10月から月に二回、京都・四条と大阪・梅田のNHK 文化センターで連続して開かれる仏教思想家の植木雅俊さんの講義に出かけている。前者は『サンスクリット版縮訳 法華経』、後者は、『仏教、本当の教え』(共に植木雅俊訳・著)が教材である。既に年内だけで6回にわたって同氏の謦咳に接したことになる。懇切丁寧な講義は、巧みな比喩を自在に使って実にわかりやすい。区切りがくるたびに、「ここまでで何かご質問ありますか?」との問いかけ。参加者からのいかなる疑問にも優しく悠然と答えられる姿勢は見事としか言いようがない。第一回目の梅田教室で、私の挑発的質問ー女性差別などいま取り上げること自体が仏教の後進性を、世に印象付けるだけではないかーにも、込み上げる感情を抑えつつその重要性を説いて頂いた。今となっては我が生意気な不躾さに赤面するのみである▼そんな折、植木さんの人となりが全編に溢れる素晴らしい自伝風・仏教入門書を読んだ。『今を生きる仏教百話』である。ご自身の体験を随所に折り込んだ新聞連載のものに加筆、拡大(50話から倍に)されたものだけに、実に読みやすい。分かったようでいて分かっていない仏教をめぐる「常識」が次々と覆され、まことに面白い。その核心は、「人間として、人間の中にあって、言葉(対話)によって利他行を貫くのが仏教の本来の在り方」で、「その行為自体に人格の完成としての〝成仏〟がある」との記述だと思われる。古めかしい迷信や荒唐無稽な呪術的要素で塗り固められた仏教観が壊される。絶対神、創造主のような仏様や死んでのちに仏様になるのではなく、自己に目覚めた最高の人格完成者としての仏の姿が描き出される▼著者の凄いところは、物理学徒でありながら、40歳を過ぎて通常の仕事をする傍ら、サンスクリット語をマスターしたこと。更に仏教学者・中村元先生のもとで学び、お茶の水女子大で初めて男性として博士号を取得、法華経全訳を試みたことである。そこには中年からの二足の草鞋とか、両刀使いといった表現ではおよびつかない苦闘の歴史があったに違いない。この本には至る所にその苦労談が散りばめられていて興味深い。前人未到といっていい仕事ぶりに、中傷的批判が雨霰のように投げつけられたことへの悔しい思いと、心温まる賞賛への感謝の思いの交錯が読むものの心を掻き立ててやまない。権威の塊のような仏教学者の訳に489もの誤りがある、との著者の発見にはひたすら驚くばかり。罪深い学者の過ちを指弾されているくだりは他にも登場、その都度痛快観さえ湧いてくるから不思議だ▼「文学への影響」と「恩ある人々」の16話からなる最終二章にはまさに心和む。和辻哲郎が法華経研究に取り組んでいたとの話は初めて知った。弁慶と牛若丸の出合いに深く法華経が関わっていたことも。それらを通じて、和辻が「日本の教育の偏りと自らが『法華経』に無知であったことを反省する言葉を綴っている」としたうえで、改めて著者自身も「日本の文化、文学、芸術に与えた『法華経』の影響について学ぶべきだ」と自戒していることには強い共感を抱く。著者の師・中村元先生への厚い報恩の思いは今更取り上げるまでもないが、ここには母上への麗しい心が余すところなく書かれていて胸を撃つ。私の場合は母が58歳の時に、何の親孝行も出来ぬまま別れた。著者は百歳のご母堂に最高の喜びを味あわせてあげており、羨ましい限りだ。私には人生の師と、学問上の師と、仕事の上での師と3人の師がいるが、先年既に後者二人は鬼籍に入られた。人生の師への報恩に全身全霊を尽くさねばとの思いが今、強く漲ってきている。(2019-12-30)