Monthly Archives: 12月 2019

「常識」を覆される痛快感ー植木雅俊『今を生きるための仏教百話』を読む

10月から月に二回、京都・四条と大阪・梅田のNHK 文化センターで連続して開かれる仏教思想家の植木雅俊さんの講義に出かけている。前者は『サンスクリット版縮訳  法華経』、後者は、『仏教、本当の教え』(共に植木雅俊訳・著)が教材である。既に年内だけで6回にわたって同氏の謦咳に接したことになる。懇切丁寧な講義は、巧みな比喩を自在に使って実にわかりやすい。区切りがくるたびに、「ここまでで何かご質問ありますか?」との問いかけ。参加者からのいかなる疑問にも優しく悠然と答えられる姿勢は見事としか言いようがない。第一回目の梅田教室で、私の挑発的質問ー女性差別などいま取り上げること自体が仏教の後進性を、世に印象付けるだけではないかーにも、込み上げる感情を抑えつつその重要性を説いて頂いた。今となっては我が生意気な不躾さに赤面するのみである▼そんな折、植木さんの人となりが全編に溢れる素晴らしい自伝風・仏教入門書を読んだ。『今を生きる仏教百話』である。ご自身の体験を随所に折り込んだ新聞連載のものに加筆、拡大(50話から倍に)されたものだけに、実に読みやすい。分かったようでいて分かっていない仏教をめぐる「常識」が次々と覆され、まことに面白い。その核心は、「人間として、人間の中にあって、言葉(対話)によって利他行を貫くのが仏教の本来の在り方」で、「その行為自体に人格の完成としての〝成仏〟がある」との記述だと思われる。古めかしい迷信や荒唐無稽な呪術的要素で塗り固められた仏教観が壊される。絶対神、創造主のような仏様や死んでのちに仏様になるのではなく、自己に目覚めた最高の人格完成者としての仏の姿が描き出される▼著者の凄いところは、物理学徒でありながら、40歳を過ぎて通常の仕事をする傍ら、サンスクリット語をマスターしたこと。更に仏教学者・中村元先生のもとで学び、お茶の水女子大で初めて男性として博士号を取得、法華経全訳を試みたことである。そこには中年からの二足の草鞋とか、両刀使いといった表現ではおよびつかない苦闘の歴史があったに違いない。この本には至る所にその苦労談が散りばめられていて興味深い。前人未到といっていい仕事ぶりに、中傷的批判が雨霰のように投げつけられたことへの悔しい思いと、心温まる賞賛への感謝の思いの交錯が読むものの心を掻き立ててやまない。権威の塊のような仏教学者の訳に489もの誤りがある、との著者の発見にはひたすら驚くばかり。罪深い学者の過ちを指弾されているくだりは他にも登場、その都度痛快観さえ湧いてくるから不思議だ▼「文学への影響」と「恩ある人々」の16話からなる最終二章にはまさに心和む。和辻哲郎が法華経研究に取り組んでいたとの話は初めて知った。弁慶と牛若丸の出合いに深く法華経が関わっていたことも。それらを通じて、和辻が「日本の教育の偏りと自らが『法華経』に無知であったことを反省する言葉を綴っている」としたうえで、改めて著者自身も「日本の文化、文学、芸術に与えた『法華経』の影響について学ぶべきだ」と自戒していることには強い共感を抱く。著者の師・中村元先生への厚い報恩の思いは今更取り上げるまでもないが、ここには母上への麗しい心が余すところなく書かれていて胸を撃つ。私の場合は母が58歳の時に、何の親孝行も出来ぬまま別れた。著者は百歳のご母堂に最高の喜びを味あわせてあげており、羨ましい限りだ。私には人生の師と、学問上の師と、仕事の上での師と3人の師がいるが、先年既に後者二人は鬼籍に入られた。人生の師への報恩に全身全霊を尽くさねばとの思いが今、強く漲ってきている。(2019-12-30)

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〝低度経済停滞時代〟を 大転換する戦略ー井手英策『幸福の増税論』及び姉妹編を読む

