Monthly Archives: 3月 2020

どう生きてどう死ぬか、自戒の日々ー佐藤優の『希望の源泉 池田思想❷』を読む

池田先生の『法華経の智慧』全6巻を読むキリスト者・佐藤優さんの知的営みは、大変に得難い。このところ、『世界宗教の条件とは何か』を読み終え、さらに毎週連載されている週刊誌『アエラ』の「池田大作研究 世界宗教への道を追う」を楽しみにしているものにとって、『希望の源泉 池田思想』は〝古典〟に挑む趣きが漂う。私が前回❶を書いたのが2月5日だから、いらい一ヶ月半。今度は❷を取り上げたい。まず、私の創価学会入信いらいの持論である「円型組織論」について。佐藤さんは、この本の中で、「学会の組織は、ヒエラルキー型、ピラミッド状の組織ではなく、『リゾーム(地下茎)型組織』なんですね。つまり、一つの価値観に基づいて多方向に伸びていくヨコのネットワークです。そして、そのネットワークのいわば〝基礎単位〟の一つが、それぞれの地元組織で行われる座談会であるわけです」という。恥ずかしながら、リゾーム型とは全く思いもしなかった。私はこの50年余り、自分が思いついた「円型」にこだわり続けてきた。座談会に結びつける発想もなかった。方向は間違いないものの、表現のありようにおいて佐藤さんに遠く及ばないなあというのが実感である▲ついで、第6章の「国難の時代に脚光を浴びる日蓮思想」(11章の「死生観」のくだりも関連)について。過去の日本において、田中智学や井上日昭(戦前の右翼集団「血盟団」)らのように国家主義と結びついた日蓮信徒の悪しき実例を挙げて、「日蓮思想に正しく光が当たることを願いたい」と強調している。かつて私が公明党広報局長であった頃、新聞記者諸氏としばしば懇談した。談たまたま宗教論に及び、ある記者から「どうして日蓮仏法というのは、過激なナショナリズムと結びつくのですかねぇ。今の創価学会を見てるとそんなことには繋がらないのですが、日本史を見ると、どうしてもねぇ」といった問いかけに直面した。私は、その時に「日蓮を敬う(うやまう)とも悪しく敬わば国滅ぶべし」との一節を挙げて、アプローチの仕方で誤れる方向性に傾きやすいことを日蓮自身が見抜いていたことを述べた。佐藤さんは、「国家主義と結びついたゆがんだ奉じ方であれば、生命軽視の方向に暴走してしまう場合はあります」としたうえで、「創価学会は『生命こそ宝塔』という宗教だから、生命軽視には決してつながらない」と断言している▲全編に漲る日蓮仏法、池田思想への正確無比の認識には驚嘆するばかり。それを認めた上で、二つほど、私の問題意識からの拙いこだわりを提起したい。一つは、「与党化」ということについて。佐藤さんは205頁で、北朝鮮の核兵器開発について、「公明党が与党であることの意義の大きさを痛感する」としている。更に「自民党単独政権であったら、もっと米朝対立を煽る方向に日本は進む可能性があった」とも。私は言わずもがなのことだが、この「与党化」は「自民党化」ではないことを強調しておきたい。自民党が未来永劫与党であることはあり得ず、いつなんどき違う政党が自民党に代わりうる存在になるかもしれない。民主主義が政権交代可能な政治的仕組みを用意するものだけに、その辺りの思い違いを自戒しておきたいと思う▲最後にもう一つ。「死生観」について。日蓮仏法を信奉する者が「生も歓喜、死も歓喜」(池田先生の米ハーバード大での講演)との言葉に象徴される死生観に立っている、として佐藤さんは評価(210頁から214頁)している。「死を忌み嫌わない姿勢」が毎日を生き生きと生きる姿に直結しており、「死を恐れずに真正面から向き合う姿勢」が、死の恐怖というものの克服という古来からの宗教の課題に確かな答えを提供しているのではないか、と。これこそ、入信いらいの私の命題であった。55年経って、この「姿勢」を不動のものにしているのかどうか。それこそ毎日のように問い続けている。(2020-3-25)

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ユニークな外科医の只ならざる提案ー邉見公雄『令和の改新 日本列島再輝論』を読む

