自社二党による〝不毛の防衛論争〟と揶揄られた時代から、与野党間の多少は噛み合う議論への転換期でもあった。

 佐瀬の筆致は限りなく坂田に対して優しい。あまりにも酷い昨今の政治家の堕落ぶりに比して、その姿勢が屹立して見えるからだろう。三木首相への風当たりの強かった頃に、中立を貫く記者会見をする場面や、シュレジンジャー米国防長官の二度に及ぶ訪日を通じての人間的交流。坂田の奥深さが滲み出るかのように描く。言葉を重んじる政治家の真骨頂とでも言うべきスピーチや数々の文章の紹介も胸を打つ。何しろ、シュレジンジャーとの招宴での冒頭に「会いたい会いたいと待ち焦がれていた人に会えてその喜びを噛みしめているというのが今の私の気持ち」と挨拶をしたという。

 「こんなに純粋に自分の気持ちを会談相手に語った防衛大臣は坂田を措いてはいない」など、文学青年の面影を漂わすエピソードの数々は心和む。坂田は人から揮毫を請われると「人が先、自分は後」と書いた。人を押しのけて前に出ることを厳しく戒めたのだ。これは数学者・岡潔の『春宵十話』からの借用に端を発している。こうした余談も、坂田の人となりを彷彿とさせて余りある。佐瀬はこのあたり、「前へ出たがるタイプだった三木武夫」との相違をさりげなく書き込んでいる。ともあれ、私は、この本から政治家のあるべき姿を真底教えて貰った気がする。(敬称略)

【他生のご縁 佐瀬昌盛対中嶋嶺雄の対決の帰趨】

佐瀬正盛さんとは一度だけ、重要な出会いがありました。中嶋嶺雄先生と佐瀬さんとの某総合雑誌上での論争を巡って、私の感想を伝えたのです。一言でいえば、勝負は佐瀬さんの勝ち、だったと。これには当然ながら、満足そうにうなづかれたのが印象的でした。

私としては、自分の学問上の師の負けを認めざるを得なかったのには辛いものがありました。しかし、それを補ってあまりある論旨展開の佐瀬さんの見事さには天晴れという他なかったのです。

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(269)観光・日英論争を仕掛けたくなるーデービッド・アトキンソン『新・観光立国論』を読む