国会議員を辞めてちょうどこの12月で7年が経った。令和の時代になったことでもあり、昭和から平成にかけての回顧録をまとめる作業を進めつつ、随時公表している。そんな私が現役であった時代は「失われた20年」とのフレーズが定着しているように、日本は概ね停滞の時間が続いたことに心底恥じ入る思いを持つ。かつて55年体制を打破すべく立ち上がっていた日々に比べ、なにかが狂ってしまった。としか云いようがない風景が今、日本中に広がっている。なんとかせねばとの思いを抱いた私が、井手英策慶應大教授の『幸福の増税論』と出くわした。公明新聞紙上で発表された論考のなかで紹介されていたのである。直ちに読み、続いて発売されたばかりの姉妹編ともいうべき『いまこそ税と社会保障の話をしよう!』を読み終えた。深い感動を覚えるとともに、なぜこの人の本を今まで読んだことがなかったのだろうか、と疑問が起きてきた▼それは恐らくこの人が民進党の政策ブレーンだったことと無縁ではないと思われる。私が親しかった歴史家の故松本健一氏や作家の石川好氏らも同党・政府の中枢に身を置いて、アドバイスを繰り返した。それが敢え無く虚しい結果となったことは彼らにとって無念だったろうし、今は無き同党の罪は深いように思われる。学問を続けて机上の議論を深めてくると、政治の現場で実地に試してみたいとの誘惑に駆られるものだとは、少なからぬ先達の例を待たずとも分かる。井手さんの場合も同じに違いない。真正リベラルを持って任じる井手さんは、文字通り筋金入りの人だ。その生い立ちや人生の軌跡を追うにつけ(結構、頻繁に本の中に出てきて興味深い)、今彼がそうあることが読むものをして納得させる。経済理論の具体的展開とは別に、この人の人生観が私を〝再起動〟に駆り立てて止まない▼井手さんら団塊第二世代は、親たちとは真反対の〝低度経済停滞時代〟を生きてきた。その挙句の果てが「世帯収入400万円未満が5割」もいて、「子どもを生むのを控えつつ教育費を削る」しかない社会。今や日本はひとり当たりGDPがかつてOECD諸国中2位だったのが、20位前後という貧しさにある。私を含めた古い世代は、その現実を真正面から認めたがらず、あいも変わらぬ「自己責任」に依拠し、〝再びの成長〟を期す傾向が強いように思われる。井手さんはこうしたところから説き起こし、「頼りあえる社会」に向けて「再分配革命」を提起し、「貯蓄ゼロでも不安ゼロの社会」への処方箋を示す。その目指す手立てはズバリ消費税増税であり、財政観の根本的転換である。具体的には「医療、介護、教育、子育て、障がい者福祉といった『サービス』について、所得制限をはずしていき、できるだけ多くの人を受益者にする。同時に、できるだけ幅ひろい人たちが税という痛みを分かち合う財政へと転換する」。つまりは「ベーシックサービス」構想の提唱である▼井手さんの2冊を読んで思うところは数多あるが、最も堪えたのは「いい加減、政官労使が未曾有の危機に向かって協調しあう『連帯共助』のモデルを考えなければいけない時期なのではないでしょうか。この当たり前の方向を示してくれる政党がこの国にはない。揚げ足取りばっかりが目につくようで‥‥」とのくだりだ。自民党政治を外から改革することに限界を感じて、内側からの変革という〝大英断〟に公明党が身を転じて20年。与党内野党としての必死の戦いが果たしてどこまで所期の目標に到達し得ているか。幾ばくかの成功事例を挙げることに躊躇はしないものの、残念ながら大筋で変えるに至っていない。いないからこそ、貧しい日本の現状がある。それって公明党のせいじゃあない、安倍自民党の‥‥、とは言いたくない。井手さんは、本の最末尾を、迫り来る「運の良し悪しだけで、多くの不自由を背負い込み、さまざまな可能性が閉ざされてしまう『選択不能社会』」を終わらせるために、「高らかに自由と共存の旗を掲げながら」「新たな文明社会を切り開く」べく、可能性への闘争をはじめよう。今すぐに。」と高揚感漲る表現で結んでいる。一個人としては「社会革命」よりも「人間革命」を優先させる、との自覚のもとに、この50有余年を走り続けてきた。その結果が「選択不能社会」とは。今、井手さんの主張に共感と違和感とが混じり合った複雑な思いが沸き起こってきている。(2019-12-18)

 

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身体に良いか悪いかの本当のところー『健康問答』『風邪の効用』を読む