今から25年ほど前だったろうか。赤穂に大変ユニークな病院長(赤穂市民病院)がいると聞いて、会いたくなった。当日その人は下駄の音も高らかにやってきた。背広に下駄。お顔には長い顎髭。いでたち佇まいからして大層変わっていた(当時は白髭でなく赤ひげに、私の目には映った)。以来、様々の場面でご指導、ご鞭撻を頂き、お付き合いを重ねてきた。誰あろう、つい先年まで全国自治体病院協議会会長(現在は名誉会長)を務めていた邉見公雄さんである。その彼がこのたび『令和の改新』なる本を出版された。一読、日本を再び輝く国に変えたいとの溢れんばかりの心情が伝わってきた。笑と涙なしには読めない。面白くてためになる深い本である。改めてこの人の凄さを思い知った。日本の行く末に関心を持つ人びと全てにとって必読の書だ▲邉見さんは、この本の中で多くの貴重な提案をされている。第一章と巻末の「平成こぼれ帳」に集中。この中から私が勝手にベスト5を挙げてみる。第一に、子供が選挙権を得るまで、母親に子供の数だけ投票権を与えること(父親は誰の子かわからないこともあり外す)。第二に、中央省庁の地方移転。46道府県に少なくとも一つの政府機関を置くことから始めるべし、と。一番急がれるのは、気象庁の沖縄移転。第三に、皇室の分居。高松宮家は高松に、常陸宮家は常陸水戸に、秋篠宮家、三笠宮家は奈良に、秩父宮家は秩父に。こうすることで、首都直下型地震の備えになる。第四に、国民皆保険制度と憲法9条を和食より先に世界文化遺産にすべき、と。どちらも世界に冠たる珍しさが輝く。第五に、“ふるさと医療〟の提案。心ある医師が僻地や離島に行き、一週間でも一ヶ月でも診療に行く仕組みを作りたい。いずれ劣らぬユニークで貴重なアイディアである▲一方、これらとは別にかなり無理筋と思われる豪快な提案も。ベスト3を挙げよう。第一に、東京オリンピックの中止。東京一極集中を更に強める二度目の開催ではなく、トルコ・イスタンブールに譲ることでの悲願の五大陸開催に繋がる選択をすべきだった、と。日本でやるなら、東北合同とか広島、長崎合同開催の方がインパクトが強かった、とも。第二に、リニアモーターカーの中止。〝ゼネコンのゼネコンによるゼネコンのための大工事〟は、発展途上国向けのショーウインドウであり、「21世紀の無用の長物」間違いなし、と。第三に、原発を廃止し、自然エネルギー発電に国民全体で取り組むべきである。地震や津波に安全なところはどこにもない、と。オリンピックは「新型コロナ騒ぎ」で俄かに真実味を帯びてきた。リニア、原発も改めて立ち止まって考える必要があろう。いずれも私は大賛成である。▲第二章は医師(外科医から病院経営)としての「自伝」の趣き。破天荒な活躍の中に、胸詰まる失敗談も挿入されていて極めて印象深い。人情噺としてこれ以上は望めないほどの〝栄養源〟が詰まっている。第三章は、日本病院団体協議会(日病協)の立ち上げや、中央社会保険医療協議会(中医協)での活動などを巡っての「回顧録」の風がある。総じて、ご本人は、遺言のつもりとして書かれたという。全編に漲る強い信念と大確信の所産であることがビシビシ伝わってくる。医療に従事する人はもちろん、全ての患者さんに読ませたい。日本中の医院の待合せ室に置かれることを望む。ただ、読点が極めて少ない分、当初は読みにくさがいささか付き纏う。だが、読み進むにつれて、著者独特のリズミカルな文章展開と分かって、もうクセになりそう。政治家、物書きの端くれとして、邉見さんの提案や生き方に心底から眩しさを感じる。こういう人こそ厚生労働大臣に、いや総理大臣になって貰いたかった。(2020-3-16)
                                      

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虚実ない交ぜあの手この手の小説作法ー諸井学『神南備山のほとぎすー私の新古今和歌集』を読む