先日淡路島で開かれたシンポジウムでは、デービッド・アトキンソン氏による講演がお目当てだった。今が旬の観光評論家(私の勝手な命名)である。元ゴールドマンサックスのアナリストで、今は小西美術工藝の社長が本業。日本の国宝や重要文化財の補修を手がけている。そして、日本の伝統文化財をめぐる様々の改革提言を行政に働きかけ、そのことを通じて観光の重要性を随所で呼びかけている。シンポジウムの見聞録はついこの間の私のもうひとつのブログ『後の祭り回想記』に「『変な外人』の素晴らしすぎる洞察力」と題して掲載したばかり。そのシンポジウムが終わった際に、会場で私は名刺交換した。「元衆議院議員です。あなたのことは、二階自民党幹事長から貰った『イギリス人アナリスト  日本の国宝を守る』を読んで知りました」と伝えたものだ■その際の彼の講演があまりに聞き応えがあったので、つい3年前に出版された『新・観光立国論』を図書館で借りてきて読んだ。中身は当然ながら、あの日の講演とほぼ同じ。人口減が進む日本は産業としての観光業を打ち立てないと、とても生き残っていけない。気候、自然、文化、食事と観光に大事な4条件を全て持っていながら、その活かし方に気づいていないというもの。高級ホテルが不足している、文化財が活用されていない、おもてなしは観光の動機にならないなどの講演コンテンツもほぼ一緒。こう、比較して見ると、3年間、観光分野で全く日本は進歩していないということになる。私が議員を辞めてからのこの5年間、著しくインバウンドが増えているというのに、である■「少子化が経済の足を引っ張る日本。出生率はすぐには上がりません。移民政策は、なかなか受け入れられません。ならば、外国人観光客をたくさんよんで、お金を落としてもらえばいいのです。世界有数の観光大国になれる、潜在力があるのですから」という主張は、魅惑に満ちていよう。観光業に関わってほぼ3年、理屈は分かってきていても今一歩実践がついていかない私にとって、ー極めて示唆に富む内容の本ではあった。そんな折も折、公益財団法人・大阪観光局の理事長を務める溝畑宏さんに出会った。この人、自治省出身のれっきとした高級官僚でありながら、2002年に大分県に出向して、フットボールクラブの代表となっていらい、2008年にはJリーグナビスコ杯優勝に導くなどの力を発揮。2010年には民主党政権時の国交省観光庁長官に就任した。そして、今の立場には3年前から。アトキンソン氏の本が出た頃と一致する■これまで二度ほどお会いしたが、なかなか元気というか、歯に絹着せぬもの言い振りが気持ちいい。尤も、それ故に敵も多かろうと、我が身を顧みず、心配もしてしまう。三度目となった先日の出会いでは、低迷を続ける淡路島のインバウンドに向けて、アドバイスを頂く趣旨が狙いであった。高級志向を持つ外国人富裕層に焦点を絞っていくコンセプトの確立を強調された。具体的には明2019年のラグビーのワールドカップ大会に東大阪、神戸を目指してやってくる、イングランド、アメリカ、ニュージーランド、スコットランド、オーストラリアなどといった国々のサポーターに目をつけよ、というのである。ラグビーの世界大会が日本であるということは漠然とは知っていたものの、それに観光のターゲットを絞るなどとは思いもしなかった。我が身の至らなさに身がすくむ思いだった。先方は大阪へのインバウンド客の激増に気を吐き、来るべき大阪万博やIR(統合型リゾート)の誘致に向けて意欲を燃やしているとあって、意気揚々。私が話の中で、アトキンソン氏のことを持ち出すと、「あんな外人なんか(の言うことを信じるの)」と一蹴された。日本の関西方面の観光客増にひと肌もふた肌も預かってるとの自負心が言わしめたのだろう。さて「観光・日英論争」、どちらに軍配が上がるか。そのうち直接対決でも仕掛けて見るか。(2018-8-19)

 

 

 

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(268)「今」を解き明かす飽くなき挑戦ー諸井学『種の記憶』を読む