先日大腸と胃の定期検診を受けるために、神戸のあるクリニックに行きました。かかりつけ医から紹介を受けたところで、この分野では権威とされているとのこと。3年前に初めて診てもらっていらい繋がりが出来ました。ただこの医師はとてもコワモテで、様々な意味で私とは波長が合いません。ニコリともせずに厳しい口調で、私の生活習慣の実情に立ち入って、警告的見立てを押し付けてきます。今回は私がアルコールを週に4回ほど嗜み、顔が飲むと赤くなってくるということだけで、食道ガンの可能性が高いと断定されてしまいました。結果は異常なし。ご本人は「予想は裏切られました」と苦笑いして仰ったのですが、この間の私の悲観的思惑を振り返るにつけ、今少し患者に寄り添う配慮をして欲しかったと思うことしきりです▼医師との付き合い方については、帯津良一さん(帯津三敬病院院長)が気分が合わない医者とは我慢することなく、変えればいいとの指摘が思い起こされます。この人と、作家の五木寛之さんは共に〝健康おたく〟と云っていいほどのその道の〝通〟ですが、最近読んだ二人の『健康問答』は、なかなか読ませます。とくに、「食養生の総チェック」という第1章が面白かった。健康談義は全く正反対のことが人それぞれの信ずるままに展開されることが多く、ややもすると普通の人はただ右往左往してしまいかねません。ここではそうした事例を取り上げズバリ見解を述べています。例えば、肉をめぐって「体に良いのか悪いのか」との議論についての結論は「肉はやたらと食べるのではなく、ときどき満を持して、ときめいて食べよう」。塩分はあまり取らない方がいいかとの問いかけについては、「塩分は必要である。ある程度意識的にとった方が良い」など、一味違った本当のところが次々と明らかにされ、大いに参考になります▼本格的冬の到来と共に、風邪を引くことが懸念されます。先に挙げた二人が推奨する本、『風邪の効用』をも読んでみました。野口整体で知られる野口晴哉さんが60年ほど前に講演したものです。この歳になるまで、「風邪なんか」と高をくくっていましたが、刮目させられるところがありました。野口さんも「風邪くらい厄介なものはない」し、「一番難しい病気」だと云います。ただ、面白いのは「風邪というものは治療するのではなくて経過するものでなくてはならない」と捉えていることです。いわば風のように身体の中を吹き抜けていくものと位置付けているところがユニークです。「風邪を上手に引き、上手に経過するということの方が意義があるのではなかろうか」とか、「風邪を全うすると、自ずから改まる体の状態がある」との記述には奥深い哲学を感じた次第です。首筋を始め、体の各部の温めることが大事と云ったような、細かな風邪の予防についての作法の披瀝も、とても惹きつけられました▼実は私が尊敬する音楽家にしてプロデューサーの榎田竜路氏(北京電影学院客員教授)がかねがね野口さんを人生の師と仰いでいると口にしています。この本を手にするまで、どういう人物か殆ど知りませんでした。若き日に不慮の交通事故から心身共に落ち込んで絶体絶命の危機に瀕していた榎田さん。その彼が野口さんの後継者である息子さんに出会い、様々な意味で師事することになったといいます。じっと顔写真を見つめていると、その佇まいと風格にグッとくるものを感じます。頭でっかちの口先だけの議論ではなく、身体を使っての映像制作技術や地域おこしの戦略を全国各地で訴える榎田さんとどこか通じるものがあるように思われます。私にとって、彼のお師匠さんとの初の出会いとなる本でしたが、野口さんには『整体入門』なる本筋の著作があるとのこと。「日本カイロプラクターズ協会」に深く関わり『腰痛にはカイロが一番』との対談電子本を出している私としては、複雑な心境ではありますが、近く読もうと思っています。(2019-12-12)

 

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二つの偶然に後押しされて音楽の深みにー恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読む

久方ぶりに手応えを感じる小説ー恩田陸『蜜蜂と遠雷』ーを読んだ。その出会いはいささか奇妙なものだった。この本がいかなる賞をとったものか、どんなに話題を呼んだかも、いや著者の性別さえ知らずに、偶々二つの偶然が読む気にさせたのである。一つは、引越しのドタバタの中で、日頃本を読む習慣をあまり持たない妻が、購入したままにしていたこの本をひょんなことから発見したことだった。もう一つは、この本とほぼ舞台や背景などを重ねもった、浜松での国際ピアノコンクールを放映するテレビ番組を観たことである。妻が本を買っていず、テレビもその番組を見る機会を逃していたら、間違いなく読まずにいたに違いない▼この本は、ピアノ・コンテストの第一次予選から本選までの4つのシチュエーションを、4人のコンテスタントを中心に克明に追ったものだ。音楽を文章で表現することの難しさは改めて言うまでもないが、著者は見事にやってのけており(ど素人の私の目にはそう映る)、この世界に無縁なものをしてグッと近づける貴重な価値を持つ。個性豊かな登場人物の描き方が最後まで(最終盤はいささか蛇尾の感がするが)、読むものを惹きつけてやまない。更に、この本に登場する様々な音楽家やその作品の手引書の役を果たしていて、それらの曲を一つ残らずCDででも聴きたくなってしまうのだから不思議だ▼前者の偶然は、衝撃的だった。3歳の時からピアノを弾くことを義務付けられ、その後ずっとその環境にいながら、ほぼ私との出会いを契機にピアノから遠ざかってしまった妻。その彼女が例え束の間でも読もう(買っては見たが呼んだ形跡はない)との気になった(でなければ買わないはず)のだから驚いた。後者の方は、実際に浜松国際ピアノコンクールを密着取材し、中村紘子に師事した青年をしっかりと描いていて観るものを惹きつけて止まず、この本をも読む気にさせた。勿論、小説と現実のピアノコンクールとの違いはあるが、どちらが欠けてもその本質の理解に肉薄は難しかったと思われる▼この二つの偶然の産物に後押しされて読むことになった私は、つくづくと音楽の世界の深遠さと、ピアノ弾きの運命の過酷さを改めて知るに至った。 私との出会いから妻を結果的にピアノから遠ざけてしまったことに、少なからぬ罪悪感を持ってきたのだが、この本を読み終えて、その必要はないと確信した。つまり、なまじっかな意思ではピアノ弾きの人生は到底全うできないことが再確認できるからだ。尤も、ピアノへの憧れとプロを目指した彼女の思いを、無残にもへし折った我がデリカシーのなさをも気づかせて余りあるのだが。幼き日の夢の再確認をしようと買ったものの読まぬうちに、亭主に横取りされてしまった妻は、間違いなく二度とこの本を開くことはないに違いないと思われる。一緒になってやがて50年。苦手な「音楽」は未だに遠い。(2019-12-3)

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