「新古今和歌集」とくれば、普通の人は恐らく「小倉百人一首」を思い出す。私もこのお正月に孫娘と早取りかるた競争に興じたものの、見事に敗れ去った。来年の雪辱を密かに期しているとはいえ、覚束ないのが現実である。鎌倉時代の初期に後鳥羽院のもとに6人の選者たちが集められて編纂されたのが新古今和歌集(そのうちの一人藤原定家が百人の和歌を一首づつ集めたのが「百人一首」)というわけだが、これまで殆ど無縁できてしまった。そこへ、姫路の同人誌『播火』の同人・諸井学さんが『神南備山のほととぎすー私の新古今和歌集』なる本を出版したというので、読んで見た。彼の作品は『種の記憶』『ガラス玉遊戯』の2冊を読み、既にこの欄でも紹介してきた。その後、『夢の浮橋』という題で、和歌文学の真髄に迫る素晴らしい論考を同人誌上で三回に渡り連載され、今も続行中である。私はこれに嵌っており、この度の新刊(過去に同人誌で発表したものを再編成)にも、深い感動を覚えている。毎日新聞の書評欄に推薦をしている。私の入れ込みようが分かって頂けよう▼諸井さんの主張は、新古今和歌集は、ヨーロッパのモダニズム文学の手法を800年前に先取りしていて、「世界に先駆ける前衛文学である」ということに尽きる。この本は年譜を冒頭におく奇策を講じる一方、長め短め取り混ぜ、凝りに凝った手法を講じた12編の小説が並ぶ。どこから読むか。四番目の「六百番歌合」が語り口調もあって読みやすい。そこでは、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という定家の傑作を噛み砕いており、そのくだりが圧巻である。一見、春の歌に恋の世界を重ねただけの単純な情景を歌ったものと受け止められる。しかし、その背後には、漢籍における物語詩や故事を踏まえ、源氏物語の最後の巻を連想させるという企みがうかがえる、と。著者は「この連想による複雑化、そして『春の夜』『夢の浮橋』『峰』『横雲の空』と断片をちりばめるフラグメントの技法は、まさしく現代のモダニズム文学の手法」だとすると共に、「たった三十一文字の短詩の中に、定家は詰めるだけ詰め込みました。T・S・エリオットなど足元にも及ばぬといったら言い過ぎでしょうか?」とまで▼著者のこの文学的スタンスは、丸谷才一のものと共通する。表題にある「神南備山のほととぎす」(第9話)は、この著作のメインストーリーでもあるが、実は〝師を乗り越えた弟子〟の趣きなしとしない秘話となっている。簡単にいえば、第8代の勅撰集となる新古今和歌集が完成の直前になって、過去の7つの中に重複しているものがある(山部赤人作が『後撰和歌集』の中に)と判明。さてこの誤りをどう取り扱うかという話を小説仕立てにしたものである。実はこれ、丸谷才一『後鳥羽院』が創作のきっかけとなった。この本は初版と二版で大事なところの記述が違っている。初版での「詠み人知らず」が二版では「山部赤人」に、更に「古歌集」が『赤人集』にすり変わっている。これに諸井さんは気づいた。彼はそれを後鳥羽院との時空を超えた対談という驚くべき形式で、事細かに明らかにしているのだ。「初版の言説を第二版で翻しておきながら、そのことをどこにも断っていない。極めて不誠実です」と手厳しく後鳥羽院を(勿論、現実的には丸谷才一を)責めているのである。未だ読んでいない人にこのあたりは小むづかしく聞こえよう。著者にとってはここが肝心要。まさに鬼の首を取った感なきにしもあらず。(だから、勘弁してあげてほしい)▼諸井さんはこの本において、時空を超えた対談だけでなく、呆れるほど様々な実験的手法を試みている。「六百番歌合」は私も知っている地域の公民館での見事な迫真に満ちた講義録だ。‥‥と思わせたが、架空のもの(臨場感溢れる絶妙の面白さ)だった。「鴫立つ沢」はラジオ番組のインタビューという形式をとっているがこれも創作。他にも「民部卿、勅勘!?」では、なんと、現代生活の中に「平安日報」なる新聞を登場させ、定家らの動静を掲載する。また、「草の庵」には実在しない女房を登場させたうえ、「美濃聞書」なる史料を創作し、長い注釈を加えた。つまり、ありとあらゆる手法を駆使して「新古今和歌集」の実像に迫っている。これでは紀行文の形を取っている「隠岐への道」(最終話)も、実際には行っていないに違いない。まさに虚実ない交ぜにした、騙しのテクニック満載なのである。これを読んだ「京都検定二級」の私の旧友は「猫に小判だった和歌の世界。これで猫のまま死なないで済む」と喜ぶ。私は、国際政治学という学問を愛し、政治の現場で50年を超えて記者として、また政治家として、ウオッチャーやプレイヤーを演じてきた。そんな私には「殺すより盗むがよく、盗むより、騙すがよい」とのW・チャーチルの国際政治の本質を突いた言葉が印象深い。騙し上手は政治家、嘘つき上手は小説家が通り相場だが、さてさて諸井学という人は?(2020-3-9)

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