Monthly Archives: 8月 2019

自民党本部での講義録ー山内昌之 細谷雄一編著『日本近現代史講義』を読む

副題の「成功と失敗の歴史に学ぶ」と、帯にある〝基本が身につく14講〟に惹かれて購入した。山内昌之氏と細谷雄一氏の編著による『日本近現代史講義』である。最も面白く読めたのは、序章の山内氏による「令和から見た日本近現代史」。第2章も著者の率直さが気に入った。あとはいささか平板であり、気合いが入っていないと言わざるをえない。どうしてそういうものが多いのかと疑問を持った。「おわりに」を読んで、合点がいった。自民党本部での「歴史を学び未来を考える本部」での講義(2015-12〜2018-7)をもとにまとめたものだからである。「(日本の政治家が選択してきた道を)虚心坦懐にそのような過去の軌跡を学び、政治家がどのような選択を行ってきたのかを知ることが肝要だ」と、いみじくも細谷雄一が、あとがきで書いているように、これは入門編であって、「よりいっそう深いもの」「よりいっそう視野の広いもの」となることは今後の課題とされている▼それでも興味深かった章は、序章と1章、2章の三つがあげられる。特に序章の山内昌之の論考は実に魅力に溢れている。かつて私が師事した永井陽之助先生の筆致を思い出せるが如く、古今東西の歴史を自在に掘り起こしつつ、巧みな比喩で鮮やかに比較し、手際よくさばく。この人の手にかかると、平凡な具材を使って美味しく味あわせる料理人を彷彿とさせる。近現代の歴史解釈における誤解の一つは、日本にはこれまで国家戦略がなく、日本人には戦略的思考がないというのは不幸な思い込みだとしているところは惹きつけられた。むしろ「日本人は戦略下手どころか歴史的にすこぶる高度な『戦略文化』を駆使してきた」(エドワード・ルトワック)との引用まで持ち出している。そう、この400年における「完全な戦略的システム」を作り上げてきたリーダー・徳川家康を礼賛しているのだ。家康と江戸時代を再評価する向きは近年少なくないが、山内氏も「稀有の軍人政治家」として「総合力」を評価し、カエサルやナポレオンに勝るとも劣らないかの如く持ち上げているのは実に新鮮な印象を持つ▼また第1章の「立憲革命としての明治維新」は著者の意図とは別に、今の憲法論議を想起しつつ読むと興味深い。「明治における立憲体制の確立は世界史的な意義を持って」いるとして、「これから立憲制度を導入しようとする国」や、「制度は導入したがうまく機能していない国に対して、何がしかの助言ができる立場にある」と述べている。確かに明治維新とその後の国作りはそれだけの「知的資源」を有している。だが、それからほぼ半世紀後における敗戦時の憲法の作られ方および、70年後の今に至る憲法に対する日本人の向き合い方は、およそ「知的資源」を感じさせないと言う他ない。この章を読みながら、改めてつい先程私自身が産経新聞のインタビューで答えたあれこれのことを想起せざるをえない▼また、第2章の「日清戦争と東アジア」も極めて刺激的だった。「朝鮮戦争がまだ正式に終戦を迎えていない」現状において、「日清戦争はいまなお、終わっていない」とする捉え方は、日中間の現状を見るにつけても示唆に富んでいる。著者・岡本隆司氏が「歴史的な『相互理解』の欠如を」あげているくだりは、率直な物言いで好感が持てる。「その言動(大陸と半島としているが、中国と朝鮮半島に違いない)が往々にして理解できない。これはいま現在だけではなく、歴史を読んでみてもやはりそうなのであって、極端にいえば、勉強すればするほど、わからなくなる、という世界である」という。加えて「けっきょく本章は、歴史を教えている教師が、歴史にもっと目を向けて欲しい、というごく平凡な願望の吐露に終わってしまった」とも述べている。歴史を学びつつも、現代国際政治や国内政治を追ってきた我が身を振り返るとき、ふと無駄なことに人生をかけてきたなあとの寂寥感を持つ。国家の興亡などを追っても意味があったのかと。(敬称略=2018-8-29)