芥川賞や直木賞など文学にまつわる賞が話題になるたびに、こうした賞の獲得目指して、せっせと小説の執筆に励んでいる友たちを思い起こす。「いい加減に諦めたら」って思う一方、それを目指す生き方そのもが彼らの人生なんだろうから、周りからあれこれ余計なことを言わぬ方がいいに違いないと自戒もする。たまに、読んで欲しいとどこかの出版社に応募したゲラのコピーを戴いて読み始めても、最後まで読み通す根気が続かない。応募小説をいっぱい前にして審査する作家達の苦労が偲ばれるというものだ。そんな折に、一味もふた味も違う作家に出会った■長く付き合ってる電器店主から、自分の同業者に小説書きがいるので会わないかとのお誘いを受けた。その人とは、姫路の文学誌『播火』にいつも寄稿している同人・諸井学さんだ。ネットで、彼が『種の記憶』なる著作を出版しているという予備知識だけを持って、待ち合わせた沖縄料理の居酒屋へ出かけた。7月の25日のことである。ふくよかで笑みをたたえた 商店主風の男が現れた。今年2月に出版された『ガラス玉遊戯』と併せて2冊戴いた。両方とも印象に残る写真を使った見事な装丁。発行所は長野県。発売元の出版社は東京都にある。姫路東高を経て、名古屋工大で金属学を学び、今は電器店を営みつつ小説を書いている、と。独学で「小説」作法を身につけてきたとの言い振りから強い自信が伺えた。話し込むにつれてその奥行きの深い人となりが迫ってきた。初対面で充たされる思いを持つのに時間はさほどかからなかった■諸井=モロイ。アイルランドの生んだ巨大な作家・サミュエル・ベケットの代表作『モロイ』から学んだと、ペンネームに掲げるだけあって、ベケットへの思い入れは相当なものだ。私が、司馬遼太郎の『アイルランド紀行』を携えて、ダブリンに飛び、僅かな時間を過ごした時に偶然出会ったのがベケット研究で名を成す岡室美奈子早稲田大教授(坪内逍遥記念演劇博物館館長)であった。それ以来、ベケットについて表面的には撫でてきた。が、恥ずかしながら『モロイ』については全く知らない(「諸井」より「脆い」にイメージ的親近感を持ってしまう)。岡室教授についてそれなりに関心を持ってる彼に、その場で直ちに電話をして紹介の労をとったことは言うまでもない。ここらで辛うじて面目を施そうとする我が身がいじらしい■勧められるままに『ガラス玉遊戯』における同名の章からまず読んだ。いやはや酷い。全編これ、うんこ、便所の糞壺などの連続。ビー玉のおしゃぶり場面が登場するが、汚いこと夥しい。これが『モロイ』へのオマージュだと「あとがき」で聞かされてももう遅い。「糞尿譚を嫌う向きもあることは重々承知していますが、その中に人間存在の本質があり、またユーモアもあるゆえ、創作に必要な場合は避けることはできません」と言われても、臭さと気持ち悪さが残るだけ。後味がこれだけ悪い文章を読まされたのは初めて。よほど途中で放棄しようかと思ったのだが、そこは作者と会ってしまって本を戴いた弱みがある。もう一冊の方を読みだした■まずは単細胞生物、無脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類・鳥類、霊長類・類人猿、霊長類・猿人と7段階を、7つの章に描き分ける手法に惹きつけられた。自分の生まれてからの成長過程を「種」としての変化に擬えるとはユニークだ。曲がりながらもジャーナリストを経て、政治家を志したわたしとしては、リアルさを追い求め、フィクションではなくノンフィクションに我が身を託してきた。新聞記者時代原稿取りに伺った、源氏鶏太氏に創作の奔放さを垣間見、初めての衆議院選挙出馬の際に応援に来てくれた宮本輝さんに、後になって「小説家って嘘つきでないと務まりませんよね」と大胆にも問いかけたりした。親しくお付き合いさせていただいている直木賞作家・中村正軌さんの『元首の謀叛』や、イタリアにまで議員時代に会いに行った塩野七生さんによる『ローマ人の物語15巻』の想像力の逞しさに感服し、舌を巻き続けてきた。そんな私には、諸井さんの本を読むことにはいささか苦痛が伴う。だが、当初はいやいや読み始めたが、次第にその不思議な魅力に捉われ、引き込まれていった■それにはほぼ同時代に同じ姫路で育ったもの同士共通の土地勘や、豊富な文学や音楽の知識の披瀝も相俟って、興味を繋ぐのに十分だった。リズム感のある文章や名古屋弁の面白さが手伝ったことも付け加えておく。諸井さんは、あとがきで、ベケットは、「余剰な言語を削り自らを貧しくした作品によって(師のジェームス・ジョイスのモダニズム文学とは違って)、後のポスト・モダニズム文学を準備した」が、自分は、「『種の記憶』によって、もちろんベケットとは違う形ではあるけれど、彼と同じ立ち位置からわたしの文学を出発させると、密かに宣告した」と、述べている。その心意気たるや凄いという他ない。彼のこの本を読み終えた今、その表現ぶりと我が認識の貧困さとのギャップに悩みはする。モダニズム文学もポスト・モダニズム文学とも無縁できたものとしては、当然のことだろう。老いて今も文学的挑戦に気を吐く彼から学ぶものは甚だ多い。(2018・8・12)

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(267)多一主義と人間主義の現実的展開ー松岡幹夫『日蓮仏法と池田大作の思想』を読む

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