Monthly Archives: 8月 2019

四国遍路と幼児誘拐事件ー柚月裕子『慈雨』を読む

定年退職した警察官・神場が妻とともに四国八十八ケ所のお遍路旅に出る。その旅の最中に彼が現職だった群馬県警の所轄で、少女誘拐事件が起こる。後輩たちと協力しつつ、事件解決に意を配りながら続けるお遍路。16年前に自らが捜査に携わった事件と酷似していることが痛烈に心を疼かせる。曖昧かつ不確かな終わらせ方をしてしまった以前の事件と新たな事件との間に、もし繋がる背景があるなら、第三の事件がまた起こるかもしれない。殉職した仲間の一人娘を養女にしていた神場夫婦。後輩の刑事・緒方がその養女と愛し合う仲に。警察官という過酷な仕事と家族という愛の結節場の絡み合いの難しさ。徳島から高知、愛媛を経て香川へ。巡礼の旅のゴール直前に一気に解決へと事件捜査は展開する▼この人の本を読むのは2冊目。最初に読んだ『孤狼の血』はとてつもなく迫力があった。同名の映画は、かつて興奮して見た映画『仁義なき戦い』に勝るとも劣らない内容だった。女性の作家とは俄かに信じがたいほどというと、パワハラになるかもしれぬが、ハードボイルドそのものの作品だった。今度読んだ『慈雨』は新聞広告につられて読んだもの(いきなり文庫本発売が嬉しい)で、読み終えての手応えはまずまず。女性らしい視点が随所に窺えるきめ細やかな配慮が読み取れる作品ではあるが、人物の描き方がやや淡白かもしれない。中心人物以外、人物像が今いち印象に残らない。その分、お遍路の周辺のことには詳しい。作者が歩かねばこうは書けないはず▼四国遍路といえば、因果なことに菅直人元首相を思い起こす。宗教的体験を政治に利用した粗忽でいい加減なケースである。日蓮仏法の信徒としては「真言亡国」との日蓮の規定づけが思い浮かぶが、今流行りの地域おこしにとって四国はこれ無くして語れないから厄介だ。総本山の高野山は今やインバウンドの聖地の感すら漂うが、お遍路は距離からも数からいっても遠く、かつ対象が多すぎるかもしれない。このところ徳島に行く機会が多く、後学のためにと一番寺の霊山寺には行ってみたものの、今関わっている美波町の薬王寺には外見だけでとても行く気にはならない。そういう風にこの本におけるお遍路の描き方には興味がないわけでは無かった。だが、このことは事件の本質と全く関わらない▼幼児誘拐殺人事件はこのところ頻発している。いたいけな少女を誘拐し性的な陵辱を加えるなどして、死に至らしめるなどといったことはおよそ許しがたい犯罪である。この手の犯罪者が繰り返す心理や、全国の刑務所におけるこうした犯罪で刑に服する者たちの数などあれこれと語られる。私はこうした犯罪のディープな描かれ方にはとんと興味がない。悲惨な現実、目や耳を覆いたくなるような場面は生理的に受け付けない。大嫌いだ。「お家に帰りたい」という幼女の言葉を聞いただけで胸塞がる思いだ。この小説はむしろそういうことよりも、夫婦の情愛、親子の心理、職場の厚情などに注目すべきくだりが多いかもしれない。この夏休みに訪れた姫路市北部の安富町にある日本で唯一の坑道ラドン浴・富栖の里の洞窟で、これを読みふけった。そしてひとっけが全くない田舎のログハウスに泊まった。夜の夜中に夢の中で、窓から覗き込む人影を感じて目を覚ました。不気味で気持ちが悪かった。昼間読んだ小説の場面からの影響だった。真夏の夜の出来事にしてはまったくできが良くない。(2019-8-10)

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2019年8月10日 · 7:49 AM

誘われる村上春樹との比較ー夏目漱石『それから』を読む

第一巻から読み進めてきた漱石全集も第6巻となった。『それから』である。漱石の小説のタイトルは凝ったものや単なる思いつきのものなど、色々とあるが、これは動的な印象を与えるだけ良い部類に属すると思われる。『三四郎』から『門』に至る漱石の前期三部作の中間に位置するもので、さあ、それからどうなるのかって、発表当時には新聞小説の読者に期待を抱かせたに違いない。男女の出会いから始まって別れに至るまでの種々の類型を描いたものとして、興味深く読める。ここでは『それから』に見る、漱石文学と村上春樹文学との類似性やら異質性などほんのチョッピリ感じたままを述べてみたい▼まず、この小説のあらすじを超戯画化的に要約する。主人公(代助)は、友人に自分が好きだった女性を斡旋して結婚させてしまう。ところがその二人の仲が良くないと見るや、かつての自分の思いを復活させ、その女性に言い寄る。彼女もこれを受け入れる。という筋立てを知った友人は主人公の父親にその非を訴える。30歳を越えて結婚をしない息子に業を煮やしていた親父はその理由を知って激怒し、勘当してしまう。生活の全てを委ねていた父親に見捨てられ、主人公は波のまにまに漂う。およそ乱暴なまとめだが、この間に重要なファクターとして彼女の心臓病という患いが厳然とした位置を占める▼こうした出来事は私たちの周りにも散見されるのではないか。尤も、二人の仲が悪くなることや、不幸を期待しながら、期待ハズレに終わったり、あるいは、言い寄ったところで、受け入れられずに終わるなどといったケースが多い。わたしは最近、村上春樹の小説を時に応じて繙く。100年の歳月を隔てて、漱石と春樹というそれぞれの時代の寵児の小説作法の違いや類似性に思いを寄せてみるのは面白い。この二人の作家、描くところの主人公の人間の佇まいが極めて似通っていることに驚く。風来坊というべきか、全く呑気な自由人が描かれる。「何でも都合のよさそうな時間に出る汽車に乗って、其の汽車の持っていく所へ降りて、其所で明日迄暮らして、暮らしているうちに、又新しい運命が、自分を攫ひに来るのを待つ積であった」ーこういう主人公は春樹のものにも、いつも出てくる。先日取り上げた『騎士団長殺し』や、この間読み終えた『海辺のカフカ』などにも。明らかに春樹は漱石を意識していると私には思われる▼一方、違いといえば、漱石のものには出てくる処世訓じみた記述が春樹にはなく、ひたすら音楽や絵画など現代芸術や風俗に関する蘊蓄が披瀝されるばかり。そして男女の濡れ場が露骨な表現を持って直裁に語られるものと、比喩を通じて回りくどく、時に秘められたように語られるものとの違いも大きい。例によって、『漱石激読』では、「代助の性的な欲望も花に託されています」とか、「当時の内務省の検閲官に読み取れなかった性的な描写が漱石の小説にはものすごく繰り込まれている」と云った風に〝深読み〟が繰り出されて、ただただ圧倒される。それにつけても「心臓小説」であるとか、「植物小説」だとか云われると一体自分は何を読んだのだろうかと、自信喪失に陥ってしまう。(2019-8-6)

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