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仏教の女性蔑視という誤りー植木雅俊『差別の超克』を読む

植木雅俊氏といえば、今をときめく仏教思想研究家。去年の4月にNHKのEテレ「100分で名著シリーズ」に『法華経』で登場、好評を博したので、ご覧になられた方も多かろう。この11月には再放送される運びというから、見逃された向きには嬉しい知らせと思われる。ところで、この人の数ある著作の中で、最も初期の頃のものが『差別の超克』である。副題は、「原始仏教と法華経の人間観」。このタイトル、少々近寄りがたい。これでは皆が敬遠するに違いない。簡単にいうと、仏教は女性差別の教えではない、となるのではないか。これは読むにあたって著者の周辺を探ってみた結果の私の直感的まとめである▼仏教が女性蔑視をしていたという説があるそうな。それは根拠のないことではない。ただ、釈迦がそう説いたのではない。釈迦滅後の保守・権威主義者たちが差別し始めたのを、あたかも釈迦の主張のように歪めて伝えられたものだという。そのことを微に入り細にわたってきっちりと捉えて解説したのがこの本である。この辺りのことについて興味のある向きには必読の書だといえよう。ただ、私のような少々へそ曲がり的女性崇拝者は、あまり関心を抱かなかった。尤も、読んでみてなるほどと納得したことは多い▼こんな話がある。先年、近くの県立大に岡山県から入学したばかりの新入女子学生たちと懇談した際のこと。私が「男はみんなオオカミだよ。男女交際には気をつけてね」などとつい余計なことを口走った。すると、そばに居合わせたある女性起業家が「それはちょっと違うのでは。今は男子学生は意気地がなく、女性の方がよっぽど狼かも」ときた。それが証拠の一例として、受験時に、勉強が出来そうな(つまり賢そうな)男子学生のそばにいた女子がチラリチラリとスカートを上げて、動揺を誘うという話を披露したのである。戦後強くなったものは靴下と女性と、その昔に言われたものだが、遂にそこまできたかとの実感がする▼こうした時代状況の中で、仏教の女性蔑視などということを取り上げること自体、果たして意味があるのかと思ってしまう。返って、仏教の後進性との指摘を招き、藪蛇にならないのかと。そう思って、長きにわたって、植木雅俊さんの本の中でこれだけは敬遠してきた。で、今読み終えてやはりその感は拭えないのだが、仏教の歴史の中での捉え方はよく分かった。少し注文させてもらえば、キリスト教やイスラム教との比較の中での人間観、女性観を明らかにしてくれればもっと良かったと思う。ところで、この11月から京都と大阪のNHK文化センターで植木さんによる仏教講座が始まる(1年間)という。京都では『法華経』、大阪では『仏教、本当の教え』が教材だとのこと。そこでは植木さんにはぜひ、「法華経、本当の教え」を講義して欲しいと思うのだが、どうだろうか。(2019-8-21)

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四国遍路と幼児誘拐事件ー柚月裕子『慈雨』を読む

定年退職した警察官・神場が妻とともに四国八十八ケ所のお遍路旅に出る。その旅の最中に彼が現職だった群馬県警の所轄で、少女誘拐事件が起こる。後輩たちと協力しつつ、事件解決に意を配りながら続けるお遍路。16年前に自らが捜査に携わった事件と酷似していることが痛烈に心を疼かせる。曖昧かつ不確かな終わらせ方をしてしまった以前の事件と新たな事件との間に、もし繋がる背景があるなら、第三の事件がまた起こるかもしれない。殉職した仲間の一人娘を養女にしていた神場夫婦。後輩の刑事・緒方がその養女と愛し合う仲に。警察官という過酷な仕事と家族という愛の結節場の絡み合いの難しさ。徳島から高知、愛媛を経て香川へ。巡礼の旅のゴール直前に一気に解決へと事件捜査は展開する▼この人の本を読むのは2冊目。最初に読んだ『孤狼の血』はとてつもなく迫力があった。同名の映画は、かつて興奮して見た映画『仁義なき戦い』に勝るとも劣らない内容だった。女性の作家とは俄かに信じがたいほどというと、パワハラになるかもしれぬが、ハードボイルドそのものの作品だった。今度読んだ『慈雨』は新聞広告につられて読んだもの(いきなり文庫本発売が嬉しい)で、読み終えての手応えはまずまず。女性らしい視点が随所に窺えるきめ細やかな配慮が読み取れる作品ではあるが、人物の描き方がやや淡白かもしれない。中心人物以外、人物像が今いち印象に残らない。その分、お遍路の周辺のことには詳しい。作者が歩かねばこうは書けないはず▼四国遍路といえば、因果なことに菅直人元首相を思い起こす。宗教的体験を政治に利用した粗忽でいい加減なケースである。日蓮仏法の信徒としては「真言亡国」との日蓮の規定づけが思い浮かぶが、今流行りの地域おこしにとって四国はこれ無くして語れないから厄介だ。総本山の高野山は今やインバウンドの聖地の感すら漂うが、お遍路は距離からも数からいっても遠く、かつ対象が多すぎるかもしれない。このところ徳島に行く機会が多く、後学のためにと一番寺の霊山寺には行ってみたものの、今関わっている美波町の薬王寺には外見だけでとても行く気にはならない。そういう風にこの本におけるお遍路の描き方には興味がないわけでは無かった。だが、このことは事件の本質と全く関わらない▼幼児誘拐殺人事件はこのところ頻発している。いたいけな少女を誘拐し性的な陵辱を加えるなどして、死に至らしめるなどといったことはおよそ許しがたい犯罪である。この手の犯罪者が繰り返す心理や、全国の刑務所におけるこうした犯罪で刑に服する者たちの数などあれこれと語られる。私はこうした犯罪のディープな描かれ方にはとんと興味がない。悲惨な現実、目や耳を覆いたくなるような場面は生理的に受け付けない。大嫌いだ。「お家に帰りたい」という幼女の言葉を聞いただけで胸塞がる思いだ。この小説はむしろそういうことよりも、夫婦の情愛、親子の心理、職場の厚情などに注目すべきくだりが多いかもしれない。この夏休みに訪れた姫路市北部の安富町にある日本で唯一の坑道ラドン浴・富栖の里の洞窟で、これを読みふけった。そしてひとっけが全くない田舎のログハウスに泊まった。夜の夜中に夢の中で、窓から覗き込む人影を感じて目を覚ました。不気味で気持ちが悪かった。昼間読んだ小説の場面からの影響だった。真夏の夜の出来事にしてはまったくできが良くない。(2019-8-10)

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2019年8月10日 · 7:49 AM

誘われる村上春樹との比較ー夏目漱石『それから』を読む

第一巻から読み進めてきた漱石全集も第6巻となった。『それから』である。漱石の小説のタイトルは凝ったものや単なる思いつきのものなど、色々とあるが、これは動的な印象を与えるだけ良い部類に属すると思われる。『三四郎』から『門』に至る漱石の前期三部作の中間に位置するもので、さあ、それからどうなるのかって、発表当時には新聞小説の読者に期待を抱かせたに違いない。男女の出会いから始まって別れに至るまでの種々の類型を描いたものとして、興味深く読める。ここでは『それから』に見る、漱石文学と村上春樹文学との類似性やら異質性などほんのチョッピリ感じたままを述べてみたい▼まず、この小説のあらすじを超戯画化的に要約する。主人公(代助)は、友人に自分が好きだった女性を斡旋して結婚させてしまう。ところがその二人の仲が良くないと見るや、かつての自分の思いを復活させ、その女性に言い寄る。彼女もこれを受け入れる。という筋立てを知った友人は主人公の父親にその非を訴える。30歳を越えて結婚をしない息子に業を煮やしていた親父はその理由を知って激怒し、勘当してしまう。生活の全てを委ねていた父親に見捨てられ、主人公は波のまにまに漂う。およそ乱暴なまとめだが、この間に重要なファクターとして彼女の心臓病という患いが厳然とした位置を占める▼こうした出来事は私たちの周りにも散見されるのではないか。尤も、二人の仲が悪くなることや、不幸を期待しながら、期待ハズレに終わったり、あるいは、言い寄ったところで、受け入れられずに終わるなどといったケースが多い。わたしは最近、村上春樹の小説を時に応じて繙く。100年の歳月を隔てて、漱石と春樹というそれぞれの時代の寵児の小説作法の違いや類似性に思いを寄せてみるのは面白い。この二人の作家、描くところの主人公の人間の佇まいが極めて似通っていることに驚く。風来坊というべきか、全く呑気な自由人が描かれる。「何でも都合のよさそうな時間に出る汽車に乗って、其の汽車の持っていく所へ降りて、其所で明日迄暮らして、暮らしているうちに、又新しい運命が、自分を攫ひに来るのを待つ積であった」ーこういう主人公は春樹のものにも、いつも出てくる。先日取り上げた『騎士団長殺し』や、この間読み終えた『海辺のカフカ』などにも。明らかに春樹は漱石を意識していると私には思われる▼一方、違いといえば、漱石のものには出てくる処世訓じみた記述が春樹にはなく、ひたすら音楽や絵画など現代芸術や風俗に関する蘊蓄が披瀝されるばかり。そして男女の濡れ場が露骨な表現を持って直裁に語られるものと、比喩を通じて回りくどく、時に秘められたように語られるものとの違いも大きい。例によって、『漱石激読』では、「代助の性的な欲望も花に託されています」とか、「当時の内務省の検閲官に読み取れなかった性的な描写が漱石の小説にはものすごく繰り込まれている」と云った風に〝深読み〟が繰り出されて、ただただ圧倒される。それにつけても「心臓小説」であるとか、「植物小説」だとか云われると一体自分は何を読んだのだろうかと、自信喪失に陥ってしまう。(2019-8-6)

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